賭け麻雀の是非3
前回は、「賭博自体が合法だろうが違法だろうが問題は『合法化の範囲』」と書きました。
そして、合法化の範囲を広げるには(その種目ごとに)新たに合法化される、つまり『(その種目が)管理化』される必要になります。
しかし、一般的には合法化に必要なのは『健全なイメージ』と考えられているようです。(津田岳宏氏のブログ でも『健全』または『イメージ』というキーワードは頻繁に登場する。)
この『健全』という概念がかなりのクセモノですので、今回はそれについて書いてみたいと思います。
まず、賭博における『健全』というのはどういう状態を指すのでしょうか?
・ノーレートだから健全
・お金じゃなくて物品を掛けてるから健全
・小額しか掛けてないから健全
・世間に広く認知されているから健全
・合法(または脱法)な種目だから健全
…など、色々とあります。(若干麻雀に偏ってますけど。)
漠然としたイメージは存在するものの、実際には何をもって健全とするのかはまったく定かではありません。
例えば、ここで『逮捕されない』というのを1つのラインとしてみます。(賭け麻雀でも逮捕される可能性があることが問題になっている訳ですし。)
この場合、確実に安全なのは『ノーレート』または『合法な種目(公営ギャンブルやパチンコなど)』のどちらかです。(厳密にはノーレートは賭博ではないが。)
つまり、『逮捕されるかどうかに健全かどうかは関係ない(その種目が合法化どうか)』と言えますし、さらには『その賭博が合法な種目でさえあれば、どんなに高額を掛けても(全財産でも何億円でも)逮捕されない』とも言えます。
結局、賭博における『健全』という概念は、賭博罪の『一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときはこの限りではない』という条文の個人における解釈でしかありません。(現時点ではこの解釈について公の基準は存在しない。)
しかし、具体的な金額としてこの基準を得ることができれば、(その種目ごとの合法化を得られなくても)実質的には合法的に賭博を行うことが可能になります。
では、公にその基準を得ることはできるのでしょうか?
仮に、「世間一般ではこれくらいまでなら健全」というイメージから、『○○円以下のやり取りならOK』というような基準が得られたとします。
しかし、個人レベルで考えた場合、その人の収入レベルなどにより『一時の娯楽に供する物』の基準は大きく異なり、人によってはその基準が高すぎたりも低すぎたりもします。
また、その賭博がどういうルール・システムで行われるもので、どういう風にお金をやり取りするのかが明確に規定されてなにもかかわらずOKを出してしまった場合、1回のやり取りは○○円以下だが短い時間で何回もやり取りできてしまったり、数回分のやり取りをまとめて1回分にして行うというような想定外の事態が容易に起こってしまい、基準自体が意味のないものになってしまいます。
よって、『一時の娯楽に供する物』の解釈に公の基準を得るというのは現実的ではありません。(賭博の管理ができないので、『健全なイメージ』による合法化についても同様に現実的ではない。)
また、これに関しては具体的な規準がない(ある程度の曖昧さを持っている)方が、賭博が無法化してしまうことへの抑止力としても効果があるのではないかと思います。
【追記】
ところで、なぜ業界は『健全なイメージ』のアピールを必死に行うのでしょうか?
それは『(身内向けの)自己暗示』として必要だからです。
その効果は、根拠はまったくないけど「大丈夫だよ」と呼びかけ続けることによって客も業界も「たぶん大丈夫なんじゃないか」と思うという程度のものです。(何十年も前から、それでみんな大丈夫だと思ってきている。)
『嘘でも100回言えば本当になる』と言いますが、(僕個人としては)どうせならもっと別の効果的な嘘があるんじゃないかと思うんですが?(そのあたりも今後書いていければと思います。)
二流の矜持
偉い人がちょっと変なことをすると、それは無条件で面白い。
同様に、お笑いで大事なのは、いかに相手との優位な関係を築けるかだ。
かなりうろ覚えですけど、ビートたけしが『お笑いの極意』としてこんな話をしていたのを聞いたことがあります。
これは表現(創作)活動全般でも言えることで、自分を過大評価させることができれば、足りない部分や都合の悪い部分は相手が勝手に補完してくれるということだと思います。
僕の場合はどうでしょうか?
僕は過大評価されるのを極端に嫌うし、麻雀も弱いと思ってもらった方が都合が良いし、誰にも迎合しないし、どこにも所属しません。
足りない部分や都合の悪い部分を勝手に補完されることがないように、(自分自身が自分の最大のアンチになって)何度も推敲や書き直しを重ねています。
というか、そもそも僕自身は表現活動をしているつもりは一切ありません。
僕が文章を書く際には、あらかじめ結論を用意せずに(結論を意識しないように)書き始め、思いつく要素をすべて提示した時点で書き終わるのですが、それによって納得いく結論が得られる場合もあればそうでない結論となる場合もあるし、結論自体が出ないこともたくさんあります。
それは単純に知識の積み重ねであって、その時点でどんな結論であっても内容に矛盾があってもまったく構いません。
その後、知識の量やレベルが変わった際に、また同じ内容について書くことにより自分の知識の変化を実感するだけです。
もちろん書き手としては二流(どころか論外レベル)なのは自覚していますが、最初から目的が違うものを同じ土俵で評価されてもという気もします。(読む側の人間には関係ないかもしれないけど。)
それとも、(現時点では無視どころか見向きもされない程度ですが)無視できずにアンチが湧きまくるくらいまで知識を高めることができれば、一流にはなれなくても(麻雀という枠から飛び出して)それ以上の存在にはなれるかな?
福地さんの『【つぶ】一流と二流の間 』という記事を読んでそう思いました。
あけおめ
あけましておめでとうございます。
こんな需要ゼロのブログですけど8年目に突入することになりました。
更新頻度もかなり下がってますけど、僕自身の気持ちは当初とほとんど変わってないと思います。
今年のテーマとしては、ちょっとおおげさですが『麻雀における最後の変革のチャンスの可能性』とでもしておきましょうか。
それと自分自身の引き際というものについても考えています。
あとどれくらい続くかはわかりませんけど、とりあえずよろしくお願いします。
賭け麻雀の是非2
世界には賭博が合法な国が多数存在しますが、この『合法』というのはどういうことなのでしょうか?
結論から先に言うと、『賭博の営業が公営や行政による許可制になる(賭博の営業が管理される)』ということです。(日本にも公営ギャンブルは存在するし、海外ではカジノやブックメーカーなどが有名。)
具体的には、営業許可や営業内容の基準となる法律が制定され、収益に対する課税が行われることになります。
しかし、多くの人は賭博が合法化されるということは『現状で違法とされているものがすべて自由になる』と考えているのではないかと思います。(それは賭博の無法化であって合法化ではない。)
また、個人レベルの賭博については、その国で賭博が合法だろうが違法だろうがあまり変わりません。(個人レベルの賭博に基準を作ったり規制をすることは構造的に難しい為。)
とはいえ、「それでもかまわないから合法化して欲しい」という人は多いでしょうし、現行のギャンブルファンのほとんどの人がそう思うかもしれません。
しかし、『ギャンブルをやらせる側(業界)の人間』はそうとは限りません。
「業界のイメージアップの為に合法化を叫んではいるが、現状の違法(グレー)状態でも営業できているのに合法化されてしまっては規制が増えたり収益が下がったりして困る」というのが本音かもしれません。
ちなみに、『賭博の合法化』という視点で見れば日本も合法化されている国の1つと言えます。
その一方で日本は『賭博罪』が存在する国でもありますが、これはどういう意味なのでしょうか?
賭博罪が存在しない国には『賭博法』が存在していて、この違いというのはほとんどが賭博に対するイメージの違いだけです。
賭博罪:性悪説(賭博は悪だが例外が存在)
賭博法:性善説(賭博は悪ではないが管理されるべき存在)
結局、どちらの法律でも『公営または行政に認可された賭博に関しては合法(それ以外では違法)』で『個人レベルの賭博に関しては娯楽の範囲内ならOK(その基準はあいまい)』というものです。
そして、もしも日本で賭博罪が撤廃(=賭博法が制定)されたとしたら?
・制度的にはほとんど変わらない。
⇒合法化の範囲が変わらなければ違法でない範囲も変わらない。
⇒合法化の範囲については『利権』の問題が大きい。
・イメージ的には改善する可能性がある。
⇒賭博による刑法罰は変わらなくても、事後の影響(例えば芸能人の謹慎や解雇など)は減る可能性がある。
⇒ギャンブルファンの増加に関しては合法化の範囲の問題が大きい。
短期戦術
麻雀記@かずっち というブログの『短期戦術と長期戦術のお話 その1 ・その2 』という記事が興味深かったので、このテーマについて僕も少し書いてみたいと思います。
【短期戦とは】
一般的に短期戦や長期戦というのは『規定打荘数』で定義されているのですが、もう一方の見方としては『終局の存在』による定義があると思います。
終局が存在する:大会など、規定打荘数の区切りで評価される。
終局が存在しない:フリー雀荘や天鳳の段位戦など、規定打荘数が存在せず成績全体が評価される。(評価法によっては全体が均等に評価されてない場合もある。)
この場合、短期戦とは『規定打荘数が短い対局』と『(その数の多少にかかわらず)規定打荘数が存在する対局』の2種類が存在することになります。
【終局とは】
終局とは、規定打荘数による終局の他にも『条件的な終局』というものが存在して、規定打荘数に到達する前に終局を迎えてしまう場合があります。
途中で目無しになってしまえば(その人は)その時点で事実上の終局ですし、(ケースとしては稀ですが)トップがぶっちぎりになってしまっても事実上の終局です。
規定打荘数にかかわらず、条件的な終局の関係により(実質的には)短期戦になってしまう場合があります。
【短期戦術とは】
基本戦術としてはルール・システムへの最適化がメインですので、これは長期戦術と違いはありません。
違いがあるとしたら、それは終局を意識した場合の対応だけです。
では、どこから終局を意識して、どのような対応を取るべきなのでしょうか?
【終局への意識】
どこから終局を意識するかは人それぞれですが、『自分の実力に自信がある人ほど自分の打ち方(長期戦術)を変えたくないという傾向』にあると思います。(この傾向に問題があるとすれば、最初の長期戦術の設定に問題があるということになる。)
例えば、守備的な人なら最初から目無しにならないように意識したりポイントを稼いだらそれを守ろうとしますし、逆に攻撃的な人なら終局自体をあまり意識しないで攻撃の姿勢を貫こうとします。
それでも終局が近づくにつれて、それを意識した(長期戦術と違った)対応が必要になります。
【終局への対応】
・規定打荘数が存在するかしないかという意味での短期戦の場合
(全体としては評価されるとはいえ)長期戦は1戦ごとの結果はそれぞれ独立したものですので、過去の結果は次の1戦へ影響を与えません。
短期戦は規定打荘数が一区切りとして評価されますので、過去の結果によっては次の1戦が影響を受ける場合があります。
ですので、残り打荘数が多くても東1局からでも終局への対応を迫られる場合もあります。
・規定打荘数の多少という意味での短期戦の場合
この場合は基本的には短期でも長期でもあまり違いはありません。(打荘数が多いほど実力通りの結果が出やすいということだけ。)
【長期戦術との違い】
・目的の明確化
⇒予選なら通過、決勝なら優勝など。(ボーダーの設定)
⇒プロの対局では数戦で上位10%通過のような極端な設定はない。(1~2戦で50%、4~5戦で20~30%など)
⇒点差や条件の把握やそれに沿った手作り。
・目無し
⇒目無しをどう回避するか。
⇒目無しになってしまった時点でもうどうしようもない。
⇒リスクを回避するか?リスクを承知で攻めるか?(長期戦術と矛盾した選択も)
・場回し
⇒リードした状況でどうやって場を回していくか。
⇒タイトル戦決勝のような特殊な(誰も着取りに来ない)状況もある。
⇒暗黙の了解が存在する場合もあるし、ない場合もある。(合理的な判断が難しい)
・場慣れ
⇒普段と違う場所やルール・システム、人に見られる緊張など。
⇒一般の人がシビアな短期戦を経験できる機会は少ない。
⇒経験をして慣れれば問題ない。
【短期戦術の影響】
短期戦術というのは技術としてはそんなに重要なものではないのですが、これをまったく知らない・経験したことがないという人への影響は少なからずあります。(ネットで麻雀を覚えたというようなタイプは特に。)
また、それ以上に影響が大きいのが、それを評価する人々の大多数が結果論や価値観の違いというようなものをまったく理解できない⇒無駄に荒れるということです。
それから、麻雀プロに関しては彼らの対局は基本的にすべてが短期戦なんですけど、(彼らが主張するほど)短期戦術が有効かといえばそうでもありません。
特定のプロが短期戦に強いような印象があるのは、シード権の影響が非常に大きいからです。(そのシードを得るには実績なりコネなりが必要ですが。)
【最後に】
そもそも福地さんの(少なくとも麻雀関係の)文章をすべて真に受ける必要はなくて、別に8sポンとか(文章全体的に)も短期戦とは無関係です。(8sポンは戦術として全然ナシじゃないし、単純に逆ギレしれるだけだし。)
無駄な枝葉を刈り取ったらあの画像以外には何も残らないような文章ですけど、逆にビジネス的には枝葉の方が重要だったりもします。(この枝葉・尾ひれの付け方については評価してるけど。)
これについては理解できてても言葉にはしない方が(色んな意味で)無難だとは思いますが…。