胴部及び蓋に魚子地に吉祥文である松竹梅鶴亀文と「丸に三つ葉葵」の家紋が毛彫りで施された徳川家の姫君が使用したと考えられる銀製潼子碗(じょうず碗)です。胴部に3か所、蓋に2か所、「丸に三つ葉葵文」が入れられており、高台には青海波文が施されております。婚礼調度の化粧道具の一つです。
30年以上前に馴染みの骨董店で「白粉入れ」と言われて購入しましたが、お歯黒道具(潼子碗)でした。この器は普段は蓋が簡単に外れますが、蓋を回していくと1か所でピタッと収まり、上部のつまみを持って持ち上げてもは外れません。製作者である職人の技術に感心します
大名のお歯黒(鉄漿)道具の潼子碗やお歯黒注ぎは殆どが銀製で出来ています。韓国では昔から食事の箸と匙は銀製を使用していますが、これは銀が毒に反応するといわれているからで、王族や両班(支配階級の文官・武官)から広まったといわれます。大名の姫君が銀製のお歯黒道具を使用する理由もこうした理由からかも知れません。
下の写真は平成2年1月、静岡県立美術館で開催された徳川美術館名宝展図録から転載させて頂きました。写真➀は2代藩主光友公夫人千代姫(3代将軍家光の長女)のお歯黒箱と銀製碗、写真②は11代藩主斉温公夫人福君(近衛家)の婚礼調度品です。
※ 潼子碗はお歯黒注ぎで沸かした鉄漿(お歯黒水)を入れ、鉄漿水と五倍子粉(ふしのこ)を筆で交互に歯に塗ると黒く変色し定着します。これがお歯黒です。お歯黒は古代から行われていたといわれますが、平安時代には男性貴族が、また戦国時代には武将の間にも流行しました。我が郷土の英雄今川義元公も公卿の風習を守りお歯黒を施していたといわれます。江戸時代になると公卿(五位以上の官位のみが許された)のほか既婚の女性(引眉とセット)のみが行うようになりました。
明治になり来日外国人から女性差別との批判が出されたため、明治政府は何度かお歯黒禁止令を出しましたが、一部地域では昭和初期まで続いたそうです。公卿への始まりは口臭と虫歯予防にあったといわれます。