いまでは半ば忘れ去られた思想家 ゲオルグ・ルカーチ。本書は、彼のやや長い人生の前半を書いた評伝 或いは彼の思想の概説書の如きものである。彼の後半生が描かれていないのは、半ば教条主義者たちに迎合したのちの人間像は かくもあらずもがな!で わたしたちの興味を惹かないからである と本書の著作は記している。
それにしても専門家とはよくしたもので よくもこれだけ読みこなしたものである。
ルカーチのことをどう表記すべきか?と考えて 哲学者と思想家の違いについて考えた。哲学者とは彼の著述活動が全てである。思想家とは 思想と彼の生き方を加味しないと解けない謎が付き纏う人間像のことだと ここでは一応定義しておこうか。
ルカーチのことを語ろうとすると やはり私は気が重い。一つには彼の著作と生涯幅が広くて私の手に負えないからである。それで 本書の中から幾つかの論点を取り上げて、本格的な取り組みは後日のことと期待したい。
ひとつはイルマ体験。若き日の、婚約解消に至った青春の傷口!に就いてである。
この事件は セーレン・キルケゴールの同様の事件を思い出させる。フィアンセへの婚約の一方的な解消!ただ キルケゴールの場合と違うのはオリジナルと模造の違い と言うよりも 己の責任に於いて婚約者を死に追いやった点であろう。
事件の真相は幾重にも解釈可能だが、好意に解釈すれば これも有名なアンドレ・ジッドの『狭き門』のアリサとジェロームとの関係を想起させる。純愛が 結婚と言う世俗の形式に汚されるのを怖れた優柔不断さである。違うのは 『狭き門』の場合ではヒロインが主導権を持った働きをするけれども、イルマ体験の場合は 余りにも可憐のまま死に追いやられてしまう。
ルカーチの青春時代のテーマは 無垢なものを死に追いやった者の、その後 である。
ゲオルグ・ルカーチの生涯に付き纏う加害者意識なり加害の物語は 原点としてここに発する、とでも言えようか。
二つ目は 親友レオ・ホッパーとの間に交わされた芸術論ーーすなわち開かれた芸術と閉ざされた芸術に就いて。
これは ロマン主義と古典主義に違いのバリュエーションでもあるが、二人の差は、ルカーチの完成を憧れつつも永遠に未完であることに悶えるロマン主義的な思考と 芸術とは広かれていようと閉ざされていようと 解読者としての参画がなければ芸術体験としては完成しないと言う ホッパーの受容の美学論である。
二人は 芸術を静止した完成態であることを認めず、力点を古典的ローマン主義のパッションに置くのか 受容性がなければ機能としては芸術はそのあり方を完結し得ないと考えるのか?今日でもアクチュアルな課題である事は間違いない。
三つ目は テロリズムと暴力の問題。これは目的は手段を正当化するか?と言う 古くから語られてきた課題でもある。
ただし この論点のルカーチに関する課題は 思想的課題として考えるだけでなく、文学者や思想家が現実世界に於いて政治家として抜く尺ならぬ選択に迫られた状況を考えると陰惨な地獄絵の世界が出現すると言うことだろうか?
政治家ルカーチは、革命政府の委員として反革命の嵐に晒される中で仲間の粛清を指示した とされる。本人も認めていることだから本当の事だったのだろう。止むにやまれぬ決断だったとしても、目的は手段を正当化するだろうか?人間をいかなる場合も目的と考えて行動せよと教えたインマヌエル・カントの実践理性の考え方への大いなる反措定である事は明らかだろう。
面白いのは ハンガリー革命の渦中にあって、ルカーチを始めとする 文学的秘教集団?が 自らが立てた論理的決断を覆して革命側に参画していく 飛躍!に就いてである。
もう一つは 革命が反革命の渦の中に呑み込まれ潰え去った時に、プロフェッショナルの革命家幹部たちは都合よく亡命を果たし、残務整理はルカーチなどの文学者崩れの者たちが担わされたアイロニーに就いてである。
ルカーチの生涯軸が物語った事件は、、わが国においても全共闘運動の崩壊後 連合赤軍事件として顕在化したことは知られている。
いかなる場合も殺人と言う行為は許されない。目的は手段を浄化することはできない。しかし唯一、倫理的に許されないことを知りつつ侵される犯罪と言うものがある、ユダの場合のように!
しかし 皮肉な事にユダは自ら括れて死んだけれども、ルカーチは生かされて生存を永く晒されることになる。