先日のバイト終了後に控え室でのトーク

先輩がぼそりと一言

「なー絶ぐらいなら使えそーじゃねー・・」

そこで記憶がフラッシュバックした。

 

某日、ゼミのレポートとはちクロを読むために一人研究室に残っていた時の話。

青春の塔崩壊に心を打たれ、ふらふらと喫煙所兼ベランダに出てぼーっと世の中を眺めていると・・・

コツコツ・・・・コツ・・

ガラガラーーーーー   ピシャ!!  ガチャ!!!

 

・・・・・閉まった・・・・

 

1畳もないベランダなのよ、

それにオレはミドリとピンクっていう結構見える服を着ていたのに、

なのに、なのに、

代官山の妻子のもとに急ぐ彼は、そんなことに見向きせず

すんげー真剣な顔で

 

オレを締め出した。

 

どの位真剣だったかというと、

流川が沢北と1on1をしている時ぐらい真剣だった。

 

多分この時オレは絶を使えていたと思う。

たて糸よりもよこ糸に関心のあるところの説明会にお邪魔してきました。

なんかいろいろ最近進路で悩んではいたのだけど、そこの長の言葉がずっしりきました。

今の自分はまず、たて糸です。

たぶんたて糸と太くしようと思うと、自然とよこ糸が必要になるのだと思います。

が、こうliquidな世の中なので、ある程度でよこ糸を入れて開拓していく必要があるのと、

たて糸をもてる数が増えてきたことで、よこ糸の入れ具合が変わってきてるのかもしれない。



生活政治と大文字の政治についてなんだけど、

就職とか将来の進路なんかの問題は、個人的な問題で、私的な問題であるから生活政治であるけど

フリーターやニートみたいに社会問題の扱われると、大文字の政治の問題に転換できるのかな?

なんかネタにならないかな。

でも既出っぽいなー・・・・

一応これhttp://dailynews.yahoo.co.jp/fc/economy/employment/?1117894985

最近本をちゃんと読んでなかった。

このブログ同様、サボってた。

何か読もうと思ったのだけれど、以前呼んだモノをもう一度消化してみることにした。

仕切りなおしで、新しいのに手を出そうと思ったけれど、一度読んだものの方がとっつき易いし

お金を使わずに、より深く読めるのでお得感がある。


なんか色々やることが溜まってきた気がする。

微妙に先延ばしにしてきものが、、、、、

とりあえず方々に忙しいフリを振りまいて、ちゃんと消化していこう。

と、思いつつもトゥルーコーリングを見てしまったりするのだが・・・。


計画的にやるとこは計画的に、やれることはのりで、思い立ったら勢いで乗り切っていこうと思う。

ちょっと前にネット自殺ってのが騒がれましたね。
今でもあると思うし、その前から、これから先もあり続けると思うけれど。
報道されてたということで、騒がれてたということにします。

このネット自殺(←正確な呼び名はわからない)って、なにか怪しい匂いがします。
よく病院などで、自殺者が出るとまるで伝染病のように自殺が広がっていくことがあるんです。
けれどそれはあくまで物理的に特定されたフィールド内での出来事であって、時間的や空間的な制限のもとで起こります。
また、「ウェルテル効果」とも呼ばれる自殺のケースもあって、これはゲーテの本に共感した読者が自殺をしていくというもので、これには時間や空間の制限はありません。
が、性別が男性というとこが印象的な特徴です。まあこれは物語の主人公が男であるからなんですけど。

けれども、このネットを媒介とした自殺のケースは今上げたこと以上に共通点が薄く、しいてあげるとすればネットに接続できる環境があったということぐらいです。

自殺を一つのモデルに上げましたけれど、これは買い物なんかでもいえることなのかもしれません。
流行というものと、何か似た匂いがします。
みんなと同じはいやで個性を主張したいが、仲間はずれになるのは嫌だ。
仲間ってなんでしょう?
自分の生活環境?
友達?
社会?
なにか無意識のうちに脅迫されている感じ。
そのことをポジ的に捉えるか、ネガ的に捉えるかでなにやら変わってくる気がします。
ノートパソコンのバッテリーを買い替えました。
これで、一緒にお出かけしてもちゃんと仕事をしてくれる(TT)

今日は、遅いお昼にタイ料理を食べに行きました。
630円で、5セットぐらいメニューがあって、本格的な味が味わえます。
つーか、「いらっしゃいませ」とかからタイ語です。店員同士の会話も全部タイ語!
なんか手軽にひと時の小旅行をした充実感です。

屋台風で食器とかも給食とかで出てくるアルミのやつで、その辺からググッとくるものがあるのですが、店が空いてて、店員がタイ語であーだのこーだの話してるを聞いていると、なんかもう気分は「捕虜」って感じです。でもまぁ630円払ってるんで

裏金つかませて、配給をゴージャスにしてもらった捕虜

っていうのが妥当ですね。

ブログに関しては、これだ!っていう定義がない感じでいるけれど、自分自身で曖昧ではあるけれど境界線が見えてきた。
日記とブログは違うと思う。
ブログに掲載されている文章は「記事」と呼ばれている。
書いている時に読まれること、読む人の意識
日記:自分>他人
ブログ:自分<他人

情報の発信を目的とした、日記。

というポジションな気がする。
ネットという環境の中で生まれたものではあるけれど、著名人が新聞でコラムや日記を掲載するものと似ている。ただそれを環境さえ整えば誰でもできるものになったということ。

けれども、ここまで流行るということはどのような原因や背景があるのだろ?

人は情報を発信したいのだろうか?受信したいのだろうか?
どっちが優先されるのだろう?



バイトから家に帰ってくる途中に、垣根のそばを通りかかったら、その中から十数羽の鶯が飛び立っていきました。
メチャビックリです。
予期してないとこから、予期してないもんが集団で急にザッーー!!って。

でも、そのあと家に帰ってきて思いました。あいつらが、ビビッて先に動かなかったら、自分達の存在を気付かれないままやり過ごせたのではないのかと。

お前らが身に纏っている緑、しかも他に言い表せないから鶯色とかいう名前で呼ばれてる緑は、いったいなんの為についているのかと・・・。

これは都会に住んでいると野生っぷりが抜けていってしまうあれですかね。

迷彩といえば、最近ハマッていたメタルギア3。時代を最初まで遡っているので、設定上の技術面での退化いい味をだしている。ソリトンレーダーなんてハイテク技術がないので、敵を欺くシステムとして加わったのが、迷彩システム。
エンディングにはえらく感動させられた。
人間のこの色も保護色の役割を持っているのだろうか?ちなにみゲームでは、効果がないが。。。

でも、孔雀のオスとかってどーなんだろ。
自分が生き残るより、やっぱり増やしたいという切なる願いがあのご立派な羽には現れてるのであろう。
が、メスだけじゃなく密猟者にも色気をふりまいちゃってるからなー。どーなのかなー、あれ。

でも、保護色とかいってたら、牛とかはもうどうでもよくなっちゃってる感じだしなー
食われたり、搾られたり、やりたい放題じゃないですか。。。
あんなでいいのかなー、やつらは。

結構自然界も、わけわからん矛盾が多いもんですね。

先日、ハウルの動く城を見てきました。
あまり映画をたくさん見る人ではないのですが、見たのでコメントを軽くします。
途中まで結構面白かったです。終わりの方が、特にどんでん返しも無くひょうひょうと終わって物足りなかった感じです。
もっと複雑にたくさんいじれる所は満載だったと思ってます。
多分子ども向けだということもあり、そこまで複雑にしなかったのだと思っています。

子ども向けということを書いていて思い出したのは、絵本作家であるトミ・ウンゲラーのコメント。「偽善で、子どもにうそをつく事はもっともしてはいけないこと」という内容のコメントがありました。
確かに、今回の宮崎作品も捉え方によっては真実を子どもの伝えているのだと思います。けれども、何か昔の作品のように子ども心をえぐってくるような描写とかがなくなってきた気がします。
やはり、ここまで影響力を持つようになると様々なところでセーブしてしまうものがあるのかもしれないですね。

レポートの提出が終わったので、今後はもう少しブログを書けると思います。

読んでくれた方ありがとうございます。
昨日バスに乗っていたときにふと、攻殻機動隊の話の中に出てくる造顔作家のことを思い出した。造顔作家とは文字通り、顔を作る作家のことである。
そのアニメは近未来の公安がnetを駆使して事件を解決していくストーリーで、その中の話の一つに造顔作家が出てくる。なぜ、顔を作る作家がいるかというと、設定が近未来なので体をサイボーグ化出来る時代で、当然顔もサイボーグ化している。(本編の中では「偽体」と言われている。)それで、造顔作家もいるというわけなんだが、引っかかったのは造顔という行為をどう感じて顔を作ってもらうのか?というところ。

顔は生まれ持ったものがある。それに修正を加えるのが現代でいうとこの整形であったりする。これも一種の造顔?
整形でも、造顔でもよいのだが、これを行う前提に自分の本来の顔が存在するということがある。ようするに自分の中で比較の基準があるのである。
例えば、着せ替えの出来るケータイにも最初についてくるパネルがあるのと同じことで、それが嫌で気に入らないからオプションで新しいのを着ける。これは最初からついてきたものとオプションの比較をしていることになる。

比較することが出来る状態が現状だけれども、もし生まれてくる前から顔を選択できるとしたらどうだろう?当然この場合は本人が選択出来るわけじゃない。一卵性の場合を除けば、まったく同じ体はないという、生命のルールがあるが、あえてその偶然を必然に変えてしまうということも出来なくはないだろう。

こんなことを考えたのは、顔が人のアイデンティティに大きく関係があると思ったから。自分の理想を追い求める行為が自分の自我を崩壊させてしまう危険性を含んでいるのかもしれないとか思った。