兵庫県川西市火打2丁目に所在する勝福寺古墳は、明治年間に壁土用の土取りによって横穴式石室が見つかり、画文帯神獣鏡という中国製の鏡や、龍の文様が象嵌された大刀などが出土したことから、近畿地方の有力古墳としてはやくから知られていました。1934年には京都大学の梅原末治博士によって現地調査が行われ、全国に紹介されるとともに、学問的な検討が深まりました。その後1970年代には、川西市教育委員会の発掘調査によって墳丘の南の高まりから鉄鏃や鉄刀などを副葬した木棺直葬墓がみつかっています。
私たちが今回の調査を行うまでは、勝福寺古墳は五世紀と六世紀の2つの円墳が南北に接して築造されたもの考えられ、それぞれ勝福寺南墳(埋葬施設は木棺直葬)、勝福寺北墳(埋葬施設は横穴式石室)と呼ばれていました。
しかし、古墳の形や造られた時期については依然としてわからない点が多かったため、大阪大学考古学研究室による2000年の測量調査に続いて、2001年から2004年にかけて大阪大学考古学研究室と川西市教育委員会が協力して発掘調査を実施しました。
その結果、勝福寺古墳は全体が長さ40mの1つの古墳で、6世紀前葉に造られたことがわかりました。また、後円部にはこれまで知られていた横穴式石室のほかに、もう1基の横穴式石室が存在することが明らかとなりました。つまり、勝福寺古墳は後円部に2基の横穴式石室、前方部に木棺直葬墓を設けた有力な古墳だったわけです。
さらに、発掘調査によってみつかった埴輪が、尾張地域(現在の愛知県西部)の埴輪に大変よく似た作り方をしていることがわかり、勝福寺古墳の被葬者が遠隔地の豪族と特別なつながりを持っていたことも浮かび上がってきました。
これらのことから、勝福寺古墳は6世紀前葉に淀川流域で台頭した継体天皇(継体大王)を支援した有力豪族の墳墓と推定されるにいたりました。
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五月山から見下ろした風景
中心部の木が生い茂ったところ
さらに、その中心あたりに、勝福寺古墳がある。