電磁波カットの家では、
電化製品の電気コードプラグがコンセントに差し込まれたままで、
付近をうろうろするなら、明らかに空気の異変のようなものに気付いた。
なぜか。
家の中の空気がクリーンだったから、と思う。
電磁波の無い澄んだ空気を当たり前として暮らしていると、
空気の淀みのようなものに、目ざとく脳と体が反応する。
ところで。
今の住まいは、どうしようもない屋内配線と電化製品の電磁波で、
空気の淀みが当たり前になってしまった。
なぜそう思うかというと。
画像はパソコンデスク横のカウンター上の測定値。
前日使った精米機と、卓上ライトのプラグが差し込まれたままの状態で103V/m.。
これは画像様に演出したわけではなく、気付くまでこの状態だった。
プラグを抜けば、6V/m。(安全値は25V/m)
普段はこの状態で、パソコンに向かっていた。
オリンピック中継に夢中で普段よりデスクに向かわなかった、とはいえ、
この怠慢ぶりに少なからず、気が沈んだ。
いや。
怠慢とは少し違う。
否応なしに、体が負の環境に慣れてしまったということ。
そして、まあ、いいかと思った時点が怠慢、ということになるかと思う。
私がアーシングに出会う前の長年の絶不調の体が出来上がったのには、
この「怠慢」が入口にあったはず。
反省。脳が正気なうちに、暮らしを立て直しましょう。
先日、TVで寅さんシリーズの『夕焼け小焼け』を久し振りに見た。
寅さんシリーズというより、日本映画の中で好きな映画だ。
映画の中で、寅さんは日本画の大家に、知り合いの芸者が金に困っている、ちょろちょろって絵を描いて、売って、その金で芸者を助けてくれ、と頼む。
当然、画家は、金の為には描かない、芸術とはそういうものだ、と譲らない。
寅さんは、映画の冒頭、粗末な身なりで飲んだくれていた画家を宿なしと思い、自分の家(団子屋)で数日面倒を見た経緯があって、そのことを持ち出し、あの時は、あんたを本当に哀れな老人と思い、何とかしてやりたいと思った、なのにどうだ、今のあんたは身を切るようにして働いて貯めた金を失くした芸者にこれっぽっちも同情していないじゃないか、と涙ながらに啖呵を切って、もう頼まないよ!画家の前から去る。
結末は、画家が、寅さんの知らぬところで素晴らしいボタンの絵を描いて(芸者の芸名がボタン)、彼女に贈り、絵を受け取った彼女は感激して、何があってもこの絵は売らない、それにしても、何で私に絵をくれたのかしら、と首を傾げる、というもの。
私は、初めてこの映画を観た時、
寅さんが画家に絵を無心したところで、あ~あ、寅さん、それはダメだよ、と思った。
画家の反応も当然と思った。
が。
「身を切るようにして働いて貯めた金を失くした芸者にこれっぽっちも同情していないじゃないか」のセリフに衝撃を受けた。
私が寅さんという人間を、ようやく理解した瞬間だったかもしれない。
同情には、偽物と本物がある。
現代人は同情=哀れみと捉え、同情という言葉にアレルギーを持つ傾向にあるかとも思う。
独断でさらに言うなら、同情=哀れみ=面倒という図式も成り立たないか。
本物の同情ならば、この精神は尊い。
近寄りがたいほど尊い。





