追悼 見田宗介(真木悠介) -とくに印象深い3冊の覚書など- | れぽれろのブログ

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先日、社会学者の見田宗介さんが亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。

見田宗介さんは1937年生まれ。長らく東京大学で社会学者としての仕事をしておられた方で、1998年に東京大学を退職、その後は共立女子大学に勤められた後、2008年に退官されました。
60年代から70年代にかけてはかなり実証的な研究を行われていたようですが、とくに70年代中盤以降は社会学の実証的な著作に加え、読書人層向けにも様々な著作を書かれてきた方で、学者・研究者だけではなく、一部の読書人層にも読まれてきた書き手でもあります。本名である見田宗介名義の他に、真木悠介名義の著作もあります。とくに有名なのが東京大学時代のゼミ、いわゆる「見田ゼミ」で、このゼミ出身の社会学者の中には現在多方面で活躍している有名な方もたくさんおられます。
(ちなみに、見田さんは東京生まれですが子供のころは一時大阪に住んでいたらしく、出身高校は堺市の三国ヶ丘高校とのことです。自分は大阪在住なのでこのあたりは親近感を覚えます。また、父の旧姓は甘粕らしく、旧日本陸軍の甘粕正彦とは親戚にあたるとのことです。)

自分は見田宗介さんの著作が好きで、70年代後半以降の著作を中心に読んできています。
過去に読んだのは、「気流の鳴る音」「時間の比較社会学」「宮沢賢治」「自我の起源」「現代社会の理論」「社会学入門」「現代社会はどこに向かうか」の7冊。これに加えて雑誌「現代思想」の2015年1月増刊号「総特集 見田宗介=真木悠介」に掲載された論文などを読んでいます。70年代前半以前の著作は読んでおらず、代表作である「まなざしの地獄」や「現代社会の存立構造」は、現在読みやすい形で再販されていますが、読もうと思いつつ読めていません。
見田宗介さんの著作はいずれも、社会学者としての評価も高いようですが、一部の読書人層からも人気があり、読んで蒙を啓かれるような体験を得た方も多いのではないかと思います。本はすっきりとまとまって書かれている印象で、新書なら200ページ程度、文庫でもせいぜい300ページ程度と、分量としては短いです。上にあげた著作の中では、「自我の起源」がかなり硬質で読みにくい印象がありますが、それ以外はさほど手ごわくはなく、とくに「社会学入門」「現代社会はどこに向かうか」の2冊はかなり平易に書かれています。
見田宗介さんの著作に対しては、その構想がどうやって実現できるのかに対する具体性に乏しい点などに批判もあるようで、一部のハイブローな方にとっては物足りない面もあるようですが、自分のような一読書人にとっては、かなり面白い作家の1人であると思っています。(むしろよりよい社会どう実現し、どう生きるかについては、読者の側の問題であるというのが自分の考えです。)

以下、自分が読んだ見田宗介さんの著作の中から、自分がとくに印象に残っている3冊、「時間の比較社会学」「自我の起源」「現代社会の理論」について、一読書人の立場から自分なりにコメントしてみたいと思います。いずれも読んだのはかなり昔で、直近に再読したわけではなく、そのため要点をとらえ損ねているおそれもありますが、自分が読んだときの印象を中心に、現在も記憶している各著作についての思いを書き留めておきたいと思います。(自分なりの語彙でコメントしていますので、原著の表現とは異なる部分もあります。)



・時間の比較社会学/真木悠介 (岩波現代文庫)



見田宗介さんの著作の中から、自分が1冊だけあげるならこの本になります。
この本は現代人の時間と死に対する捉え方を相対化する1冊で、ニヒリズムをどう乗り越えるかというのが大きなテーマです。一般にニヒリズムの超克というと、観念的であったり宗教的であったりするようなイメージがありますが、本書では原始社会から近代まで、ひろく人間が死をどう認識していたかを歴史的に辿り、現代人にとっての死を社会学的に考える本です。

はるか昔の原始社会においては、過去から未来へと続く直線的な時間感覚はなく、永遠に現在が続くという感覚を人は生きていました。なので、死者は「あっちの山」とか「海の向こう」などの生者の近くにいるため、人は死を恐れることはありません。
古代社会になると時間感覚は変化し、ヘレニズム的(≒東方的)な感覚とヘブライズム的(≒西方的)な考え方が誕生します。前者は円環する時間感覚で、万物は流転し、人は死んでも生まれ変わります。なのでたとえ死んだとしても、例えるなら魂のレベルで人は消滅することはありません。インド的な輪廻の感覚と言えば捉えやすいかもしれません。後者は線分的な時間感覚で、世界はある時点で創造され、ある時点で終末を迎えます。この時間感覚では人の死は仮の死であり、世界の終末のときに消滅か救済かがジャッジされるような、キリスト・イスラム教的な感覚を想像すると分かりやすいと思います。
以上の原始社会・古代社会においてはいずれも死は個体の消滅ではなく、死んだ後も個体(≒魂)は存在し続けるというところがポイントです。

しかし近代社会においては、人は永遠に続く現在を生きることはおろか、円環する時間や線分的な時間を想像することすらもできなくなります。時間は単に過去から未来へと流れていき、その中の一部で人は生まれて死ぬだけであるという、刹那的な時間感覚が支配的になります。高度に発達した資本主義社会においては、過去から未来へと続く共同性を生きられなくなり(疎外)、労働-消費という形で資本化された時間を生きることを強いられる(物象化)ため、ニヒリズムに陥りがちになります。
このような苦しみに満ちた現代社会を生きるには、①近代的な時間感覚は必ずしも普遍的ではないことを知り、②いま生きているこの時間での生を享受する原始社会的な感覚を想起し、③合わせて近未来における展望・希望のために具体的に行動することが処方箋となります。

ニヒリズムの超克のための同種の本は多々あることだと思いますが、このテーマを時間という概念を切り口に、歴史的に考察している点が本書の面白い点であると感じます。また日本の例として、万葉集と古今集の差異を分析し、8世紀前後に時間に対する感覚が急速に変化したのではないかという仮説もたいへん面白い分析であると思います。



・自我の起源/真木悠介 (岩波現代文庫)


この本はかなり難解な本で、遺伝子や生物に関わる著作であるためか、本の体裁も縦書き・右綴じではなく、横書き・左綴じになっています。生物学者のドーキンスやローレンツの議論をベースに、遺伝子と個体の関係を考察し、自我というものをどう考えるかというのが本書の議論です。
本書ではドーキンスの利己的遺伝子理論(我々は遺伝子の生存戦略にとって最適化するように行動させられている、いうなれば遺伝子に操られている存在である)的な考え方を、遺伝子レベルの利己性と個体レベルの利己性を混同しているとして批判します。
例えば哺乳生物は生殖後も死を迎えず、子育て(哺乳)を続けることで種が存続します。こういった種の出現は利己的遺伝子理論では説明できません(遺伝子の存続のみが目的であれば哺乳生物のような形態は非合理)。本書では、下位システム(遺伝子や細胞)の合理性に対して上位システム(個体)が反逆し、自立化する(本書の言葉で言えば創発的自立化)ことが自我であるとされています。

この考え方を深めると、遺伝子-細胞-器官-個体の先に、個体-群体-社会という上位システムが見えてきます。遺伝子から自立化する細胞、から自立化する器官、から自立する個体が存在するなら、個体から自立化する群体、から自立化する社会、…というさらなる上位システムが考えられます。

それぞれのレベルで諸システムが合理的に共生するにはどのような手段があるか。本書は有性生殖や哺乳に着目します。生殖自体は単なる遺伝子の存続のための手段ですが、自我が発達した結果、有性生殖や哺乳はその遺伝子存続のための手段を越えて自立化し、他者に操作される喜び(パートナーの魅力によって生殖行動が動機づけられ、赤ん坊の魅力によって哺乳行動が動機づけられる)が個体の生の大きな動機づけとなります。
この考えをさらに深めると、宿主を滅ぼすような菌類・細菌類はむしろ非戦略的で、宿主との共存こそが合理的である。マクロな人間社会的スケールで見ると、自然を簒奪する狩猟採取より自然と共存する農耕牧畜の方が合理的です。
他者の存在に喜びを見る自我は、かかる合理的共存のための一助になる。利己的遺伝子の極限に自我を見、自我の極限に共生を見るというのが本書の見立てです。
上の「時間の比較社会学」とのつながりで言えば、上の②いま生きているこの時間での生を享受する感覚を深めて考えることができるのが本書のポイントであると感じます。



・現代社会の理論/見田宗介 (岩波新書)


苦しみに満ちた近代社会を生きるために、①近代を相対化するのが「時間の比較社会学」であり、②生を享受する感覚を考えるのが「自我の起源」であるとするならば、③近未来における展望・希望を考えるのが本書「現代社会の理論」であると言えるかもしれません。

本書は近代資本主義社会の展開と現状、そして今後の在り様について考察されている本です。
資本主義社会は人々にとって魅力的な商品・サービスを生産・提供することにより膨張するシステムです。近代社会は技術革新により様々な交通手段や通信手段や耐久消費財を次々に開発し、より早く、より快適で、より便利な生活を実現するための魅力的な商品を生産し続けてきました。技術革新が新たな商品開発を促進させ、経済の好循環は促進される一方、新商品がなければ人々の購買行動は抑制され、消費は停滞し不況に陥ることもままあるのが資本主義社会です。
これを乗り越えるのが商品の差異化です。同じ機能であってもデザインやサービスの違いにより、人々の購買意欲は促進されます。差異化による置き換え需要は消費の停滞を防ぎ、経済循環の促進に寄与します。

一方で地球環境には限界があります。環境の限界(石油や石炭に代表される資源的限界や、CO2排出に代表される環境負荷への限界)は資本主義社会にとってクリティカルな問題です。これを回避するのが情報化です。情報化社会は差異化による置き換え需要の上位形態です。人々が情報自体に差異を見出し、情報自体に消費の軸足を移すことができれば、環境負荷はより緩やかになります。
さらに本書では近代社会の全世界化についても問題化されています。20世紀当初は持てる国と持たざる国、豊かな消費生活を送る先進国と、貧困と簒奪に苦しむ途上国という、いわゆる南北問題がしきりに議論されていました。本書によるとそれは過渡的なことであり、高度資本主義社会は先進国固有のものではなく、近代化・資本主義化はどこの地域であっても起こります。故に長期スパンで見た場合には南北問題は解消し、むしろ同じ国民国家間であってもその中で持てる者と持たざる者が分断される、いわゆる本書で言う先進諸国の「北の貧困」が今後問題化されるとの見立ても示されています。

これらの本書の議論は2022年現在から見ると、むしろ当たり前の議論であるように聞こえるかもしれません。本書は1996年の出版です。本書は96年の時点である意味未来を予見していたともいえる本で、むしろ社会が見田宗介さんの思考に追いついたという見方もできるかもしれません。
本書はさらに現在の先を行っており、情報化・差異化で環境の限界をうまく回避しながら緩やかに経済を循環させつつ、より生の喜びを享受できる社会への転換が模索されています。このあたりの問題意識は、引き続き岩波新書でおよそ10年おきに出版された「社会学入門」「現代社会はどこに向かうか」に引き継がれており、本書を含むこの3冊は事実上の3部作と言える著作であると言えるかもしれません。
(「現代社会はどこに向かうか」の覚書と感想については、こちら→(現代社会はどこに向かうか/見田宗介)にまとめたことがあります。)



ということで3冊をピックアップしてコメントみました。
こうやって読んだ当時の読書メモなどを見ながら文章化してみると、また本を読み返したくなってきます 笑。比較的入手しやすい「まなざしの地獄」と「現代社会の存立構造」については、直近に読んでみようかなと思っています。