現代社会はどこに向かうか/見田宗介 | れぽれろのブログ

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最近読んだ本の感想。
岩波新書から先月発売された見田宗介さんの新著「現代社会はどこに向かうか-高原の見晴らしを切り開くこと」を読みましたので、覚書と感想などをまとめておきたいと思います。

見田宗介さんは日本の社会学者で、現在もう80歳になられています。
自分は以前から見田宗介(真木悠介)さんの著作が好きで、過去に「気流の鳴る音」「時間の比較社会学」「宮沢賢治」「自我の起源」「現代社会の理論」「社会学入門」を読んでいます。
本作「現代社会はどこに向かうか-高原の見晴らしを切り開くこと」は、過去の岩波新書二部作「現代社会の理論」「社会学入門」を引き継ぐような内容になっています。
過去にも登場した言説が多く、特段新しいことは書かれておらず、160ページほどの薄めの本ですが、内容は濃いです。
過去作品の重要ポイントがコンパクトにまとめられたという印象の本。
同時に、現代社会を考える上で重要な視座を与えてくれる本だと感じます。


本書の概要を自分なりの解釈も含めつつ、簡単にまとめると以下のような感じ。

本作の前提とされる考え方は、前近代-近代-現代という区分。
これは社会学やその他学問でも一般的に見られる区分で、前近代-近代-現代では、人々の社会に対する認識、世界の見え方、生きる目標等が異なります。
本書での捉え方を大ざっぱにまとめると、前近代:単に今を生きる時代、近代:未来のために生きる時代、現代:再び単に今を生きる時代へ、という変化として捉えることができます。

ここに生物学的・人口学的視点が盛り込まれるのが本書の特徴です。
重要なのがロジスティック曲線を用いた人口の捉え方で、本書の序章及び5章で詳説されます。
ビーカーに微生物を入れると、ある時点で爆発的に個体数が増え、ビーカーの限界容量に近づくと個体数が平衡(一定数に収束)するという現象がみられます。
この傾向は、微生物-ビーカーだけではなく、魚-池、動物-森、といった形で応用が利きます。
この考え方は、人間-地球の関係にもにも応用可能。
地球にも限界容量があり(居住地域の問題、資源の問題、その他環境問題)、それを越えて人類が増えることはできず、人口増加は必ずどこかで収束します。

現人類の誕生が20万年前、以降徐々に個体数が増加し、19世紀初頭の世界人口が約10億人、ここから急加速が始まり、20世紀初頭で約20億人、21世紀の現在では約70億人に達します。
爆発的に人口が増えたのが19~20世紀であり、これがいわゆる近代と言われる時代区分、地域により差異はありますが、概ねそれ以前が前近代と言われる時代区分になります。
ローマクラブにより「成長の限界」が発表されたのが1972年。
地球の限界容量に適応する形で、同時期の1970年代に世界人口の加速は弱まり、人口はいまだ増加していますが増加率は減少に転じ、既に世界人口は収束の兆候を見せている、これが現代です。
前近代(単に今を生きる時代、人口は微増)→近代(未来のために生きる時代、人口は激増)→現代(単に今を生きる時代、人口増加は収束)、という変化。

経済の視点から考えると、貨幣経済が誕生したのがBC600年、地域の差異はあれど貨幣経済が世界中に少しずつ拡大したのがその後の2千数百年、そして20世紀に至り世界は爆発的な経済成長を遂げます。
本書では貨幣経済が誕生する(=貧富の差が拡大する)BC600年から紀元0年ごろの時代を「軸の時代」と定義。
貨幣経済の浸透による苦しみを契機とし、現在に繋がる様々な思想・宗教、ギリシャ哲学、ヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)、仏教、儒教が誕生したのがこの軸の時代です。
その後近代に至り、爆発的な人口増加と経済成長と並行する形で軸の時代の思想・宗教は非合理であるとされ、近代合理主義(未来のために、成長のために合理的な行動をとる)が台頭します。
そして現代、爆発的経済成長の終息期初期を迎え、本書ではこの時代(現代)を「軸の時代Ⅱ」あるいは「高原期」と定義、思想・宗教の転換期、世界認識・生きる目標の転換期であるとされます。
経済成長も人口増加も地球環境に依存しており、限界が露わになりつつある現在、環境に適応するために人口増加・経済成長は終息するだろうとう見方。
未来のために今を犠牲にして生きる時代から、再び単に今を生きる時代へ。

最も重要だと思うのが修正ロジスティック曲線の考え方。
限界容量にうまく適応できない生物は、しばしば個体数の激減(ひいては絶滅)に陥ります。(魚を池に放す→何らかの条件が作用し池の容量以上に魚が激増する→反動的に個体数が激減する、のようなイメージでとらえると良いのではないかと思います。)
地球の環境容量に適応する形で経済成長も人口増加も収束に向かう中、さらなる経済成長を継続するには環境容量の枠を突破する必要があります。
例えば宇宙への拡大、あるいは核技術・遺伝子技術・情報化技術により成長の枠を広げることが考えられます。
当然ですがこれらはリスクを伴う、簡単に言うと原発や遺伝子組み換えやAIのようなものは、環境容量の枠を突破する可能性と共に、未規定のリスクに満ちているということ。
これらを推し進めるには最大限の注意が必要。
世界人口が修正ロジスティック曲線(個体数の激減、絶滅)に陥ることを如何に回避するかということが、人類の喫緊の課題です。
雑駁に言うと、リスクのある技術開発はやめろというのが、本書の主張であるように見えます。

軸の時代Ⅱ(高原期)に突入した現代において、本書では人々の心性にも変化がみられることが強調されます。
1,2章では若者の心性の変化が詳細な統計データをもとに示されています。
日本の場合、70年代(近代)と現代の若者の大きな差として、①近代家父長制的家族の解体、②生活満足度の増大と保守化、③魔術的なものの再生、があげられています。
いずれも経済成長のために合理性を重視する(未来に希望を託し今を犠牲にする)生き方から、今を満足に生きることへの変化として見て取れます。
このような心性の変化は、本書の2章で扱われる欧米の若者の価値観ともリンクし、2章では生活満足度の増大という面が強調されます。
個人的に面白いのが、③の魔術的なもの再生で、「あの世を信じる」「奇跡を信じる」「お守りを信じる」「占いを信じる」という若者がかなりの程度増大している(5人に1人があの世を信じ、4人に1人が奇跡とお守りを信じている!)という点です。
未来のために今を建設的に生きる近代合理性からも離脱し、今の幸福を如何にして維持するかという構えへの変化。
このあたりは信仰の変化を扱う本書の3章ともリンクします。

人口動態・経済成長が修正ロジスティック曲線に陥る事態にならない限り、
総じて現代(高原期)は近代より幸福であり、多くの人にとって輝きにみちているものになるであろうということが本書の趣旨です。
しかし現代はユートピアなのか、というと当然そうではありません。
マスとしての生活満足度は増大していますが、満足度から取り残される人たちも現れます。
本書の4章ではこの点との関わりとして、2008年の秋葉原事件が取り上げられています。
911テロや昨今のISテロも根源は同じ。
満足度から取り残される人が多数輩出されないような対策は必須、であると同時に格差が増大する形での無理な経済成長は回避されるべきである。
同時に本書では革命的なものが否定されます。
補章では、①否定主義(何かを打倒するためだけの行動)、②全体主義(政治・経済・思想の統制)、③手段主義(未来のために現在を手段とする)に陥ることの回避が重視されています。
ファシズム的・スターリニズム的なものに陥ることの回避。
現在の満足度から遠ざかる人は容易にこのような思想に陥りがち。
不幸の放置を如何にして回避するか、革命的なものを如何にして回避するかということも、修正ロジスティック曲線に陥らないための重要な側面です。


感想など。

本書を読むと、とかく近代に比べて現代(高原期)は幸福な時代なのだという楽観的な記述が目立ちます。
これは著者見田宗介さんの傾向(文章の癖?)なのかもしれませんが、そこにばかり目が行くのはNG。
ロジスティック曲線を用いた考え方は極めて説得的、放っておけば修正ロジスティック曲線に陥るのは世界の必然であるとして、戒めとして本書は読まれるべきです。(そういう意味で、読み方に注意が必要な本ではあると思います。)
リスクをはらんだ技術革新による経済成長は果たして人間に制御できるのか。
生活満足度から取り残される人たちへの手当を人間は貫徹できるのか。
放っておけば資源は枯渇、それを回避するための無理な資源開発、遺伝子技術、情報化技術の開発はリスクを生むが人間にその開発が止められるのか。
現代の学校において、スクールカーストの上位7割にとって満足度は非常に高いと言われますが、下位3割にとって学校は地獄であるという言説も耳にします。
下位3割の地獄を放置して、果たして生活満足度の向上といえるのか。
つい先日処刑されたオウム真理教の幹部たち、豊かな80年代において世界への不全感を抱き魔術的なものに頽落、ある種の人にとって否定主義・全体主義・手段主義への陥りは回避困難なのではないか。
本書第2章の延々18ページにわたる欧州人の幸福の羅列を、苦痛と訝しみをもって読む人も多いのではないか。
マイルドに高原期を迎えるために、今考えるべきことは多数あります。
そのための議論の取っ掛かりとして本書は読まれるべきです。

その他、最近自分が読んだ既存書籍との類似性。
國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」における、消費の否定/浪費の肯定。
これは、経済成長から今を生きる幸福へ、近代から現代へという、「現代社会はどこに向かうか」の分析とリンクします。
消費による経済成長はまさに近代の心性、浪費による満足度維持は現代の心性、「生きることはバラで飾られなければならない」のはまさに高原期の精神の在り様です。
國分功一郎が哲学的に分析した現代の心性は、見田宗介により統計的に示されています。
あるいは東浩紀さんの「観光客の哲学(ゲンロン0)」。
家族的類似性からくる人と人との繋がりを重視し、ネットワークの拡張によりクラスター同士の偶然性の繋がりの可能性を拡張、スケールフリー的世界の中でのグローバリズムとナショナリズムに抗うという「観光客の哲学」の結論。
これは、「現代社会はどこに向かうか」の結論として示される連鎖反応、一華開いて世界起こる、人と人との繋がりに伴う触発的開放の連鎖により、修正ロジスティック曲線的なものに抗うという結論と、ほぼ同じことを言っているように見えます。
(見田さんは直観的に、東さんはより論理的に。)
「現代社会はどこに向かうか」は、様々な現代の著作ともリンクする興味深さも持った書籍であると感じます。