(ココログでかなり前に書いたものを改訂)

 

「儺の国の星」は真鍋大覚氏の著作。
続編として「拾遺」がある。

 

彼は物部氏の子孫であり、先祖は古くは鹿島の神官、太宰府の星暦を作っていた。
鹿島の神が物部の神である証でもある。



元は那珂川の「広報なかがわ」に「那珂川の星紀辰位」として連載されていたもの。
那珂川市発行で、現在、絶版です。 

 

 

  那珂川は祓宮の故郷

 

かの本にはこう記されている。


那珂川は祓宮(はらえど)の故郷」

 

ここは日向の橘の小門の阿波岐原の地。
以下、その箇所を引用。

引用1 「儺の国の星」より 真鍋大覚氏 著作
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春秋の頃は冬至の前に暦日の年度調整をいたしました。
   (中略)
昔の神官庄家は、冬至を前にして井水で身を潔め、以て新しき年の日振りの机の前に座りました。
那珂川は祓宮(はらえど)の故郷でありました。
古事記の日向の橘の小門の阿波岐原の物語が思い出される年の瀬、年の背であります。

那珂川の西隈あたりを、昔は立花とよびました。
”たちばな”とは虹の根が大地に率直に登る部分の光景でありまして、特に夕日に映えるところから、中の黄がめだたず、両側の赤と紫が一つに滲んで溶けあった朱にみえる現象を云いました。

”たちばな”は祓の言葉では”をと”の冠辞になっております。

小戸(門)とは山脈が左右両岸にそびえ立ち、その間を往古は海流潮流が勢を荒だてて通ったところでありましたが、年経た今は田圃に作られて盆地となり、しずかな川が淀むところになりました。

 土を掘ればいたるところに井戸が湧きあがってきますから、地形からして水蒸気の柱が立ちやすくなり、ここに虹の足が鮮に色こくみえることになります。

これが”たちばなのおど”なる成句が三千年の間、神官によって詠まれ、居会はせる氏子百姓漁師に何の不思議もなく云い継がれ、聞き継がれて今日に及んでいるのであります。

 

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その「那珂川の小門原」という場所。
そこは神功皇后が禊をした地であり、神話の筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原であった。

 

ここは「岩戸」でもある。

 

 

 

 

  岩戸と猫嶺城と高良神

 

「儺の国の星」には「岩戸」についての記述が幾つかある。

高良神に繋がるものがあった。

 

抜粋2 「儺の国の星 拾遺」 より

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万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手と下手の二つに別けて、その境の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑(こが)になると、そこに晩生の陸稲を植えた。


貯水の面積までが活用される仕組みであった。
この農法は今も大陸では保存されており、瀦水沓(ちょすいとう)と今も呼ばれている。
天平の昔までは、倭人はこれを”ゐみず”或は”いほと”といった。
さきほど出た射水も那珂川の岩戸も、かつての瀦水沓の和訓を教える地名である。


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この農法、日吉神社の案内板に記載されていた「さるた」と同じ。

 

 

春に浅瀬の多い川を止めて湖を作り、これに苗を植え夏の日照り時に水を引いて秋の収穫まで干し上げる古式栽培のことでもありました。」

これをさるた農法と呼んだとある。
(「さるた」とは赤米のことでもある)

 

サ・サルは古語で水辺に生える草=稲。

「さるた」とは、乾田の農法であったのだ。

 

日吉神社の神である猿田彦は、その農法を広めた者であったのだろう。

この地は、猿田彦発祥の地とされている。



これを示す記述が「儺の国の星」の別の場所にもあった。

 

古代、市ノ瀬辺りは、猫城岳を北の端として湖を形成しており・・・
 

猫城岳の横の那珂川を堰き止めると、北側が湖になり、稲を作っていたというのだ。

 

図1 地図はYAMAP

 

図1の1が猫嶺城

4が日吉神社


 

 

写真の奥が猫嶺城。

手前が那珂川。

 

ここで川を堰き止めると、北側(右)が湖になる。

日吉神社の「さるた農法」は、まさにこの土地で行っていたのだ。

 

引用2の瀦水沓(ちょすいとう)も、これに当たる。

これも「いほと」=岩戸。

 

 

この猫嶺城、筑前風土記には「高良神が若い頃に住んでいた」とあった。

彼は日吉の神、猿田彦神だ。

 

 

つまり、

瀦水沓(ちょすいとう)と日吉神社の「さるた農法」は同じ

瀦水沓はいほと→岩戸

それをしていたのは猫城嶺の北側

日吉神社の猿田彦神は、さるた農法=岩戸を広めた神

猿田彦神が岩戸の神ということになる。

 

 

このさるた農法の神は、猿田彦で岩戸の神。

猿田彦は、猫嶺城の主である高良神。

彼がこの農法を広めていたのである。

 

 

  日吉の神は高良神

 

「日吉神社」の地は南畑の市ノ瀬という地区で、地区の岩戸よりも奥(那珂川の上流)。

図1の4。



日吉神社

 

日吉神社に祀られているのは、猿田彦神と地元ではされている。

 

だが、神社庁に記載の神には、猿田彦の名は無かった。

 

天御中主神、大己貴神、日子穂穂出見神、大山祇命、八雷神、菅原神、迦具土神、田心姫神、高淤加美神、闇淤加美神、手力雄神、宇賀魂神、表筒男神、中筒男神、底筒男神、須佐之命、天照大神。

 

しかし、ここは日吉大社の元宮の一つ。

 そこから「猿田彦神と大山祇神と大己貴神は同神」と繋がってる。

 

ゆえに、ここに祀られている神は猿田彦神。

 

 

それどころか、祭神は全て二柱に集約される。


猿田彦は住吉でもあるのだ。

よって、ここには住吉の元宮もある。 

 

 

さらに、住吉神は筑後国一之宮の高良神であり、物部の祖神、饒速日神に繋がった。

 

つまり、猿田彦は高良神であり、大己貴神である饒速日命。

 

 

 

  祓いの神の故郷

 

この地は神話の故郷、祓いの神の故郷であった。

「儺の国の星」には、この町に伝えられてきた星の名が綴られている。

玄界灘を行き交う船人にとって、星は唯一の道しるべ。
数多の星の名が付けられ、遥かな時を連綿と受け継がれてきたのかと思うと胸が熱くなる。

かの本には、その昔、那珂川では”天の川(あまのかわ)”を”いそのかわ”と呼んでいたともあった。
この地では”あま”と”いそ”が同義。

ここでは、天の神は磯神(いそのかみ)=高良神(安曇磯良神)。



那珂川に伝えられてきた星座五十六宿。
以曽良星(いそらのほし)。
                       .
この土地の産土神は、現人の神。
オリオンの三つ星の化身である住吉の神。

星を意味する「布留」は、饒速日神の名の一つだった。

彼が磯良神=高良神ならば、ここに在るのは必然になる。

 

現人神社*夏越祭
               

こんなに気の遠くなるような時を経ても、ここに生き続ける奇跡。
彼は神功皇后と後に名を変えられる、御炊屋姫と共に在り続けた。
 
 
二柱は豊受大神・宇迦之御霊(うかのみたま)でもある。
 
稲の神は猿田彦神=二柱の岩戸の神であった。

 

 

神話の「岩戸に隠れ、現れた神」は、この地に存在していたのである。

 

 

 

 

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