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戦後、日本が戦争をしなかった本当の理由


日本は、なぜ戦後、一度も戦争をしなかったのか?いや、戦争をせずに済んだのか、という問いに対し、多くの日本国民はアメリカが守ってくれたから。と答えるだろう。


しかし、本当にアメリカは日本を守っていたのだろうか?いや間接的に、また結果的に守っていたことは事実としても、なぜ守る必要があったのだろうか。


そのことについて、私たち日本人はあまりにも無知すぎるのではないだろうか。


その結果、憲法九条があったからだとか、訳の分からない妄想を抱く国民すら生まれてしまったのではないだろうか。



そのような考えがそもそも妄信であると私は断言するにあたり、アメリカがなぜ日本を戦争しない国にさせたのかを冷静に分析する必要があると考えたのである。



また、その当時の状況と今の状況はあまりにも変わりすぎてしまった。故に、そのことも含め、簡潔に論じていきたいと思う。



まず戦後、アメリカは、軍事的強化と経済成長という、ある意味トレードオフの関係を打破するために、(両方を得るために)、アイゼンハワー政権によって、アジアの役割分割の政策を決めた。


この案は、アジアにおける中国と旧ソ連の脅威に対し、韓国、台湾、フィリピン、沖縄を軍事的拠点として強化する一方で、軍事的負担を限りなく軽減させた特区、日本を経済拠点とさせる案であった。


その案にまさに熱心だったのが、あのマッカーサーである。このマッカーサーによって、日本の憲法に九条が入れられ、経済だけに集中できる環境(安全保障はアメリカ及びその他のアジアに任せて)を整えると同時に、経済発展した日本の市場を食い種にしたのである。(経済奴隷化)



このように、アメリカは見事なまでもアジアを役割分割させることで、トレードオフであった自国の経済発展と軍事強化というバランスを手にする事になる。



このことに当時の日本人がどれほど気づいていたのだろうか。私は甚だ疑問であるが、このアメリカの戦略の恩恵を受けた日本は、他のアジア諸国を圧倒するほどの経済力を付けたと同時に、親米へと一気に舵を切る事になる。



まさにアメリカに守ってもらえたから日本はここまでの経済成長が出来たのだと言う「感謝」が生まれたわけである。



しかしながら、その「感謝」という言葉には違和感を覚えざるをえない。なぜならば、彼らはアメリカの国益(トレードオフを無くすための)意外は考えておらず、日本はたまたまアメリカの都合が良く、経済特区に選ばれただけに過ぎないからだ。



言い換えれば私たちの経済成長は、すべてアメリカの手のひらで転がった結果だったわけであり、そこに「感謝」などをする気にはさらさらなれないのである。



一方、そのアメリカの戦略によって恩恵を受けた事実は否定できない。本来必要である軍事的予算を掛けなかったことで、経済発展に集中できたことも否定はしない。



しかし、今後もそれが続いて行くかどうかという懐疑を抜きに、いつまでもアメリカ様が守ってくれるなどと妄信することは、愚の骨頂であり、まして憲法九条があるから我が国は戦争できないなどというのは論外である。



では、ベルリンの壁崩壊後のアメリカはどのような戦略を立てるようになったのだろうか。



それは膨れ上がった軍事複合体の維持と新自由主義の拡大(グローバリズム)抜きには語れない。



アメリカは冷戦の終結と共に、イデオロギーの対立という構造から、経済の平等を訴えるようになる。まさしく新自由主義の台頭(復活とも言える)である。


この新自由主義的価値観をアメリカは各国に押し付け、その結果、多くの発展途上国へと大量に資本を流入していくようになる。


しかしながらこの戦略が、不安定で脆弱な途上国に貧富の格差と債務を負わせることとなるが、ここでIMFが介入し、債務国から債権国へのマネーフローを確保し、途上国の構造を調整、管理下へと置くようになる(IMFが如何に胡散臭いものなのかがわかる)



またその結果、途上国の貧富の格差は置き土産として残り、またその国の政府における介入の度合い、言い換えれば主権が低下する事に繋がったのだ。(我が国も同じようなもので、TPPはその象徴)



これを世界に波及させていったのが,まさにアメリカそのものであり、新自由主義そのものであったわけだ。



しかし一方でそういった新自由主義の恩恵を受けた国もある。代表的な国がドイツであり、サッチャーイズムを行ったイギリス、そして外資を取り込んで成長した中国である。



特にドイツは輸出を伸ばす事に成功し、EUによって、さらなる経済成長を遂げて行くことになる。


また中国は、その経済成長によって、大幅な軍事予算を組み続け、巨大化して行くことになる。


その結果、相対的にアメリカは軍事、経済を弱め、覇権国としての地位も弱まる事になった。


当然、そうなったアメリカは、今まで日本という食い種を、今度は中国やロシアなどに求めて行くようになる(現在のクリミアの問題などはまさにその結果に起きたもの)。また同時に経済発展の基礎である資源も中東に奪いに行くようになったわけだ。



これが後にイラク戦争を招いた事は言うまでもないが、問題なのは前者の方である。冷戦時代には、敵国としてイデオロギーが対立していた国が、今度は自国の経済成長のために必要な国へと変わってしまったのだ。



言い換えれば、冷戦後、イデオロギーの対立から新自由主義の拡大路線へと変化したことで、アメリカは戦略を180℃転換してしまったのである。



そうなれば当然、我が国日本における地政学的重要性及び、経済に専念出来ると言う今までの体制が崩れ落ちる事になるのは必然だ。



では、我が国は今後どのように、このグローバリズムの乱気流の中を乗り越えて行かなればならないかを考えたい。





その一番は、アメリカ依存からの脱却であり、軍事強化と内需拡大の財政政策(反グローバリズム)である。


これらは安全保障上、そして経済の安定化をはかる上では不可欠な要素であり、過度に行き過ぎたグローバリズムによる弊害を最小化させることに繋がる。



またもしもそれらを行わなければ、経済は不安定化し、(金融市場の不安定化と実体経済の停滞、悪化)また中国などの脅威やエネルギー調達の困難など、様々な面において我が国を苦しめることになるだろう。



そうなったとき一番恐ろしいのは、急進的反動である。


第一次世界大戦後のドイツで見られたように、行き過ぎたグローバリズムが齎す格差は、結果、その反動としての専制政治やマルクス主義の台頭を許すことに繋がりかねないのだ。
(その結果が戦争である。もしも我が国を戦争のしない国にするには、まさにグローバリズムにノーと言わなければならないのだ)



我が国でも近年、共産党が再び息を吹き返し始めているのも、その予兆と言えるかもしれない。



健全な国家自立には、個人の自立が無ければならず、個人の自立には、正しい見識と実践的知識を要しなければならないと福沢諭吉はかつて言ったが、まさに今、私たちがその状況に立たせれていると言っても過言ではないのだ。


デイ・オブ・ザ・デッドのアンバーエール




デイ・オブ・ザ・デッドのアンバーエール


メキシコ産のビールで、なんとも凄い名前とパッケージ(笑)に思わず手に取ってみた。


味はというと、飲みはじめに珈琲のような香りが若干するものの、出がらし感たっぷり。


で肝心のモルトや焙煎、ホップの香り、風味はほとんどせず(やや苦みはあり)


フローラル系のアンバーのようで、マニア向けではない感じ。

家庭は社会の最小単位

「女性の活用」や「女性が輝く社会」なるものを政治家が公然と叫ぶ世の中。


そもそもその輝く場所である社会というものがどのようなものなのか、彼らは理解しているのでしょうか?


活用などという言葉を使っている彼らに、その意味が分かっているとは私には到底感じられません。



私の考える社会構成とは、まず段階的であり、包括的であると考えています。



まず何が段階的なのか、これはある意味、子育てに似た性質があるのではないでしょうか。


人は、産まれて死ぬまで、様々な経験を詰みながら成長していきます。その経験した過去が無ければ、その人間は成長どころか言語すらも解せない人間になるはずです。



また精神も同様でしょう。幼い頃の経験や体験(経験や体験をさせるのがある意味子育てとも言えます)に基づき、人は段階的に精神を成熟させ、また過去の経験、体験の質によって、その後、精神を崩壊させる場合もあります。



これらを国家や社会というマクロに当てはめるとどうでしょうか。


社会や国家の原点はもちろん、個人です。個人が存在しない限り、社会や国家などが形成されるわけもないので当然でしょう。


しかし同時に、個人だけでは社会は形成されず、ゆえに個人が社会や国家の最小単位になることもあり得ないのです(ここをはき違えた個人主義者が多いように思えます)


そしてその次にくるものこそ、家族というものです。産まれたということは、必ず産んだ人、育てた人が居るはずです。そして、そここそが社会構成の最小単位であることは言うまでもありません。


その最小単位が健全であることで、地域は健全に機能し、しいては社会、国家が健全に機能独立できるわけです(逆も然りです)


しかしながらその根幹の基底構造(インフラストラクチャー)の大事さを理解せず、それらを彼らの言う社会という漠然とした物の犠牲にしようとしているのが、まさに「女性の活用」であり「女性が輝く社会」の実体ではないでしょうか(酷い親だと思いませんか?)



ちなみにインフラの反対はsuper(スペア)です。これを経済的観点で比喩すれば、道路(インフラ)が無ければ流通(スペア)は出来ず、人々が欲しているものが買えません。そうなれば当然経済は成り立ちません。


経済成長の基盤はあくまでインフラストラクチャーの充実があってこそであり、そこをおろそかにすれば必ず、経済(スペア)は衰退するでしょう(まさにデフレ下における我が国の公共事業削減が良い例です)



言い換えれば、スペアはインフラありきなのです(解釈学的循環的に、インフラもスペアありきなのですが)




もう一度家族という単位に話を戻しますと、その家族というインフラが如何に健全であるかによって、社会というスペアが機能するか否かが決定してしまうのです。



この当たり前の本質が分かっていれば、まず一番女性が輝かなければならない場所が、「家庭」となるのは必然なのであって、その上で地域があり、経済があり、最後は国家があるという段階的なものが社会なのです。



またそれは先に述べたように、社会は家庭も地域も内包していますから、それらが包括性をもっているのは言うまでもありません。



相互に密接な関係性を持ちながら、それらが全体的にどう作用するのか、ということです。



これら二つの関係性を理解せず、矮小化し、切り取って、お金を稼ぐ場所=社会という間違った解釈をし、そこで輝けなければ、あたかも輝いていないとでも言いたげな「女性の輝く社会」構想には、呆れて物が言えません。




むしろ、その弊害は家庭という最小単位を崩壊させ、その家庭内においての文化(日本人の生き方)や伝統などを断絶させ、(インフラに喩えるのならば、道路を破壊し)結果、国家というものの存続すら危ぶむ事態に繋がるでしょう。



ましてやそれによって経済発展させるなど、馬鹿も休み休み言え!なわけです。



まず、スペア(経済)を充実させたいのであれば、インフラ(家庭)を充実させることが最優先であり、そのインフラが健全であれば必然的にスペアは充実し、その結果に国家の安寧があるというのは、少し考えれば誰にでも理解出来る話なのです。



しかし、そんな当たり前のことを続けてきた我が国は、ここ数十年で劇的にその方向性を見誤ったことは疑いようもありません。


大家族が核家族化し、核家族化が、個人化しと、完全に私たち先祖の文化を逆行し始めているわけです。



それを西洋はこうだからだとか、グローバルスタンダードだとか、そんな戯言で正当化する国民や政治家を見ていると、彼らが如何に自虐的で如何に劣等感の塊であるかを否応無しに思い知らされてしまいます。



我が国には、皇室を中心とした西洋にはない文化と歴史があります。その文化と歴史の根幹が我が国独自の家庭のあり方であり、男女の役割のあり方であり、それが生き方(文化)であり、それによって我が国をここまで大国へと押し上げたのではないでしょうか。




むしろ、それを蔑ろにした結果、我が国の経済はどうなったでしょうか?長きに渡るデフレ不況により、より女性は家庭を捨て、働き、それによってまた文化(生き方)が失われ、と、まるでデフレスパイラルに呼応するように、我が国の生き方(文化)が劣化、悪化していっているではありませんか。




ここから抜け出すには、家庭という原点に立ち返り、女性は家庭を守る!ということに徹しない限りは不可能であると私は確信しています。


またそんな私の考えに反論する人はきっとこういうでしょう。



「時代は変わって行くものだ」と。


確かにその時々で柔軟に変化して行かなければ、厳しい時代を乗り越えることが難しいのは事実です。



しかしながら、先人達が築き上げてきた文化の正統性(レジティマシー)を失ってまでそれをやるのであれば、必ず私たちはその指針を失い、虚無化し、路頭に迷う事となるでしょう。



ある考古学者が私にこんな話をしてくれました。



「時代とは後付けであり、本来時代などはない。あるのは、過去からの延長の先端にある現在だけだ」と。


この言葉を聞いた私は、時代を点ではなく線や面で考えない限り、私たちは大きな過ちを犯すだろうと思いました。



この考えにまさに逆行し、構造改革やらイノベーションだなどと耳障りの良い言葉を使い、世論誘導する政治家、メディアに対し、改めて憤りを覚えたものです。



またその方が国民も目先の生活が豊か(所得のみですが)になると、長期的視点を持たずに、思考停止して賛同するわけです(ある意味、自己正当化)



このようなことが続けば、きっと私たちの未来は散々たるものになるでしょう。



しかし今ならまだ引き返せます。



目先の小利に惑わされず、大局的に、そして長期的に社会や国家を考えて行かなければなりません(それが結果として個人のためにもなるのです)



そのためには国民一人一人が、精神を成熟させ、知恵を付け、自立する。まさに福沢諭吉の「学問のすすめ」や、「文明論之概略」で述べていることそのものです。



まず、今一度、自分自身の家族、家庭というものを顧み、正当化するのではなく、懐疑することが必要なのではないか、そう私は自分も含めて感じます。