三島由紀夫 マックス-ウェーバー 高橋和巳 高橋たか子 村上一郎のことなど。

 

 

 

 

 三島由紀夫の『鏡子の家』(1959)を旅の道行きに、徒然に読み継ぎながら様々に、色々と ものを考えた。集中して読書をすると言う習慣づけをしていない私としては、だから 読書の過程に様々の流れ去る旅の外-経験や感傷 想念の淵に蟠る雑念や妄念が入る事になる。

 

 まず、『職業としての政治』(1919)を書いたドイツの社会学者兼思想家の事を久しぶりに思い出した。

 ウェーバーには一貫してドイツ観念論に由来する公共的言説に関する郷愁のようなものがあるが 三島由紀夫には無縁のものだった。しかし全然関係ないわけではなくて、三島の本作は『生業(なりわい)としての政治』ともイロニックに言い換える事で対比する事が出来るからである。

 

 職業としての政治 🆚 生業としての政治

 

 政治が生業(なりわい)として その生業が極限状態に於いて生殺与奪の権限 すなわち国家権力擬きの機構、体制、世界観的風景の内部に置かれた時 政治はエロティシズムとなり、エロティシズムは政治となる つまり相互浸透の世界が出現するのである。『わが友ヒットラー』は前者は昇華の一例であり 『サド侯爵夫人』が後者の喩えであったにしても 今日に於いて、特に三島論として ことさら瞠目してみせるには当たらないだろう。

 

 三島由紀夫にとって政治は固有のエロティシズムの形を取って現れる、と言う意味なのである。エロティシズムとは、生物種に関わる概念ではなく、三島の場合 政治学なのであった。それゆえ、不穏なエロティシズムの禍々しい血の美学に塗れて、幻想としての政治の理念の中に彼は死んだ。哀れと言うべきか、しかし、愚かと言うことなかれ!彼としては厳粛な古典劇の舞台の中に死を成就させたつもりであったのだ ハムレットのように。

 

 次に私は 三島と同時代を生きた高橋和巳の『憂鬱なる党派』(1965)を思い出していた。反転させれば見かけ上の違いを超えて そっくりなのである。『党派』の登場人物たちも、何故か『鏡子の家』の登場人物と同様に、何故か死に急いで自らの死を選択した。死は半ば自殺行為に似ていて、自然死や不慮の死というものはないのだった。

 

 『鏡子の家』と『憂鬱なる党派』の両作を書いた三島と高橋は結果的にはよく似ていた。比較することは不本意かも知れないが 感受性の質や それぞれが幻想のように抱いた政治的理念は正反対なのに、まるで時代の子のように描かれた作品は二人が歩んだ人生の軌跡としては酷似し 生涯へのけじめの付け方にしても似ていた。死が間近に迫った黄昏時 赤心と志しと言う理念としての言葉が郷愁のように 或いは亡霊のように床に垂れ込み、床を霊気のように漂い 這い流れ 去来していた。

 

 天皇陛下万歳 🆚 造反有理

 

 三島の市ヶ谷小劇場の惨劇は半ば自殺であったと思っているが、奇妙な事に今日から見れば高橋の『邪宗門』(1966)は予言的告知の軌跡の線上を動いており 反面、彼が嫌った太宰治の情死事件にも似ていた。何故なら 彼には生き急ぐ青年たちの死巻き込まれたような形跡が認められるからだ。

 死後になって作家であり妻であった高橋たか子の回顧録の中で「自閉症の狂人」の如きが暴露された高橋和巳の死もまた アルコールと内臓機能不全の吐瀉物に塗れた凄惨な死であったように想像する。彼と同じ時期に 割腹して果てた村上一郎と言う男も存在したが、時代に殉じて死んだと言う意味では真に象徴的な死だった。

 

 二人の死の間には半年ほどの砂時計が置かれただけだった。当時 二人の生き方 死に方のけじめの付け方について、その共通性に付いて気付いたものは少なかった。

 

 1869年1月18、19日の安田講堂攻防戦を境に政治の季節の中で生まれたこどもたちは政治的風土の荒廃と瓦礫の中に四散し、或いは蹴散らされ オイルショック以降の第二次高度成長期の歩みの中に もはやみる影もなかったが、失われた60年代を追慕し、愛惜し 後追いして殉死したのは何故か 戦中派の中年男の乙女の如き純情だった。明日と言う時間の概念が存在せず 死に囲繞された戦中の日常と 平和が不動の外貌を備えつつあった「戦後」以降の平和の最中に於ける死に、何が共通するものがあった と言うのだろうか。

 純情と言うものの意味が歴史とこの世から失われたとき、私はしみじみと戦後と言う時代の終わりを、つまり戦後と言う言葉に概念として集約された近代日本の終焉を感じた。