言わずと知れたこの名作を、何十年ぶりかに手に取りました。

 

三部作『三四郎』・『それから』・『門』。

 

『それから』は『三四郎』のそれからで、『門』は『それから』のそれから。続編じゃないけれども、それからどうした?と知りたくなるのは読者の常。

 

三部作とはいえ、飄々としたユーモアに満ちた、憎めない『三四郎』と違って、『それから』の代助は妙に理屈っぽく、独善的で、身勝手で、その対極にあります。

 

そこが読者がイラッとするところであって、漱石先生の狙いをどう解釈したらよいのか、凡人の想像を超えたものがあるのだろうと思う次第です。

 

●裏表紙から抜粋:

長井代助、三十歳、無職。親のカネでぶらぶらと暮らす自由の身の彼はある日、友人平岡と再会する。生活に困窮する彼を助けようと奔走するうち、次第に平岡の妻・三千代にかつて抱いていた恋心を思い出し・・・・・・。

 

 

本作発刊は1909(明治42)年。新興ブルジョア階級にある父の財力に依存して、毎日ぶらぶらニート生活。帝大を出ているし、自学もしているので、組織に属さないエセ学者と云えないこともないのですが、無職なのに書生や女中を置くところ、甘ちゃんモラトリアムの権化といえるでしょう。

 

代助は独自の哲学を披露します。

当初はそれが漱石哲学に繋がるものなのだろう、という推測の下、読者は読み進めるのですが、すぐに、その推測が大間違いであることに気づきます。最終的に不幸になる代助は、漱石哲学のアンチテーゼとしての存在である、と解釈するのが普通でしょう。

 

・働かないのは世の中が悪いから

・人間の目的は生まれた時に決まっている

・願望、嗜欲の遂行こそが人生の目的

ダメですね。。。

 

「裏表紙」にはこうあります。

●かつて抱いていた恋心を思い出し

 

一度抱いた恋心を忘れることはありますか?しかも親友の妻となった女性への恋心を。

 

思い出した後、親友が経済的に困窮していること、夫婦間に愛情が薄れつつあることを観察したうえで、親友に黙って三千代に言い寄る、愛に気づかなかっただけ、と言い張る、二人の関係は運命だと言い切る。独りよがりもいい加減にせい!と読者のイライラ感はピークに達します。

 

抜粋

●「僕の存在には貴女が必要だ。どうしても必要だ」

「打ち明けて下さらなくっていいから、何故、何故棄ててしまったんです」

 

●「貴女はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」

 「希望なんてないわ。何でも貴方の云う通りになるわ」

 

↑こういうやり取りをした後で、父親から勘当され、元手をなくした代助。三千代さんとの関係も白紙。親友との関係も潰えます。稚拙な自我を追求し、無目的な行為を目的としていたつけが回ってきます。

 

何もかもなくした代助。

 

目の前のすべてが赤く染まり、彼の頭は火のように火照ってきます。「代助は自分の頭が焼き尽きるまで電車に乗っていこうと決心した」というアンニュイな日本語は、まるで平成・令和の小説のようです。どこにも持っていきようのない焦り。

 

明治の大文豪がいかに先進的だったか、よくわかります。当時の日本人は貪り読んだのでしょうね。そういえば祖父母の蔵書にもありました。

 

●「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞こえるように云った。

 

って、すごくありません?

狂気です。

 

祖父母が存命なうちに漱石談義でもすればよかった、と後悔。

 

(写真は表紙から引用)