家庭は社会の最小単位
「女性の活用」や「女性が輝く社会」なるものを政治家が公然と叫ぶ世の中。
そもそもその輝く場所である社会というものがどのようなものなのか、彼らは理解しているのでしょうか?
活用などという言葉を使っている彼らに、その意味が分かっているとは私には到底感じられません。
私の考える社会構成とは、まず段階的であり、包括的であると考えています。
まず何が段階的なのか、これはある意味、子育てに似た性質があるのではないでしょうか。
人は、産まれて死ぬまで、様々な経験を詰みながら成長していきます。その経験した過去が無ければ、その人間は成長どころか言語すらも解せない人間になるはずです。
また精神も同様でしょう。幼い頃の経験や体験(経験や体験をさせるのがある意味子育てとも言えます)に基づき、人は段階的に精神を成熟させ、また過去の経験、体験の質によって、その後、精神を崩壊させる場合もあります。
これらを国家や社会というマクロに当てはめるとどうでしょうか。
社会や国家の原点はもちろん、個人です。個人が存在しない限り、社会や国家などが形成されるわけもないので当然でしょう。
しかし同時に、個人だけでは社会は形成されず、ゆえに個人が社会や国家の最小単位になることもあり得ないのです(ここをはき違えた個人主義者が多いように思えます)
そしてその次にくるものこそ、家族というものです。産まれたということは、必ず産んだ人、育てた人が居るはずです。そして、そここそが社会構成の最小単位であることは言うまでもありません。
その最小単位が健全であることで、地域は健全に機能し、しいては社会、国家が健全に機能独立できるわけです(逆も然りです)
しかしながらその根幹の基底構造(インフラストラクチャー)の大事さを理解せず、それらを彼らの言う社会という漠然とした物の犠牲にしようとしているのが、まさに「女性の活用」であり「女性が輝く社会」の実体ではないでしょうか(酷い親だと思いませんか?)
ちなみにインフラの反対はsuper(スペア)です。これを経済的観点で比喩すれば、道路(インフラ)が無ければ流通(スペア)は出来ず、人々が欲しているものが買えません。そうなれば当然経済は成り立ちません。
経済成長の基盤はあくまでインフラストラクチャーの充実があってこそであり、そこをおろそかにすれば必ず、経済(スペア)は衰退するでしょう(まさにデフレ下における我が国の公共事業削減が良い例です)
言い換えれば、スペアはインフラありきなのです(解釈学的循環的に、インフラもスペアありきなのですが)
もう一度家族という単位に話を戻しますと、その家族というインフラが如何に健全であるかによって、社会というスペアが機能するか否かが決定してしまうのです。
この当たり前の本質が分かっていれば、まず一番女性が輝かなければならない場所が、「家庭」となるのは必然なのであって、その上で地域があり、経済があり、最後は国家があるという段階的なものが社会なのです。
またそれは先に述べたように、社会は家庭も地域も内包していますから、それらが包括性をもっているのは言うまでもありません。
相互に密接な関係性を持ちながら、それらが全体的にどう作用するのか、ということです。
これら二つの関係性を理解せず、矮小化し、切り取って、お金を稼ぐ場所=社会という間違った解釈をし、そこで輝けなければ、あたかも輝いていないとでも言いたげな「女性の輝く社会」構想には、呆れて物が言えません。
むしろ、その弊害は家庭という最小単位を崩壊させ、その家庭内においての文化(日本人の生き方)や伝統などを断絶させ、(インフラに喩えるのならば、道路を破壊し)結果、国家というものの存続すら危ぶむ事態に繋がるでしょう。
ましてやそれによって経済発展させるなど、馬鹿も休み休み言え!なわけです。
まず、スペア(経済)を充実させたいのであれば、インフラ(家庭)を充実させることが最優先であり、そのインフラが健全であれば必然的にスペアは充実し、その結果に国家の安寧があるというのは、少し考えれば誰にでも理解出来る話なのです。
しかし、そんな当たり前のことを続けてきた我が国は、ここ数十年で劇的にその方向性を見誤ったことは疑いようもありません。
大家族が核家族化し、核家族化が、個人化しと、完全に私たち先祖の文化を逆行し始めているわけです。
それを西洋はこうだからだとか、グローバルスタンダードだとか、そんな戯言で正当化する国民や政治家を見ていると、彼らが如何に自虐的で如何に劣等感の塊であるかを否応無しに思い知らされてしまいます。
我が国には、皇室を中心とした西洋にはない文化と歴史があります。その文化と歴史の根幹が我が国独自の家庭のあり方であり、男女の役割のあり方であり、それが生き方(文化)であり、それによって我が国をここまで大国へと押し上げたのではないでしょうか。
むしろ、それを蔑ろにした結果、我が国の経済はどうなったでしょうか?長きに渡るデフレ不況により、より女性は家庭を捨て、働き、それによってまた文化(生き方)が失われ、と、まるでデフレスパイラルに呼応するように、我が国の生き方(文化)が劣化、悪化していっているではありませんか。
ここから抜け出すには、家庭という原点に立ち返り、女性は家庭を守る!ということに徹しない限りは不可能であると私は確信しています。
またそんな私の考えに反論する人はきっとこういうでしょう。
「時代は変わって行くものだ」と。
確かにその時々で柔軟に変化して行かなければ、厳しい時代を乗り越えることが難しいのは事実です。
しかしながら、先人達が築き上げてきた文化の正統性(レジティマシー)を失ってまでそれをやるのであれば、必ず私たちはその指針を失い、虚無化し、路頭に迷う事となるでしょう。
ある考古学者が私にこんな話をしてくれました。
「時代とは後付けであり、本来時代などはない。あるのは、過去からの延長の先端にある現在だけだ」と。
この言葉を聞いた私は、時代を点ではなく線や面で考えない限り、私たちは大きな過ちを犯すだろうと思いました。
この考えにまさに逆行し、構造改革やらイノベーションだなどと耳障りの良い言葉を使い、世論誘導する政治家、メディアに対し、改めて憤りを覚えたものです。
またその方が国民も目先の生活が豊か(所得のみですが)になると、長期的視点を持たずに、思考停止して賛同するわけです(ある意味、自己正当化)
このようなことが続けば、きっと私たちの未来は散々たるものになるでしょう。
しかし今ならまだ引き返せます。
目先の小利に惑わされず、大局的に、そして長期的に社会や国家を考えて行かなければなりません(それが結果として個人のためにもなるのです)
そのためには国民一人一人が、精神を成熟させ、知恵を付け、自立する。まさに福沢諭吉の「学問のすすめ」や、「文明論之概略」で述べていることそのものです。
まず、今一度、自分自身の家族、家庭というものを顧み、正当化するのではなく、懐疑することが必要なのではないか、そう私は自分も含めて感じます。
そもそもその輝く場所である社会というものがどのようなものなのか、彼らは理解しているのでしょうか?
活用などという言葉を使っている彼らに、その意味が分かっているとは私には到底感じられません。
私の考える社会構成とは、まず段階的であり、包括的であると考えています。
まず何が段階的なのか、これはある意味、子育てに似た性質があるのではないでしょうか。
人は、産まれて死ぬまで、様々な経験を詰みながら成長していきます。その経験した過去が無ければ、その人間は成長どころか言語すらも解せない人間になるはずです。
また精神も同様でしょう。幼い頃の経験や体験(経験や体験をさせるのがある意味子育てとも言えます)に基づき、人は段階的に精神を成熟させ、また過去の経験、体験の質によって、その後、精神を崩壊させる場合もあります。
これらを国家や社会というマクロに当てはめるとどうでしょうか。
社会や国家の原点はもちろん、個人です。個人が存在しない限り、社会や国家などが形成されるわけもないので当然でしょう。
しかし同時に、個人だけでは社会は形成されず、ゆえに個人が社会や国家の最小単位になることもあり得ないのです(ここをはき違えた個人主義者が多いように思えます)
そしてその次にくるものこそ、家族というものです。産まれたということは、必ず産んだ人、育てた人が居るはずです。そして、そここそが社会構成の最小単位であることは言うまでもありません。
その最小単位が健全であることで、地域は健全に機能し、しいては社会、国家が健全に機能独立できるわけです(逆も然りです)
しかしながらその根幹の基底構造(インフラストラクチャー)の大事さを理解せず、それらを彼らの言う社会という漠然とした物の犠牲にしようとしているのが、まさに「女性の活用」であり「女性が輝く社会」の実体ではないでしょうか(酷い親だと思いませんか?)
ちなみにインフラの反対はsuper(スペア)です。これを経済的観点で比喩すれば、道路(インフラ)が無ければ流通(スペア)は出来ず、人々が欲しているものが買えません。そうなれば当然経済は成り立ちません。
経済成長の基盤はあくまでインフラストラクチャーの充実があってこそであり、そこをおろそかにすれば必ず、経済(スペア)は衰退するでしょう(まさにデフレ下における我が国の公共事業削減が良い例です)
言い換えれば、スペアはインフラありきなのです(解釈学的循環的に、インフラもスペアありきなのですが)
もう一度家族という単位に話を戻しますと、その家族というインフラが如何に健全であるかによって、社会というスペアが機能するか否かが決定してしまうのです。
この当たり前の本質が分かっていれば、まず一番女性が輝かなければならない場所が、「家庭」となるのは必然なのであって、その上で地域があり、経済があり、最後は国家があるという段階的なものが社会なのです。
またそれは先に述べたように、社会は家庭も地域も内包していますから、それらが包括性をもっているのは言うまでもありません。
相互に密接な関係性を持ちながら、それらが全体的にどう作用するのか、ということです。
これら二つの関係性を理解せず、矮小化し、切り取って、お金を稼ぐ場所=社会という間違った解釈をし、そこで輝けなければ、あたかも輝いていないとでも言いたげな「女性の輝く社会」構想には、呆れて物が言えません。
むしろ、その弊害は家庭という最小単位を崩壊させ、その家庭内においての文化(日本人の生き方)や伝統などを断絶させ、(インフラに喩えるのならば、道路を破壊し)結果、国家というものの存続すら危ぶむ事態に繋がるでしょう。
ましてやそれによって経済発展させるなど、馬鹿も休み休み言え!なわけです。
まず、スペア(経済)を充実させたいのであれば、インフラ(家庭)を充実させることが最優先であり、そのインフラが健全であれば必然的にスペアは充実し、その結果に国家の安寧があるというのは、少し考えれば誰にでも理解出来る話なのです。
しかし、そんな当たり前のことを続けてきた我が国は、ここ数十年で劇的にその方向性を見誤ったことは疑いようもありません。
大家族が核家族化し、核家族化が、個人化しと、完全に私たち先祖の文化を逆行し始めているわけです。
それを西洋はこうだからだとか、グローバルスタンダードだとか、そんな戯言で正当化する国民や政治家を見ていると、彼らが如何に自虐的で如何に劣等感の塊であるかを否応無しに思い知らされてしまいます。
我が国には、皇室を中心とした西洋にはない文化と歴史があります。その文化と歴史の根幹が我が国独自の家庭のあり方であり、男女の役割のあり方であり、それが生き方(文化)であり、それによって我が国をここまで大国へと押し上げたのではないでしょうか。
むしろ、それを蔑ろにした結果、我が国の経済はどうなったでしょうか?長きに渡るデフレ不況により、より女性は家庭を捨て、働き、それによってまた文化(生き方)が失われ、と、まるでデフレスパイラルに呼応するように、我が国の生き方(文化)が劣化、悪化していっているではありませんか。
ここから抜け出すには、家庭という原点に立ち返り、女性は家庭を守る!ということに徹しない限りは不可能であると私は確信しています。
またそんな私の考えに反論する人はきっとこういうでしょう。
「時代は変わって行くものだ」と。
確かにその時々で柔軟に変化して行かなければ、厳しい時代を乗り越えることが難しいのは事実です。
しかしながら、先人達が築き上げてきた文化の正統性(レジティマシー)を失ってまでそれをやるのであれば、必ず私たちはその指針を失い、虚無化し、路頭に迷う事となるでしょう。
ある考古学者が私にこんな話をしてくれました。
「時代とは後付けであり、本来時代などはない。あるのは、過去からの延長の先端にある現在だけだ」と。
この言葉を聞いた私は、時代を点ではなく線や面で考えない限り、私たちは大きな過ちを犯すだろうと思いました。
この考えにまさに逆行し、構造改革やらイノベーションだなどと耳障りの良い言葉を使い、世論誘導する政治家、メディアに対し、改めて憤りを覚えたものです。
またその方が国民も目先の生活が豊か(所得のみですが)になると、長期的視点を持たずに、思考停止して賛同するわけです(ある意味、自己正当化)
このようなことが続けば、きっと私たちの未来は散々たるものになるでしょう。
しかし今ならまだ引き返せます。
目先の小利に惑わされず、大局的に、そして長期的に社会や国家を考えて行かなければなりません(それが結果として個人のためにもなるのです)
そのためには国民一人一人が、精神を成熟させ、知恵を付け、自立する。まさに福沢諭吉の「学問のすすめ」や、「文明論之概略」で述べていることそのものです。
まず、今一度、自分自身の家族、家庭というものを顧み、正当化するのではなく、懐疑することが必要なのではないか、そう私は自分も含めて感じます。