・オサレ
宝塚は、入りと出がある。
それも演出、自己プロデュース能力の一環として見られる。
だいもんは、美しい。
が、ファッションはなかなかに珍妙なことがある。
そこがまた、いい。
言わせていただこう。
横浜人は、お洒落におおらかである。
ギチギチに、バシバシに、他人の目線という棘を受けてはいないのである。
港町の呼び声高く、異分子も受け入れ、ジャッジしない。
リラックスして、ヒトに付け込まれる隙を許すその間合いが実に浜っ子っぽくて大好きだ。
・根が乙女
「あやちゃん」と呼ばれていると知ったときは、芸風との違いに驚いたが、素のだいもんは、確かに「あやちゃん」だ。
まぁさまに向けるきらきらのお顔、大好きなタニさんにお会いしたときの泣き顔。
羽生君を語るときのきゃぴきゃぴ顔。
かわいい。
あんな人が、アル中DV男になっちゃうんだからなあ。
・まじめ
メモ魔 。
ちぎさんに 「すがすがしいほどマジめ」 と褒められる。
製作発表の移動の飛行機の中で、ちぎさん→爆睡、ゆうみちゃん→怖がる、だいもん→ライトつけてその日の復習
カバーつき手帳で、付箋を貼りまくっている。 (だいもん、付箋アプリあります!!!)
「愛と死のアラビア」で、役作りのために、コーランの歌を聴いていた。
雪組に組替えになったとき、「宝塚おとめ」を切り抜き、単語帳に貼り、アンチョコにして持って行った。最初に話しかけたのが、同じ横浜出身の、れーこちゃん。
音楽学校生のとき、委員を勤めた。
バラエティ番組で、ゲームで宝塚のセリフを言うシーンがあったのだが、適当に流したPちゃんを本気で叱る望海さんに驚愕した。
どんなときも全力で 真面目。
その真面目さゆえの妙なおかしみ。
日本人のいちばん多い血液型A型なんだよ??
愛するに決まってる。
・宝塚の神様と両想い
人は神様に愛されている人が好きだ。
宝塚の神様は、一言でいうと暴君だ。
ゼウスクラスの理不尽さだ。
幸運の神様は前髪しかないと言ったのはダビンチだけれど、宝塚の神様は、前髪どころか波平さん並みの髪の毛三本しかない。
ルックス、歌、ダンス、芝居、人間性、資金力、劇団からの推し・・・そんなものがそろっている人なんていない。
歌がよくてもルックスが足りなかったり、完璧な美貌でも壊滅的に歌が下手だったり・・。
欠点を補うほどの美点と運とに愛された、奇跡の化学変化を経てトップになる。
だいもんは、宝塚の神様と相思相愛に見える。
宝塚の神様に与えられたむちゃな立場も、重すぎる荷物も、だいもんは全て背負い投げで返す。
そうして、覚えめでたく、ますます輝いていく。
どんなにこっちが渇望しても、与えられないものもある。
神様が背負わせてくるものが、自分の欲していないこともある。
自分が欲し願ったその道を、 人生のほうから与えられ欲されるという奇跡は、宝塚以外でもめったに起こることではない。
宝塚を愛し、「小学校のころに、大きな羽を背負って全国に行く」 と書いたその人に宝塚の神様が与えた羽は、ただひたすらに大きく、ただひたすらにまぶしく光って見える。
・宝塚を超えていくが、宝塚でこそ咲いた花
宝塚は、「宝塚比」「本人比」という基準がある。
美貌も歌のうまさも、芝居も、人気も、それが外部=ほかの商業演劇で通用するか、芸能人でやっていけるか、と言われるとそうではないことは残念ながら、ままある。
だいもんは今すぐ外部に立っても通用するだろう。
だいもんは宝塚のディープなファンでなくてもはまることができる。
単純な話、歌が、芝居が、一般受けするほどうまいからだ。
誰が見てもシンプルに「すごい」と思わせる。
どんな形であれ、遅かれ早かれ、この人は舞台の上に出てきたことは間違いない。
けれど宝塚でなければ、ここまで大輪の薔薇とはならなかったと思う。
七色に色を変える、あでやかな薔薇には。
宝塚ファンが、こよなくだいもんを愛するのは、宝塚を超えていると評されるだいもんの上手さが、宝塚という肥沃な土壌にはくぐまれてこそ花開いていると知っているからだ。
宝塚のすごさは、芸幅の広さである。
子役から老け役、美女役から剥げたイタリアンマフィアのおっさん、侍からフランス皇后までなんだってやる。
演劇の世界で女優として生きたとき、そこまで多様な役を割り振られることはまずないはずだ。
「女」の演じる役を与えられる。
テレビドラマを見てみても、女の演じる役は若い女かお母さん、主役か主人公の友人、できるキャリアウーマンかできない女、と言っても過言ではない。
古いたとえだが、「半沢直樹」を見たときに、女優のあまりの出演シーンのなさに愕然とした。
芸幅の広さも、それを出すスペースがなくては発揮はできない。
地力を出す機会すらないだろう。
宝塚では、つくりこみと自己プロデュース能力が磨かれるのも大きい。
宝塚では、役者はこんなことができるんだと見せてくれる。
人は役でこれほど成長するんだということをみせてくれる。
だいもんの歌と芝居の才能は、役者に広い役幅を与え、成長を10年の単位で見守り、緻密につくりこまれていく宝塚の舞台の上でこそ、満開に開いたのだと思う。
そして言うまでもなく、男役という、必ず終わりが来るせつなく美しい陰影があって。
くらわんかの貧乏神も、銀ちゃんの恋のジミーも、ベネディクトもルキーニも大好きだが、星逢一夜の源太とドンジュアンを見たときの衝撃が忘れられない。
その役者が、その時その場所でその役をやる絶対的な必然性というものを感じた。
今しかできない、今だからできたという瞬間の奇跡に打ち抜かれた。
ちなみに、私は「宝塚を超えた」という言い方は、「少女漫画の枠を超えた」という表現に匹敵するほど、鈍感な発言だと思っている。
個人的には、外で通用すること=いいこととは思わない。
宝塚の世界観の中で、宝塚的に輝く存在でいることと、 商業演劇やエンターテーメントの世界で名声を得ることとは、全く別のことだと思うからだ。
もし、後者を望むなら、宝塚には入っていないだろう。
だいもんは人の想像力の限界を超えていく演者だと思う。
圧倒的な、現実をねじ伏せ、異世界へと飛ばす力のある声をもっている。
その才能ある人が、宝塚という肥沃な土壌を養分として花開いていくこと。
その奇跡に震える。
どうか、遠くへ。
私たちの想像力の及ぶ範囲を超えて、遠くへ翔んでいく姿が見たい。
・ヅカオタ
だいもんはこっち側の人間、と勝手にヲタの親近感がある。
伝説・天海さんの日記に始まり、タニさんにお会いしたときに泣き出してしまったりする姿。
トップ前休暇に何するのかと思ったら、全組観劇し、遠征までしていたというヲタっぷり。
花組サンテでは、満面の笑みでワイングラス片手に入場する姿がレポされ、まるで目に見えるかのようでした・・
トップ就任グッズは、「望海風斗 ダイアリー」
・・・だいもん、わかってる。
そりゃ、初日にして売り切れますわ。
ダイアリーの内側に書いてあるだいもん手書きのメッセージ、そして最後の「あなたもそんなことある?」の一言に、笑うのと同時に、ぐっときた。
宝塚を生活や人生のレベルで愛しこんでるファンの系譜を確かに感じる。
トップスターとなって、羽を背負ったとき。
だいもんは、言葉につまり、涙を流した。
緞帳がしまるまで、泣くまいとこらえながら客席に手を振り続けた笑顔、
あんなに素直でかわいくて真面目で才能があり、
宝塚を愛してやまない人に、
石を投げられる人はいるのだろうか?
そして、だいもんに、真彩ちゃんがいてくれたことに、心から感謝します。
「早く一緒に歌いたい」 とだいもんに言わせしめる人。
心からだいもんを尊敬してくれる、この上なく可愛い人。
だいもんが心許せて、共に舞台を作り上げてくれる人。
自分の思いをきちんと言葉に乗せ、伝えられる女の人。
だいもんとまあやちゃんが、宝塚オタクな二人が、仕上げてこないはずはなかろうと、思ってました。
彼女たちが、その作品への真摯さで、ファンを裏切るはずはない。
希望の海を渡り、翔けゆく光の先を楽しみにしています。
もうしばし、夢の行く先を、見届けさせてほしい。