るろうに柴山両賀② | 中川清秀公・本陣

中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

「るろうに柴山両賀!」(マンガじゃないですよ!)以前ご紹介しましたが覚えてらっしゃいますか?

「るろうに」って漫画の造語じゃなかったのですよ。そうです元足利幕府の御家人で室町幕府滅亡後堺に行き商人となって莫大な富を築いた彼でしたが・・・・


我も所領ハ不持流浪人なれハ、(中略)此上は所詮何人の手になりとも与力して討死せんと思ひ定め・・・

                                        中川氏御年譜 太祖清秀公より


と「千両箱」を担いで中川家に仕官して来た異色の人物。此度「ザビエルコード」の著者である甲山堅さまより興味深い御話を伺いましたので改めて柴山両賀についてご紹介します。



「岡藩諸士系譜」で柴山両賀=津山漢兵衛が河内に所領を持っていた室町御家人だったことがほぼ特定できました。恐らく北河内だろうと思います。実はどの辺りの出身か?で推理が変わって参ります。

御承知のように、津山漢兵衛は、足利義昭都落ち・幕府崩壊の後に、堺浦で柴屋漢兵衛と名乗り“燃えるもの”を商って僅か7,8年間で外洋船50隻保有するほどの巨万の富を稼ぎ、千両箱を手土産に茨木城に乗り込みました。

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どうやって短期間にそれ程の富を蓄積できたのか???そこに隠されたミステリーに興味があります。京阪線の“津田山手駅”の近くの生駒山麓に、比較的大きな山城“津田城址”が埋まってますが、あの鉄砲ビジネスを始めた“津田監物算長”一族所縁の城と存じます。そして、津山漢兵衛も同じく、生駒山地全域を庭にしていた“楠木”党に連なる人物と考えています。つまり“津田監物”と“津山漢兵衛”は血縁・地縁で繋がっていた。

ご存じのように、“津田監物”の後を継いで、芝辻清右衛門が堺で鉄砲ビジネスを手広く商う訳ですが、鉄砲は“火薬”=硝石が無ければ、役立たずの鉄の筒に過ぎません。誰かが裏で、火薬つまり“燃えるもの”を取扱い滞りなく顧客に供給出来なければ、鉄砲ベンチャービジネスは成立しません。そして何よりも海外から“硝石”を輸入する必要あります。

柴屋漢兵衛は堺浦で芝辻清右衛門の店の裏側で、自ら硝石を輸入し火薬を調合して店表に供給していたのでは???

つまり“柴山”と“芝辻”は共同事業者だった!そうでもなければ短期で巨万の富は得られません。単なる柴や薪の商売では高が知れてます。

それに名前の共通性が引っ掛かります。“津田”と“津山”。 “柴山”と“芝辻”。

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柴山漢兵衛は火薬貿易商人として、いったいどの辺りまで外洋船を仕立てて出掛けたのか??

インドのゴア周辺に硝石鉱山があったそうですから、案外そこまで行ったか?・・・あるいは南洋の島々(今も肥料グアノ取ってる島ありますね)?

大航海時代に南洋の海を正に“るろうに柴山両賀”を想像するだけで夢が広がります。

実は、私儀、出来ることなら“大航海時代”に生まれたかった!

                                   では、甲山

いやぁ全く驚きました!そんなことまでわかったのですね!何ともすごい人物です。戦国時代はとてもグローバルな時代だったのです。江戸時代のイメージで見ていてはダメですね。これからは折々に甲山さんのお話紹介させていただきたいと思います。

さて、その甲山さんの著書、中川公ゆかりの豊後竹田市の推奨図書ともなった「ザビエルコード」についての紹介です。


筆者の家には明治になるまで秘密とされていた岡藩に関する古文書が伝わっており、その古文書にもとずく岡藩の驚愕の事実が書かれている。

                          広報たけた平成24年6月号より

今年は「大坂夏の陣四百年」、またキリシタン武将「高山右近没後四百年」にあたるそうですね。そのあたりのことも「ザビエルコード」に描かれています。これを読めばあなたの戦国史観が変わること間違いなし!中川ファンの方もそうでない人もぜひご一読を!