エロティシズムがどの程度人間存在にとって根源的な現象でありうるのか。これはもっと、研究を深めて答えなければならない問だろう。とはいえ、人間の肉体性を介してエロティスムを生物学的な次元から解放したのは、実に、三島由紀夫の功績である。エロティスムとは、三島の場合、権力機構とのかかわりだった。権力機構のなかに人間が実存として取り込まれるとき、支配と被支配の関係構造に取り込まれるのはどの程度不可避であるのか?その問いに答えるだけの資格は現在の私にはない。とはいえ、このように政治学を解するならば、エロティスムへ向けられた問は、ルソーならではなの、もう一つの人間不平等論の期限を語る、もう一つの言説にはなるような気がする。

 

 エロティスムの問題が提起したものは、支配の構造なのである。支配と被支配の構造力学なのである。エロティスムが政治の力学の別名であるとき、子供を産み育てるという、もう一つの治世学、つまり家政学としての政治とも直接は関係がない。

 エロティスムが提起する政治とは、実に非生産的なのである。

 

 エロティスムとは何かをよりよく理解するためには愛をめぐるプラトニズム(精神的な愛)との関係からみる必要がある。

 プラトニズムが私たちに経験させるものとは、人間の平等性の認識なのである。エロティスムが、人間の不平等性の認識世界に私たちを閉じ込めたのに対して、あらゆる不平等性の破棄なのである。

 愛が齎す平等性の認識は、同時に、エロティスムが形成しつつ我々を取り込んだ個別性の陥穽、自我を閉じ込めた独房の壁をも同時に打ち破る。

 

 

 しかし、プラトニズムの旋風にからめとられた場合、われわれは人間であることができない。プラトニズムもある意味では生産的であるとは言えないのである。

 

 プラトニズムが齎したものは人間の極限態としての境界域についての認識であるが、三島はこの境位について、小説『鏡子の部屋』のなかで、作中人物の画家・夏雄に仮託して語らせている。

 

 神秘家と知性の人が違うのは、前者が神秘に魅入られて境位の外側に食み出して生きるのに対して、後者はその高みから世俗と俗世を客観視するだけである。

 画家は、そのいずれとも違って、そこから表現者として現世に引き返したことのある者であること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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