宝塚雪組ファントム観劇感想①ベストキャスティングはいかなる名演にもまさる | 百花繚乱

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駆け出し東宝組。宙から花のように降る雪多めに鑑賞。

 

ベストキャスティングはいかなる名演にもまさるという言葉があるが、雪組版ファントムは期待を裏切らずそれを体現してくれた。

トップコンビの歌唱力にがっぷり四つに組んだ組子のコーラスと生き生きとした芝居が一体となり、作品が一匹の怪物のように息づいてた。

アーサー・コピット/モーリー・イェストン版の愛と調和の音楽観を、極上の歌という一級のエンターテーメントで仕上げた雪組版は一種の進化形ファントムでした。

 

「ファントム」は「オペラ座の怪人」と比べてしまうとどうしても不利な作品だと思う。

原作の神秘性や怪奇ロマンとしてのスケールがうすれて通俗的になっていて、エリックの哀しみが強調されるほど父キャリエールの人物造詣とストーリー展開の不十分さが目立つ。

さらに原罪、父と子や赦しなどのキリスト教的背景もそこはかとなくあるので、すっきり理解されにくい等の数々の悪条件をもつ。

コピット/イェストン版の魅力の一つは調和の観念と音楽で、今回の雪組版ではトップコンビの圧巻の歌唱力と雪組の団結力が、作品の音楽性に説得力を持たせて、魅力として昇華させたといえるかもしれない。

 

 

 

 

■AW版「オペラ座の怪人」とコピット/イェストン版「ファントム」の違い

かの有名な四季の「オペラ座の怪人」アンドリューウェイバー版とこのコピット・イェストン版「ファントム」の違いは、前者が対決と異端のロマンをテーマにしており、後者が調和と人間をテーマにしていること。

「オペラ座の怪人」を見るとき、得体のしれないすごいものを見たという感動がある。

「ファントム」を見ると、なじみのあるせつなさを感じる。

 

西洋人は対決によって理解するといわれるが、「オペラ座」の怪人とクリスティーヌはよりそったかと思うとぶつかりあいかけひきをし、最後まで互いに異質のまま名前のない愛を見せる。

二人の心理的緊張感と変化を表すように、楽曲群も複雑な起伏を織りなしながら息つく間もなく進行していく。

 

ファントムでは、エリックとクリスティーヌは共通の音楽への夢によって愛を感じる。

父母子という家族単位の身近な愛情が強調され、音楽は叙情的なメロディーを多用している。

「オペラ座」の怪人とクリスティーヌのデュエットは、音楽の愉悦に身をゆだねる官能的な描写があるが、イェストン版では魂の純粋さ、精神の結婚を表しているのも全く異なる。

 

ファントムでは怪人の人間的側面を強調することで神秘性や壮大なスケールは失われ、一種通俗的になっている。

おそらく宝塚は版権の都合云々がなかったとしても、ウェイバー版ではなくコピット/イェストン版を選ぶのではないかと思う。

その調和・家族といったなじみやすい側面に、祝祭的装置「オペラ座」にふさわしい歌の質の高さを加え、歌劇としても高い完成度で見せたのが雪組版ファントムだった。

話の展開やテーマの力を超えて、音楽の力それ自身が遮二無二作品を引き上げたように見える。

 

 

 

■音楽への夢

望海エリック、真彩クリスティーヌ共に、音楽への夢を表現するシーンが印象的で説得力があった

 

望海エリックはひ弱な怪人ではなく、音楽へのストイックな情熱がにじんで見える。

オープニングの従者達とのダンスを見ても、堅固な意思を感じさせる踊りで、過酷な運命に翻弄されつつ戦う彼の強靭さを感じる。 

キャリエールが劇場支配人を解雇され、オペラ座の音楽へ関与する道が断たれたとき、エリックは失望と共にWhere in the worldを歌う。

苦難は自分の捜し求める音楽に出会う新しい機会かもしれない、と望海エリックは目を輝かせて力強く歌い上げる。

 

エリックは、クリスティーヌの歌声に出会ったとき、全身で喜びを表現する。目を閉じ、恍惚ともいえる表情でクリスティーヌの歌声を味わっている。

夢はいつか現実になるとエリックがクリスティーヌに歌いかけるとき、それはエリック自身の追い求める音楽のことでもある。

だいもんの歌唱力、視覚的なイメージも伴って、望海エリックには理想に燃えた楽聖の側面が見える。

 

クリスティーヌも冒頭の「パリのメロディ」、オペラ座の「HOME」と、夢を歌いあげるシーンがとてもいい。

真彩ちゃんの元々持っている明るさ、多幸感のおかげで、クリスティーヌが歌う喜びに満ちあふれていきいきしている。 

人気のないオペラ座に響き渡る彼女の晴れやかな声は、明るい未来の予兆を感じさせ、交差するように地下から姿を現すエリックの深い声が絡みいく二人のHomeは実にドラマティックだった。

 

 

 

■愛の罪

タイムラインでキャリエールが 「私は結婚していたのだ」と言った瞬間、 後ろの女の子が「えっ?」とつぶやいたという呟きを見て笑ってしまったが、これだけ公演を重ねているのに、この演出の不自然さが修正されないのが理解に苦しむ。

(韓国版ではどうなのだろうか。)

今までも散々非難されてきたように、キャリエールという人物像の身勝手さと、父子の話を告白する順序に違和感がある。

 

望海エリックにはおさなごのような純真さがあり、シラノ・ド・ベルジュラックやノートルダムドパリなどの文学的テーマでもある醜い人物の真実の姿である魂の純粋さが強調されて哀れみを誘う。

エリックの純粋さや哀れさが際立つほど、そもそもの原因であるキャリエールの設定の無理さ、ストーリー展開の不自然さが気になってしまう。

 

カジモトにしてもフランケンシュタインすらも、容姿の醜さに関しては不可避で偶発的なこととして描かれているが、エリックの醜さは、キャリエールの不倫→堕胎の毒草→奇形、では、キャリエールにしか責がいかない。

 

歴代のキャリエールは社会的地位のある男としての我が強く見えたのに対して、咲ちゃん(彩風咲奈)キャリエールは常に悔恨にじませている物腰の柔らかい男性だったので、気弱な男が愛ゆえに犯してしまった罪なのだと初めて少し腑に落ちた気がした。

 

同様に、エリックも愛ゆえに道を踏み外したように見える。

ババババババと髪をふり乱しながら真剣な面持ちで教えているエリックをみると、前半は理性を保った音楽の怪人であったと思う。

クリスティーヌの声が母に似ていると気づき、銀橋でyour my musicを歌いあい、二人の感情に変化が現れてきたところから、歯止めが利かない衝動とエゴに揺さぶられていく。

エリックはクリスティーヌに出会ったことで幼児退行をして、元々の精神的な脆さがあらわになったように見える。

エリックもクリスティーヌを愛してしまったがゆえに、カルロッタの殺害という致命的な罪を犯したともいえる。

キャリエールとエリックは愛したが故の苦しみと罪を、親子2代にわたって背負っているように見えた。

 

 

 

■調和の音楽

クリスティーヌと初めて会ったときに 「まだオペラ座で歌うにはたりない」 とエリックはいう。

まじめに言えば、息継ぎやロングトーンの保ち方、チェストボイスとミドルボイスの滑らかな切り替えや混ぜ方等々の声楽的な基礎のことを指しているのだろうが、私はエリックが教えたのはハーモニーだと感じた。 

 

美しい声と音楽は違う。

音楽は、複数のものが絡み合って新たな変化を起こすこと。

             

エリックとクリスティーヌが銀橋へ進む途中のドレミファソファレファミは、同じ旋律を繰り返しているだけなのに、二人の輪唱のように聞こえる。

橋の真ん中に差し掛かり、エリックの声が地面すれすれの低音から一気に高音に展開していくときのだいもんのなめらかなレガートと、艶を増して行く声量のすばらしさ。

雲のように上方でその声に平行によりそいながら乗りゆくクリスティーヌの歌声。

声質の異なる二人の声が天と地で響きあって溶け合う「you are music」のデュエットは、誰かと共に奏でることで化学反応を起こすという音楽の真髄を感じさせる素晴らしいシーンだった。

 

その後のビストロでの「メロディ」の大合唱の楽しさも忘れがたい。

クリスティーヌの歌声の素晴らしさに、歌姫誕生の奇跡に居合わせた興奮に、顔を輝かして歌いだす一同の一体感と幸福感。

そこにあるのは友愛と調和の”光のパリ”で、それこそが音楽のもたらす陽の作用だと思う。

エリックが外側(銀橋)からそこに参加するのがうれしくもあり切なくもある。

 

モーリー・イェストン氏が来日したとき、「雪組の皆さんは全員で協力して作品をつくりあげようという精神をお持ちで、一つの家族creative familyのように感じました。」とコメントしたことを思い出した。 (思わずこぼれたオーマイグッドネス、という言葉に真実味があった)

イェストン氏の音楽を聴くと、西洋音楽の骨組である整えられた秩序の美しさを感じる。

他者と調和し、協力し、一体となる。

それこそがイェストン氏がファントムで表現したかった愛の音楽の概念そのものだったのではないかと思っている。

 

 

■エリックの死

何故、自分が選択したわけでもない不条理をエリックが生きなければならなかったか、という点に関しては、ウイリアム・ブレイクの詩が答えを与えてくれる。

劇中で引用されていた詩は「無垢の歌」の中の「黒人の少年」

 

「色は黒いけれど、魂は白い」 という一節は、まさしくエリックのよう。

なぜ自分が黒く生まれついたのかという問いに、彼の母は

黒い体は神の強すぎる光を和らげる「雲や森」の役目を果たすもので、(他の)人間が神の愛を学べるように置かれたものだと。

人間の魂が真の愛を学ぶと、雲は消えて神様の声が聞こえる、と答える。

 

簡単に言うと、人々に差別などない真の友愛を学ばせるために神が黒人の少年をつくったということだが、その発想はキリスト教思想になじみの少ない日本では響きにくいと思う

あまりにも苦難に満ちた学びだと思うが、エリックの生にベラドーヴァとクリスティーヌという天使がいてくれたことが救いに思う。

 

そして、もう一つの救いは音楽

はれやかな真彩クリスティーヌの声と滋味のある望海エリックの歌声が、天頂と地底から響きあって交じり合っていく妙なる調べに体を包まれると、音楽は、愛と同様、魂を昇華する一つの手段であると信じられる。

エリックの最後にクリスティーヌが歌いかけるyou are musicは、子守唄であり、鎮魂歌であり、愛の歌であり、確かに天国の扉を開けさせたと思わせる美しさだった。

 

エリックの死を見送る団員たちのたたずまいに、愛を感じた。

ジャン・クロードは帽子をとり、マダムドリーヌは厳粛な哀しみに満ちて、団員たちもキャリエールが解雇されたときのような驚きと哀しみの表情を浮かべて。

その姿を見ると、怪人という神秘めいた不可解な存在を、オペラ座の団員たちは怖がりつつ面白がり、奇怪な伝説的なものを持つオペラ座という有機体そのものを愛していたように思う。

そう感じさせるほど団員たちにリアリティがあった。

 

望海ファントムは、いたずらやいやがらせをするだけではなく、時には団員たちを助けたのではないかと勝手に想像してみる。

セットが急に動かなくなったとき、役者のせりふが全く出てこなくなったとき、楽隊が下痢でまともにラッパをふけないとき、エリックはさりげなくそれを助けたような気がしてならない。

 

だいもんは「エリックの心の中を覗いてみたいと思っていた」と言っていたが、演じていて、「エリックは幸せだった。」とコメントしていた言葉が真実であればいいと願う。

 

 

 

 

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