夫婦の継続関係について
「夫婦の継続性について」
そもそも私は、結婚という制度の本質が、1970年前後に事実上崩壊したと考えている(もちろん、制度としては今も残っているが)
では元来、結婚の制度の起源はどこにあったのだろうか。
それは士農工商という身分制度の中で、その家系や土地を維持(又は年貢などを維持)することを目的にし、世代を跨いで家族(大家族)を縛り付けるために都合がよいがゆえに出来た制度だったのだ。(詳細は以前にも語ったので省略)
そして、その身分制度は明治維新後に解散したことになっては居るが、それでも昭和初期、中期までは、魚屋の息子は魚屋、自転車屋の息子は自転車屋と、暗黙の了解で家業を継ぐ事が当然とされてきた。
いわゆる世襲制度である(これは結婚の起源と同じ意味)
しかし、高度経済成長期に日本が入ると、魚屋や自転車屋の息子が大学に行き、サラリーマンになって家族を持ち、個別に家を保有するようになる(第三次産業の肥大化現象)
これこそ、世襲制度と大家族の崩壊である。これによって事実上、本来の目的であった結婚という制度は破綻したのである。
したがって、現在私たちが営む結婚生活そのものは、当初の目的とは明らかに異なるということを前提に考察せねばならない。
では、世襲制度維持ではなくなった結婚生活、制度が、現在はどのように形へと変化しているのかを説明していきたいと思う。
まずは、自由恋愛の結末と始まりからなる結婚である。それまでは、いいなずけや、お見合いが主流であったが、高度経済成長期以降は、かなりの割合で自由恋愛から結婚に至るケースが増えてきた。
これによって家族間や上下の関係性は薄れ、個人自由主義が進むのようになる。言い換えると、結婚するのも離婚するのも自分たちの自由であると言ったような考え方だ。
その結果、夫婦間の絆はその夫婦間のみで決められ(もちろんそうではない場合もあるが)、それを決めるファクターこそが、夫婦の継続性や関係性を大きく左右することになる。
ではそのファクターとは何か?
当然と言われるかもしれないが、まずは感情である。男女に置き換えれば好きか嫌いか、愛してるか否か、そういった感情がまず前提になるだろう。
特に知性が薄弱な者は、そこが重要なファクターとなり、感情の起伏によってのみ、関係が構築、または崩壊するといった不安定な状態に陥りやすくなるのである。
そして次のファクターは、極めて単純ではあるが、知性による損得である。
「今後、この相手と一緒に居て、得か損か」である。
もちろん、その損得には金銭面、精神面など様々なものがあるだろう。しかしそれら総合的に見た場合においての損得こそが、夫婦関係の継続性には最も大きな影響を与えているのである。
そしてその損得は好き嫌いの感情面にも大きく左右する。例えば100%相手のことを好きということは、よほど強い恋愛状態(妄想状態)にない限り、そうあるものではない。
したがって、相手に対して不満(嫌い)もあれば好意もある。それが混在し、その好意が嫌い上回るからこそ、「好き」となるわけで、その感情面において、損得は大きな役割を持っていると私は考えるのである。
そのことを踏まえれば、夫婦間においてその関係性を強化、もしくは継続するために重要なプライオリティーは明確であり、その答えは相手にとっての「得の強化」であると言える。
ただし、ここで損得に対する語弊もあるので、付け加えておくとするならば、損得は物質的なものだけでにとどまらず、広義的に捉えるべきものだということだ。
例えばその個人が抱く異性への好み、性癖、イデオロギー、趣味趣向、利害などもその一つであろう。
そしてそれらを相手が把握し(もちろん、相手も自分のそれを把握し)、それに対して互いに理解し、謙虚に努めることが出来るのであれば、その関係においての継続性は極めて安定化するであろう。
また逆にそれらが噛み合ない、もしくは知り得なかったり、努力を怠ることで、その関係性は極めて不安定化してくる。
それでも最後の砦となるものが、物質、金銭的な損得であろう。特に女性は自分一人で子供を含めて生きて行けるだけの所得が無い場合が多く、その有効性は極めて重要と言わざるを得ない。
また逆に男性の場合は、情が深く関与するであろうが、その根底にあるものは依存であると私は分析している。
いわゆる金銭的、物質的自立が可能であっても、精神的又は生活全般的自立が不可能であると損得の中で考えているのである。
また、子はかすがいと言うが、子供を主体的に捉えた損得、もしくは子供からの不愛を恐れる感情による損得も大きな影響を持つ。
しかし、この場合の夫婦間における継続性は限定的で、子供の成長、自立によってその損得は解消されるのである。
そしてこれら上記のファクターは、個人的に抱く相手への感情(好き嫌い)を超えるものであることは、多くの愛に醒めた夫婦の継続を見ていればすぐにわかることだ。
このように、私たちが今経験しうる夫婦間の関係性、結婚制度というものは、その発祥の意味とは大きく異なり、形を変えていることがわかってくる。
それ故に、私たちはそれを理解した上で、どう関係性を構築していくべきか、ということを真剣に、また深く考えて行動していかなければならないのである(制度が機能していれば最低限で良かった)
そしてそれを怠れば、そもそも破綻している制度であるが故に、その継続性が極めて希薄化し、危ぶまれるのである。
美意識について
「美意識について」
基本的に美意識は大きく分けて三通りあると私は考えている。
一つ目は人間の性に帰属する美意識であり、もう一つは種の根幹に帰属する美意識、そして最後は内的な自意識に帰属する美意識である。
まず性に帰属する美意識とは何か。
これは生理的現象の一種とも言い換えられるが、人間が持つ本能の最高峰の一つとして、子孫を残すという大いなる目的があり、その目的達成のために必要なツールとしての美意識である。
例えば美意識が欠如した異性に、性的な欲望、欲求は強まるだろうか。
もちろんある一定度の容姿があれば、美意識に関係なく、異性に好意をもたれる事はあるだろうし、性格や地位、名誉、知性など様々な要素が美意識の欠如を相殺する場合もある。それでも人間は、より良い異性を手に入れたいという欲求を持つものであり、その手段として美意識は外せない要素であることは間違いない。
しかし、その性に帰属した美意識の賞味期限は、あくまで子孫を残す又はその相手を獲得するいう目的にのみ有効であって、目的達成後には明らかな減退へと繋がるものである。
(例外的に、離婚や死別、またはそういった要因がなくとも、性的欲求によってそれが継続するケースもある。又、男性の場合は生理学的に目的達成後はさらに違う異性へとその目的を変えて行く性質を持っていることもあり、継続性がある場合もある)
この事から、本来は、性に帰属する美意識=美無意識と表現しなければならないかもしれない。また賞味期限がある以上、その美意識は普遍性を持たないとも言い換えられる。
しかし、その性に帰属した美意識が無美意識なのか、はたまた本質的美意識なのかの区別を他者が認識することは極めて困難である。
特にそれが容姿に携わるものに限定するならば、余計に困難を極めるだろう。それは異性を意識したものなのか、内的なものなのかの区分は本人すらも明確に区分けすることができないからである。
ではその本質的美意識とは何かについて説明したいと思う。
これは先に書いた種の根幹に帰属する美意識であり、個体差があるものの、全ての人類が潜在的に持ちうるものである。
例えばとても美しい花や海や山を見たとき、人はその美しさに大なり小なり感銘を受けるだろう。また人類又は民族が継承してきた文化的財産、文化的美に対してもまた同類である。
それらは年齢、性的なものとは一切関係性のない美意識であることはその対象物からしても明白であるわけで、人間(種)の根幹にある美意識であるということが説明つく。
しかしこれもまた、完全なる意識内であるかと言われればそうではない。性に帰属する美意識同様に無美意識なのである。
ではこれらの無美意識が、なぜ美意識まで昇華するのだろうか。それはまさに人間の持つ欲求があってこそ成しえるものであるし、逆を言えば、その欲求が希薄であると、その美意識は無意識下に潜伏してしまいやすくなるのである。
より美しいものを見たい、より美しいものを感じたい、その欲求が強ければ強いほど、それらは意識下に置かれ、それらを求めていくことができる。要するに、わざわざそこまで出向くという行為に繋がるのである。これは特に性的、生理的な目的を達した後に、表面化されやすく、また他の美意識が減退する、又はある一程度満たされていることで顕著化するものである。
最後に内的な自意識に帰属する美意識についてであるが、これは自己愛と他人の意想に帰属する美意識の二種類あると言ってよいかもしれない。
まず自己愛による美意識であるが、まさにこれは内的な欲求から発生する、自意識的美意識であり、その根幹部分が自己愛であることから、自我の欲求を美意識で満たそうとするものである。
またその美意識は性的なものとの区別が非常に曖昧であるが、確かにその性質は異なるものである。なぜならばそもそもの目的が明らかに異なるからであり、生理的、性的に目的を達成した後でも、この美意識は急激に減退する事が稀で、また自己そのものだけが対象になるわけではなく、その所有物や周囲、生き方など様々な分野においてその美意識を発揮するものである。
次に他人の意想からくる美意識であるが、これは内的な自意識と密接な関係性を持ちながらも、あくまで外に向けられた美意識である。
しかし、その外的な美意識の根幹は言うまでもなく内的であり、己が他者(配偶者もまた他者)からどう見られているのか、ということを意識した上で発生する内的な自意識による美意識である。
このように二つの美意識の根幹は同じ内的であっても、それは他者を介在させるか否かという意味で表層的には外的か、内的かに別れるのである。
これは、その個人がもちうる資質が大きく左右し、また精神的な構造や知性とも深く関係があると言えるだろう。しかしながらその境目はやはり曖昧で明確な区別を付けることは本人でも困難なことであろう。
ただそこに、確かに美意識が存在し、それを意識下に置ける事実は変わりないのである。
(もちろん、それを意識下に置くかどうか、また持つかどうか、といった点に関しては個体差がそれを左右する)
このように、大きく分類した三つの美意識(無美意識も含め)を人間は持ちあわせ、それが時期、年齢、性差、個体差によってその強弱、有無が変わり、ある種の人間性を構成していくのである。
もちろん、これだけで説明のつかない美意識も確かに存在する。その代表的なものが年配の女性に見られる異性を対象とした美意識である。これは言い換えると後期の恋愛衝動によって齎される美意識と言えるかもしれない。
この特殊な美意識には、性的なものに帰属する美意識の残像と、自己愛、他人の意想からなる美意識が大きく関わっているものの、どちらとも明確にそれらに当てはめることが出来ないという意味において、私は例外的扱いにしたわけだが、あえてそれを明確な区分として考えるのならば、私は孤独を恐れる依存性美意識と名付けるだろう。
最後に、なぜ私がここまで美意識というテーマに固執するかについて一言だけ申し上げたい。
それは「美意識は、人類にしか保有しえない、人生を楽しむ重要なツール」であるからであると。
誰でもわかるデフレ政策とインフレ政策
さてさて、詳しい人はさておき、政治経済にうとい貴方でも簡単にわかる、デフレ政策とインフレ政策をまとめてみました。
まず、経済をお味噌汁に喩えてみましょう。
経済が過熱気味=熱くて飲めない。
経済が冷え込んでいる=冷たくて不味い。
と考えて下さい。
そしてデフレ時は、みそ汁が冷めているわけですから、当然、火を入れます。それがデフレ政策です。
その逆のインフレは、みそ汁が熱いわけですから、氷を入れます。
さて、その火と氷を見てみましょう。
デフレ政策(火)
金融緩和
マネタリーベース(市場に出回るお金の総量)を増やすことで、市場取引を活発化させることで、需要を促進
財政出動(公共事業など)
市場の需要が低下している分を、政府が負担することで、デフレギャップを減らす
減税
減税によって可処分所得を増やし、需要を促進
規制強化
競争を減らし、価格低下を抑制
それに対し、
インフレ政策(氷)
金融引き締め
マネタリーベースを抑える事で、過剰な投資などを抑制し、物価を抑える
緊縮財政
政府が使うお金を減らし、需要過多を抑える
増税
可処分所得を減らし、消費(需要)を抑える
規制緩和
規制を取り除き、競争原理を促進させることで物価低下を促す
はい、こう見ると、非常にわかりやすいですね。
で、今はデフレなのかインフレなのか?
答えは簡単、みそ汁は冷えきっています(笑)
ということで、デフレ政策。当然、火を焚けば良いのです。
ではアベノミクスを見てみましょう。
第一の矢 金融緩和は、まさにデフレ政策(火)ですね。
続いて第二の矢の財政出動も、もちろんデフレ政策(火)。
ここまでは何も問題ないですね。
しかし第三の矢はどうか?成長戦略ですが、その成長戦略の一丁目一番地がどうやら規制緩和らしいのです(笑)
はいこれ、明らかにインフレ時の政策(氷)ですね。
そしてTPPも当然、規制緩和ですから氷です。
さらに消費税増税も、インフレ政策ですので、氷です。
不思議ですね~
方や火をばんばん焚いておきながら、一方で氷をぶち込むわけですから。。(笑)
要するにですね、経済政策の善と悪は、その時期がデフレなのか、インフレなのか(スタグフレーションなどは別)によって決まるわけで、
その政策自体に善と悪があるわけじゃないんですね。
その時期を間違えれば悪にもなるし、時期があっていれば善にもなるわけです。
さて、氷と火を同時に入れているアベノミクスですが、来年予定されている増税は、まさに大量の氷ですから、
こんなものを冷めたみそ汁に、今ぶち込んで良いわけありませんが、それを強行したときにどうなるか、、、、
まあ、容易に想像がつくのですが、増税に賛成していらっしゃるアナリストやらエコノミストの方々は、本当に馬鹿かスパイかのどちらかなのでしょうか?(笑)
それとも私が大バカなのでしょうか(笑)