乾燥野菜を少量でしたが、空港でお裾分け!
 私の手料理などとは違って 品良く仕上がっています。
 申し訳ないほど、大切に倹約されて使われているようです。
 

 東京 池上で〜


 秋田で〜


 

命の朝ごはん

honey fruits yogurt 

honey espresso&駄菓子

読書

🚴でstart〜携帯忘れて引き返し!

🚴で西油山の徳栄寺へ


🍵野点&お味噌汁


帰宅

休憩 読書

大相撲観戦

夕ごはん

honey fruits yogurt

休憩 News

🚴でgymnasiumへ

muscle training80

お買い物 黒酢 林檎juice 蒟蒻

帰宅 黒酢入り林檎juice

入浴 読書 就寝


1️⃣命の朝ごはん

乾燥野菜鍋蕎麦長芋とろろ風に〜








酵素玄米温卵かけご飯小豆麦入り 納豆


 honey espresso coffee+ブルボン駄菓子


honey fruits yogurt


2️⃣夕ごはん

焼き肉 野菜添えもの 南瓜野点味噌汁




honey fruits yogurt




命の朝ごはん

お料理しながら竹踏み20

honey fruits yogurt&黒酢入り🍎juice

honey espresso course ブルボン駄菓子

読書

cafétime honey espresso ブルボン駄菓子

夕ごはん

honey fruits yogurt

読書

🚴でgymnasiumへ

muscle training60

帰宅

入浴 読書 就寝









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 ジュリア・クリステヴァに就て語られた場面は多義多様で 記号論 言語論 精神分析 フェミニズムであり これを要約しうるには私の能力を遥かに超えている。特に記号論に就いてはその感じが強い。逆にフェミニズムに就いては特にクリステヴァでなければ、と言う感じはしない。それで広範で浩瀚な彼女の学識を論評するのは諦めて、彼女の特色を一言で言いたい。それは我々が思考したり行動する場合に 既に 無意識のうちに前提されている大文字で書かれた在り方 自分 と言う名の主観/主体性成立以前の未明を問う 超-認識論的あり方である。

 この問いは 「私」なり自我のあり方ーークリステヴァ風に言えば超越論的主体ーーの起源を問うものである。クリステヴァは 起源と言う言葉を嫌っているけれども、それはこの言葉の暗黙の前提としてある実体論点な姿勢や観点をこそ モノロジックすなわち一元的論理的思考のモードとして当の彼女が激しく拒否しているものの事柄であるからだ。それでも起源と言う言葉から 実態論的雰囲気を取り払い 形而上学的行き止まり感!の排除した感じで 単に いま そこ に於いて現生 発生する過程ーー自我の誕生過程ーーと言う風に読み直せば 同じ様な意味になるーーと思う。

 近代の合理的且つ論理的な視座である自我ーーすなわち超越論的主体ーーは如何にして誕生したのか?これと同様の問いは既にインマヌエル・カントの『純粋理性批判』の先験的感性論に於いても一部先駆的に論じられていて それは時間と空間だと言うのである。(カントに問いは認識論であって存在論的問いではないのだが) 逆に言えば人間がいなければ時間と空間もなかったことになる。宇宙に人間がいなければ継起する事象もないとは、何ともミステリアスな出来事であることか。

 同様にこの考え方が単純にはいかないのは 近代的人間主義的主観/主体の成立を時間と空間と言うカント風パラダイムで解くのは良いとしても 時間と空間が外部に疎外した時間と空間の外側はどうなっているのか?と言う新たな疑問に我々を誘う。カントはその問いを封印し、思考することはおろか感受することさえできない定言命法的禁句として 或いは時代遅れの形而上学として安易に論じることを否めているのである。

 この問いは20世紀に於いても俄然 復活し かの論理哲学のヴィトゲンシュタインをして 言語の外部性として問われた当のものでもある。

 つまり ジュリア・クリステヴァの仕事とは、カントの入山禁止が 禍々しくも封印した地獄の楼門の重き扉を掻い潜り押し開いて 果敢にも従来 形而上学的課題とされてきた神学的領域に 敢えて踏み込んだものであることが分かる。

 こう言う 途方もなき前代未聞の企てがクリステヴァに於いて可能になったのは、フロイトとの出会いによる精神分析学との出会いがあったのだと言う。彼女は 甚だ評価が分かれる後期フロイドの人類学的着想ないし文明史的考察を新たな装いの元に復活させたのである。最近は時代遅れ感を伴いつつ語られるフロイト観が 新たな境地を見出して読み替えられると言う意味で、彼女のフロイト心理学に対する貢献度もまた大きい。

 天才とはやはりこの世にいるもので 彼女こそこの名に相応しいものとして 慨嘆の思いで思ったものであった。私はいつの日か 最大限の儀礼と敬意を持って布陣し 形ばかりでも私なりの布石と陣形対峙を試みたい と願ったのであった。


 ジュリア・クリステヴァの思想を論じることは今回は出来なかったけれども、彼女はフロイトの着想を援用しながら形而上学の闇に切り進む!

 近代的自我の主客未然の状態とは 母子が一体化している 3、4ヶ月頃までの乳幼児の 自我成立以前の形を問うことで回答が得られるのではないか?彼女はそう考えたのであった。その着想の元に 膨大な著作群が展開されることになるのである。

 しかし それにしてもクリステヴァの思想家としての道程をここまで咀嚼し 説明し切れた日本側の著者としての西川直子と言うひと どう言うひとなのだろうか?と密かに思ったものであった。


 ジュリア・クリステヴァの思想的道程と思考過程に就いては 今回はここで諦めるけれども 後日 尊敬と敬愛の気持ちを捧げ持って再び立ち戻ってくるであろうと言う予感を いま 私は絶えざる実存と持続のなかで感じ続ける。








 時は世紀末の20世紀との端境期 車が馬車に変わる時代です。

 舞台は 新天地 ニューヨーク!

 舞台設定は富豪家にして実業家のオフィスと自宅 そこで繰り広げられる恋愛劇!おめでたきoperettaですから、すべてhappy endで終わります。

 ひとつは事業とお金儲けが生き甲斐だと言う 富豪の一人娘の縁談!男に関心のないかに見えた彼女に ドイツの変装した実業家の御曹司が使用人として乗り込んで来る。裏にあるのは米独の企業の合同合併が背景にあるらしい。

 ところでこの富豪家の特色は 使用人たちの雇い入れ条件としては古きヨーロッパの没落貴族を 貴族に限って採用すると言う豪華で奇妙奇天烈でゴージャスで ある意味では変態じみた成金趣味の趣向があるらしい。劇の体裁は彼らを使用人として使い 優越感に浸る事を一族として気分転換として是認もし 己の成金としての自負心も満足出来るし、且つこれが趣味としても精神衛生上に於いても安上がりである と達観しているらしい。

 表題の由来はそんなブルジョワジー一族とその正統な後継である娘 すなわち『ドルの女王』の高慢さを時間を掛けて徐々に説得し、最後にはゴールインする。

 つまり、異性にはまるで関心なしと言うビジネスモデルの一人のあととり娘が実は案外美男子 美貌好みで、潜在的には使用人兼私的秘書でもある男の強引さに惹かれるものがなきにしもあらずでーー実はドイツの有力企業の御曹司の美貌に惹かれていて まんざらでもないと しかし自負心と自信過剰の塊である彼女にすれば いとも簡単に攻略出来ると思い込んでいたのだがーー財産と富と仕事人としての有能さと 最後には自分が常日頃鼻にかけている自身の美貌をもってすれば!

 さて『ドルの女王』の収支決算のほどは如何に?


 ところがそうはならなかった!のである。


 相手の同意を受けもせず、もう一つの同時進行していた富豪当人の婚約発表の披露宴でついでのように『ドルの女王』の婚約を一方的に父親側は発表するつもりでいたのが、当の相手から散々に貶され 一族郎党の金権体質を痛烈に批判されてしまう。高慢な娘は祝杯のグラスを床に叩きつけて第一幕は風船の破裂の如く終了する。

 もう二つの同時進行している婚約話しの方も紹介すると ひとつはサーカスの年増女が遥々と海を超えて富豪の後妻の座を狙って乗り込んで来る!ロシアのさる大公夫人と言う触れ込みで!

 笑ってしまいますね。

 もうひとつは 富豪からは姪にあたる純情娘の愛情劇!これも相手は馬丁として雇われている さる男爵家の青年である。プラトニックである事を誓い合う二人にはなかなか一線を越えると言う勇気がなく 最後には自分たちの不甲斐なさに激高して爆発した娘の求愛に目覚めてhappy endとなる。

 いずれのケースに於いても、ドルではなく 人生に於いて大事なのは真心である と言う月並みな結論が出てくるのはお笑い種というよりもoperettaと言うものの常套手段である。


 そこで元の話に戻ると 実はドイツ企業の御曹司の仮の姿がかの富豪一家から姿を消し コロラドで石油採掘の事業に手を出して失敗したと言う噂が届いてくる。こともあろうにドルの娘は親たちとーーつまり父親と見事に後妻の場に座ったサーカスの女と最新式?の自動車をかって乗り込んで来る。自分たちの高慢さの鼻を折った若者の没落ぶりを冷やかしながら見ようと言うのである。ある種の復讐ですね。

 しかし 事業の失敗は見せかけなのであった。ドルの女王から憐憫と憐れみの気持ちを引き出させ、同情心 すなわち相手を可哀想だと思う心とは愛すると言う事の別名の表現である事を教え諭して感情教育は華やかなoperettaの幕切れとなる。

 いちおう 見事な幕の閉じ方だと思いました operettaとしては!


 最後に言い忘れていたので補足すると かの富豪とサーカスの女との婚約劇に於いては 富豪は最初から偽装劇を見抜いており、人柄が他に代え難いと思うからこその、老齢期の安逸と平安と安寧を見据え願った富豪の生涯の結論でもあった と言う。富豪一家の代替わりを予感させて余韻を漂わせてendingとなる。

 やはり Opera operettaはいいですね。




 事情があって 今夕は個食になりました。外食もたまにはいいかな?と思いつつ 読書の面白さに囚われて ご飯さえあればいいか と 最低限の貧食の献立になりました。
 食べながら思い出したのは こんな日がいつかあったような気がして懐かしさに震えました。たぶん 学生のころ 下宿の四畳半で!貸し間だけで、台所とトイレは共同でした。



命の朝ごはん

honey fruits yogurt

honey espresso coffee+黒酢入り林檎juice

読書

お昼の間食

読書

網戸の埃払い 水盤の水処分 など

夕方の間食 ありあわせのもので〜


honey fruits yogurt

🚴で家電機店へ 和室の照明器具更新 CD prayer

🚗家電機店へ 再度 組み立て方が一部分からなくて〜

電気器具取り付け

honey espresso coffee

🚴gymnasium〜

muscle training100

お買い物 水 豆腐 蒟蒻 もやし 魚ほっけ

帰宅 

夜の間食

入浴 🎵鑑賞 読書 就寝


1️⃣命の朝ごはん

乾燥野菜鍋うどん

酵素玄米温卵かけご飯小豆麦入り 納豆






honey fruits yogurt


昼の間食




雨上がる





夕ごはん

酵素玄米ご飯 シーチキン 冷奴 など


晴れ間も見えて〜




晴れ間も見えて〜








美しい夕暮れが〜






夜の間食






 読んでいる本にこうありました。

 人間の乳幼児には生物種としての特異性があって〜それは未熟児状態として生まれてくるのが人間種である と言うのですね。

 はっきり言えば 生後四ヶ月前後の乳児は妄想性の状態にあります。これが当然の事なのです。

 人間の乳幼児は母子一体の未分化された混沌状態にあり 快か不快の二分化された状態にあり 常時攻撃欲動に支配されています。

 自分自身の身体もコントロール出来ず 言葉も喋れない!泣くほかはない と言うのですね。

 生物界のなかで 人間種だけが未熟児様として生まれてくるとは?どう言うことか?
 一体であった母子が、出産と言う行為を通じて分離するとき、心も一緒に分離できたら事は単純だったはずですけれど、未熟児様として生まれてくる人間の乳幼児は 先験的に養育を一定期間親たちに頼らざるを得ない遅延された揺籠の環境下の中に於いて 先駆的には いないいないばあ!や鏡像段階の経験を通じて、先駆的に親との違い 親からの分離を暗黙の無意識として理解している。実はかかる心身のチグハグな同時進行こそ 人間を他の生物種から区別する特別の経験である と言うのである。