宝塚雪組 壬生義士伝 東宝観劇感想①時代の物語と個人の物語 | 百花繚乱

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駆け出し東宝組。宙から花のように降る雪多めに鑑賞。

 

 

「人の上に立つ者は、一家の主にせえ、殿様にせえ、将軍様にせえ、下の者を守らにゃならねえ」

 

 

小説の壬生義士伝が、末端侍の目から見た幕府制度と侍の使命を問い直す時代の物語だったとすると、宝塚版の壬生義士伝は、家族愛と友情に力点を置き、個人としての生涯を描いたお話だった。

 

テーマはかなり違って見えたが、あの大作を名台詞を盛り込みながら、たった一時間でまとめたのはお見事。

特に、故郷の妻・しずと京で出会う商家の娘・娘みよを真彩ちゃんが二役つとめる配役は、恋と郷愁の切なさを引き立てて、夏の蛍とあいまって宝塚らしい美しい演出だった。

 

主題歌 「石を割って咲く花」 がすばらしい。

叙情性豊かな美しい曲で、雪降る南部の情景が見えるよう。

だいもんの幻想的な歌声に、尺八の音色が風のように吹き抜けて、作品世界の奥行きが一気に広がっていく。

歌うパートは少ないのだけれど、真彩ちゃんの透明感のある美声が、ストリングスみたいに滑らかにだいもんの分厚い声に重なるのがえもいわれぬ余韻を残して、だいきほの歌がコンビとしていよいよ相乗効果をあげているのがとても嬉しい。

 

 

■歴史観の欠如

正直に言うと、石田先生の演出は、大きな歴史観の乏しさが気になってしまう。

「誠の群像」 もそうだったけれど、新撰組をとりまく時代背景の意義の描写があまりにも少ない。

新撰組をどうとらえるか、時代をどうとらえるかが幕末物の要だと思うが、それがないから本来のテーマが消失して、誰からも愛された、家族を大切にした、愛し愛されたというホームドラマに収束してしまう。


宝塚版壬生義士伝では、身分制度の過酷さ、米をつくる百姓を守ること、徳川政治の終焉の勢力関係の変化、それらがほとんど描きこまれていない。

だから、吉村が「義士」である所以が伝わりにくい。

 

鹿鳴館の面子が、幕末という時代を振り返り解説する形をとっているけれど、その歴史観はあまりにも表面的だと思う。リストラとか玉の輿にいたっては、石田先生を油小路に呼び出したくなった。

 

 

今回の壬生義士伝は、また別の物語だったと思う。

貧困と殺しあう世の中で、家族を思い続け、人への優しさを失わなかった武士が、帰郷の望みかなわず壮絶な死をとげる物語。

時代という大きな枠でなく、個人としての生涯に力点を置き、家族愛と友情を描いたお話

 

それはそれで、きちんと成立していて、胸を撃った。

だいもんの演じる吉村の二面性は、身分制度のひずみに対する静かな怒りを漂わせていた。

最後の切腹のシーンは、家族を残し死にいく無念と、ままならぬ彼の人生の悲哀を存分に感じさせて涙を誘う。

隊士達のたたずまいは幕末時代の不穏さを、彩海せらちゃん達はじめ吉村と大野の家族らの好演が家族の絆を感じさせる説得力があった。

 

舞台袖で千秋の大野の対決を盛り込んだり、新撰組と南部の場面を交互にはさんだり、各役者に見せ場を与えたりしてあれだけの大作をまとめたのは、さすがのベテラン座付き演出家だなあと素直に思う。

だけど、原作も役者もすばらしいからこそ、あと一歩、あと一歩踏み込んで見て見たかったという欲張った気持ちがある。

過酷な境遇・家族愛・友情の破綻で客の感情を動かすだけでなく、問いを投げかける時代の物語として見たかった。

なぜなら、原作がそうだから。原作への敬意のために。

 

 

■武士の本分

壬生義士伝の小説は、徳川幕府制度下の末端侍の視点から、幕末・新撰組を書いている。

そのテーマは、武士の本分と良心だと私は感じた。

 

下級武士の吉村は、民百姓と同じ貧しさの中にいるが、武士であるがゆえに借金や商売もできずに困窮していく。

剣は強く、学問にも秀で、藩校の教師をするほどの才があるにも関わらず、武士間の身分制度の壁に阻まれて、出世はできず、食うこともおぼつかない。

それでも吉村は、武士であることを貫こうとする。

それも、攘夷・倒幕や武士道という肥大化し観念化した "侍" ではなく民百姓を守るという本来の武士の存在意義にたちかえって。

 

民百姓が飢えながらも、侍に年貢として納める米。

藩から御録(給料)としてその米をもらい、口にしたからには、侍は民を守り、藩のため、藩を束ねる幕府のために忠義を尽くさなければならない。

しづは元々、百姓の出だった。

しづと家族を守ることは、吉村にとっては民百姓を守ると同じこと。

家族を守ることと、君主に尽くすことは、侍の本分として吉村の中でつながっている。

 

最後の切腹のとき、南部米を口にしなかったのは、脱藩した自分は南部の百姓が丹精こめてつくった米を食べる資格がないと思ったからだ。

新撰組が、幕府に召抱えられた時、頭を床にこすりつけて 「お有難うござんす。お有難うござんす」 と感激したのは、金のためだけではない。

南部の殿様は裏切らざるをえなかったけれど、家族を食わせてやり、公方様のため国のために働くことができるという、武士としての本懐を遂げることができるからだ。

(それが人を殺し、仲間も殺すという厳しい稼業であったとしても)

 

■侍の義

鳥羽・伏見の戦いで、薩摩・長州軍と幕府軍・新撰組が対決したとき、惨敗し退却する幕府軍の中で、吉村だけが名乗りをあげて突っ込んでいく。

あれほど家族のために生きたいと願った吉村が、死戦に引かなかったのは、幕府の米を食わせてもらった侍としての筋だからだ。

 

徳川と最も関わりの深い深い譜代大名すら日和見主義をきめこみ、あるいは寝返り、将軍自ら幕府軍や新撰組を見捨てて江戸へ逃げ出す惰弱な上級武士達に反して、たった一人の田舎侍が、徳川の民の米を食べたという恩に、で応えようとする。

だからこそ

「新撰組隊士、吉村寛一朗、徳川の殿軍 (でんぐん)ばお勤め申す。

拙者は義のために戦せねばなり申さん。お相手いたす」  ※しんがり。軍の一番後ろで追う敵を防ぐ役どころ

の絶叫が効く。

 

新撰組隊員たちや斉藤一までもが吉村を逃がそう、生かそうとするのは、自分が手を汚しても家族・民を食わせ忠義を尽くすという、侍の本来の使命を果たそうとする吉村の姿に、300年にも渡った支配者層であった侍の、最後の良心を見たからだと思う。

元百姓だった近藤・土方はもちろん、元御家人の隊員たちも、自分らが生きた徳川制度の最後の最後に、腐乱した時代の最後に、せめてひとかけらの信を残したかったのではないかと思う。

 

原作では、その後も会津候・松平容保が参戦した斉藤に礼を述べる様子や、函館戦で老旗本が 「幕府の禄を食んだ身として、新撰組の誠意を使い捨てにした徳川になりかわり、冥土にお供する」(意訳) と断言する姿が描かれており、侍の真の良心というテーマが見える。

上に立つものは、下を守るためにあり、その使命を果たす限りにおいて身分制度は肯定される、という透徹な歴史観が原作には見える。

 

 

 

■宝塚版

侍は米を作る百姓を守るものだ、という大前提が全く触れられていない。

貧乏だから金を稼ぐのでは、出稼ぎ農民と変わらない。
「新撰組」 という大義名分に威を借りて、人を殺して金を稼いでいるだけのならず者と変わらなくなってしまう。

 

新撰組も南部藩も、武士時代に翻弄されたことが、歌や台詞でさらっと終わってしまうので、義とは何かがつかみづらい。

大政奉還のあたりは、るろ剣じゃないけど壮大な一大ナンバーにするか、もう少しドラマティックにしてほしかった・・。

だから、最後は幼なじみに切腹を申し渡され、故郷に帰れないという悲劇に救いがない。

 

 

だけど、だいもんがNOSで 「見合いの席で、自分を生かそうとしてくれる近藤土方たちの思いを知って、その人達の義に生きようと思った」と 言っていて、それが宝塚版での「義」の解釈として、一番腑に落ちた。

あれだけ死にたがっていた斉藤一が、明治を迎え、かつての敵に与してまで生き続けているのは、吉村の死に様と生き様が影響を与えたのだろう。

 

大きな時代の話でなくとも、人と人との間で交わされた情が人を変え継がれていく物語として見せたのは、だいもんはじめ、新撰組のキャラクター、大野側の下人・佐助の表情の豊かさ、町人・八木源乃丞(桜路薫) たちの確かな人物造型のおかげだ。

 

 

 

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