1924年刊。ちょうど100年前。

高学歴で高給取りで真面目で質素で背の低い男「河合譲治」は、売春宿生まれで奉公に出されている、15歳のハーフ顔だが純ジャパ女性である「ナオミ」を猫みたいに拾ってきて、一緒に暮らし始める。自分好みの女に仕立てるという夢を実行する。やがて結婚し、ナオミの精神(学問)と肉体を鍛えようとするが、精神は断念し、肉体に集中する。

 

その時の谷崎の名言:

自惚れでいいから、「自分は美人」と思い込むことが、結局その女を美人にさせる。

愛する女に自信を持たせるのはいいが、その結果として今度は此方が自信を失うこととなる。そうなっては、容易に女の優越感に打ち勝つことはできなくなる。

 

ナオミは贅沢三昧、河合の給料と貯金を使い果たし、河合の田舎(資産家なのだ)からカネを出させる。そして、一切家事をせず、家はゴミ屋敷と化す。

 

とんでもないバカ女になったものだ。私ならとっくに離婚している。

 

甘やかすと要求レベルが上がるのは、猫とまったく同じ。ナオミの我が儘と贅沢はますますエスカレートする。河合をアゴで使うようになる。ふしだらな、下品な女になっていく。この辺りの描写は石原慎太郎『太陽の季節』を思い出させる。歴代最も下品で幼稚な芥川賞受賞作だ。ナオミの遊び相手も慶応のチャラいぼんくら学生だ。

 

この辺りから、早くブチ切れろ!怒鳴れ!と読者(私)はイライラしてくる。河合も何故自分がナオミに惚れているのか、今更ながら自問自答し始めるが、またナオミの言いなりに戻ってしまう。「パパさん」と呼ばれて、要はカネづる。読者(私)は呆れている。

 

そして、二人の男(その後、不特定多数だったと判ったが)と長年肉体関係になっていたことがとうとうバレる。二度とやらないと誓うが、この男、女の前で泣いて「もうしないよね」。アホか。女も嘗める。読者(私)は、この夫婦、どっちもアホや、と独り言つ。但し、河合はやっと理解する。「ナオミは私に取って、一箇の娼婦となった訳です」。「これはナオミの堕落であり、同時に私の堕落でもある」。娼婦と化した妻から逃れられない、寧ろ崇拝すらしている夫。夫のこの弱点を妻は知り抜いている。男が弱すぎる。娼婦妻にダメ男、救いようのない夫婦。

 

ところが、ナオミがまた例の慶応との逢瀬を続けていたことが判明し、ついに河合がキレた!「出て行け!」。やっと言ったか。遅いよ、お兄さん。

 

名言。「『見れば目の毒』のナオミが居なくなったことは、入梅の空が一時にからっと晴れたような工合でした」。よかったね。

 

ところが、一時間も経たないうちに、やっぱり別れたくないと翻意し、翌日には方々探しに出る。これには読者(私)は大変がっかりだ。まあ、耽美小説だし、読者をとことん不愉快にさせる、登場人物として魅力たっぷりのナオミの描写がここで終わるはずがないよね。もう先は見えたね。

 

彼女が土下座しろと云うのなら、僕は喜んで土下座します」。ホントのアホや、こいつ。ところが、西洋人宅を渡り歩いていると聞いて、「僕は、僕は、もうあの女をキレイサッパリ諦めたんです!」。よし、それでいい。諦めろ。というより、縁を切った方が貴方のためです。まだ若いんだし。

 

ところが、ナオミがまた入り浸るようになると、もうダメ。「妖婦」「淫婦」と形容しながらも、その身体に溺れる。

 

谷崎名言

女の『湯上り姿』と云うものは、---それの真の美しさは、風呂から上がったばかりの時よりも、十五分なり二十分なり、多少時間を置いてからがいい」。

ふやけた肌が冷えて透き通ってくるらしい。

 

「これから何でも云うことを聴くか」

「うん聴く」

「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」

「出す」

「あたしに好きな事をさせるか、一々干渉なんかしないか」

「しない」

「あたしのことを呼びつけにしないで、『ナオミさん』と呼ぶか」

「呼ぶ」

「じゃあ馬でなく、人間扱いしてあげる」

 

終わった。そして、河合は田舎の財産を整理して現金20~30万円(今の4~6億円)にして、半分を女に渡す。女の要望通り、横浜山手の洋館を買う。

 

ナオミの男遊びは続く。

谷崎名言

人間は一度恐ろしい目に会うと、それが強迫観念になって、いつまでも頭に残っている」「浮気な奴だ、我が儘な奴だと思えば思うほど、一層可愛さが増してくる」。

これで、完。

 

100年前の話だが、こんな女、こういう男、この令和の世にも存在する。