母国語の重要性
国とは何か?それは母国語だと言う人がいた。以前から母国語の重要性を解いていただけに、私はその答えに「なるほど!」と目から鱗だった。
まさに国とは母国語なのだ。
それは母国語にこそ、その国の文化、歴史、民族性が詰まっているからに他ならない。
例えば英語はアルファベットのみで単語が構成されている。いわゆる単純構造だ。また、それ故に世界共通語となり得たわけだが、その生みの親であるイギリス、それを大陸に伝えたアメリカ。彼らの民族性、歴史、文化は極めて単純だ。
例えば彼らの言う正義と悪は完全なる二新法であるし、母国料理に複雑性もない。歴史を見ても原住民の侵略から始まり今に至るまで、まったく変化していない(アメリカ)。これこそ彼らの母国語(英語)と国の根幹が同じである証拠である。
そして我が国、日本はどうだろうか。
カタカナ、ひらがな、漢字を組み合わせて単語や文章が構成されている。漢字に関しては、相当数あるだろう(おそらく全ての漢字を知っている日本人はいない)
このように複雑で難解かつ表現方法が豊富な母国語を、我々は幼少期から学んで行くわけだから、思考構造も複雑化に耐えられ、また表現の幅が広がるようにできているわけだ。
もちろん、言語の難解度が上がると、グローバルには適していないだとか、また個人差が出やすいという問題点もある。
しかしながら、私たちはそういった世界でも類希な表現の幅を持ち合わせており、それが今日の日本経済、日本国の世界に置ける立ち位置を確保してると言っても過言ではないのではないか。
にも関わらず、近年はグローバル社会(世界)への対応と銘打って、幼少期からの英語教育に力を入れて行こうという流れがある。
しかし本当に幼少期からの英語教育がグローバル社会に適応かつ勝負出来る水準にまで到達できるのだろうか?私は甚だ疑問である。
その根拠の一つは英語が母国語の国には、その国の文化、歴史、民族性を産まれたときから継承しているわけで、それらを全く受け継いでいない日本人が英語をしゃべれるようになったところで、彼らには勝ち目が無いのである(よほどの知性の持ち主なら別だろうが)
例えば、アメリカ人全てが日本語教育を始めたとしたらどうだろうか、それこそ私たち日本人が有利になることは目に見えている。
これと逆のことを日本人は公共の教育の中で取り入れようとしているわけだから、なんとも下愚な行為にしか見えないわけだ。
ある人が真の国際人とは何か?という問いに対し、「自国の歴史、文化を正しく世界に伝えるだけの力がある人だ」と答えていた。
まさに冒頭で書いた「国とは母国語である」に繋がる話である。
そういった意味でも、私たちが今後、子孫に伝え、また学ばせるべき教育の根幹は、母国語(国語)であるのは明白である。
そしてその母国語をベースに、フェアーな歴史、文化、風土、道徳を学んでこそ、世界と戦える人材が多く誕生していくのではないのか。
当たり前の話であるが、国語力の無い人間は数学も物理も出来なければ、正しく自分の意志を相手に伝える事も出来ない。
またそういった人間は伝えたいことすらも思い浮かばないだろう。
あくまで英語教育は附則的に「自分の考えを伝えるための道具(手段)」として考えるべき問題で、根本的には母国語がベースにあっての話だということを決して忘れてはならないだろう。
さらにこの辺りを脳科学的にも説明してみたいと思う。
脳の中で言語に携わる器官は、大脳皮質にある言語野である。丁度頭頂部付近の脳だ。この言語野の脳波を言語別に調べてみると、英語も国語も、その他の言語もすべて同じ場所が使われていたのだ。
これは何が言いたいかと言えば、個人差はあるものの、その容量が覚える言語の種類が多ければ多いほど、一カ国語あたりで割られてしまうということだ。
仮に言語野の容量が1Lだとしよう。そうすると、英語と国語が500mLずつに割れれて使われてしまうことになる。言い換えると、英語を学ぶ事で、母国語(日本語)の理解度も下がってしまうというわけだ(結果、どちらも中途半端になってしまう)
せっかく我々日本人は、このような複雑な言語を受け継ぎ、それによって文化、歴史、経済などを育んできたにも関わらず、このような英語教育によって、その根幹を揺るがしてしまうというのは非常に残念なことである。
国とは母国語である。今一度私たちはその原点に立ち返って、子孫の教育に生かさなければならないと私は思うのである。
最後に、母国語が強い(母国語でほとんどの国民が生きていける)国は、国家としても強いということは、今の世界をみれば明白なる事実であるとだけ言っておく。