神社仏閣探訪シリーズ。
今回は大阪の旧河内国南部、いわゆる南河内にある神社を2つ取り上げたいと思います。訪問は少し前、今年のお花見の季節とお正月です。いずれも大都市郊外にある中~小規模な神社です。周囲をくまなく探すと面白いものも見つかります。
以下、藤井寺市にある伴林氏神社と羽曳野市にある大津神社の2つの神社と、その周辺の記録です。
(1)伴林氏神社とその周辺
まずは伴林氏神社(ともばやしのうじのじんじゃ)です。
最寄り駅は近鉄南大阪線の土師ノ里(はじのさと)駅。以前に澤田八幡神社という、境内に線路と踏切がある謎のおもしろ神社を紹介したことがありましたが、そのときに登場したのが土師ノ里駅でした。
今回は土師ノ里駅を降りて北に向かいます。旧170号線に沿ってしばらく北に歩いた後、左折して西に向かうと住宅地の中に伴林氏神社が見えてきます。
鳥居の様子。
本殿。
伴林氏神社は都市郊外の神社にしては敷地はそれなりに広く、立派な神社である印象を受けますが、あまり有名な神社ではなく、山川出版社の「大阪府の歴史散歩」(たいていの神社はこの本で紹介されている)にも掲載されていません。
神社の案内によると、古代の軍事氏族であった大伴氏を祀る神社であるとのこと。大伴氏は古代の大伴金村(武烈天皇で応神-仁徳系が断絶した後、継体天皇の即位に関わった人物として有名)に始まり、奈良時代の有名歌人である大伴家持を輩出した後、9世紀前半ごろに伴氏に改名(淳和天皇の生前の名であった大伴親王との混同を避けるためと言われる)します。その後「伴大納言絵詞」で有名な応天門の変(野郎むかつく(866年)応天門)での伴善男の失脚と同時に、ほぼ歴史から消えた一族です。
地方の小規模な神社として長らく存続してきた伴林氏神社が、一躍脚光を浴びるのが戦前昭和の時代。軍事氏族であった大伴氏の神社であったということもあり、軍国主義的な風潮にうまくマッチしたためか、神社の敷地は拡張し、「西の靖国神社」と称される規模になったとのこと。この本殿も1940年の建物です。
戦後は1940年当時に比べると敷地は小さくなったようですが、それでも広々とした境内は往時の面影を感じることができます。(ちなみに「日本歴史地名大系」では、林氏がこの神社の奉斎氏族とするのが妥当との見解が記載されており、大伴氏との関わりについては否定的な記述になっています。この周囲の地名は古くから林であり、「日本三大実録」などにも林氏との関わりが記載されているとのこと。近代以降に大伴氏の方が前面に押し出されたということも、なんとなくありそうな話です。山川の歴史散歩シリーズに掲載されていないのも、このような背景があってのことなのかもしれません。)
敷地内にあった大伴家持の歌碑。
裏側。
「万葉集」出典のこの詩は、信時潔が作曲した戦前の音楽「海ゆかば」の歌詞として有名です。2016年(平成28年)とのことなので、ごく最近に作られた碑のようです。
大伴家持の顔出しパネル。
海ゆかばの物々しい碑に比べて、こちらは和みます 笑。
境内にあった桜。
桜は終わりかけの時期でした。満開のであれば綺麗な写真が撮れたと思います。
だんじりが収納されていると思われる倉庫。
これを見ると大阪南部に来たなという気がしてきます。
国旗制定記念と書かれた石も。
1999年の国旗国歌法の制定に合わせて作られたのかな。
ふと見ると「株式会社ニチイ」の文字が。
ニチイはかつて近畿地方を中心にスーパーマーケットを出店していた会社です。現在はなくなってしまったスーパーですが、神社敷地内に名前が残っていて懐かしいです。
2022年3月19日付けの読売新聞の切り抜きが掲示されていました。
伴林氏神社の本殿が登録有形文化財になる見通しとのこと。記事によると「西の靖国神社」と呼ばれた歴史的背景も評価されたとのことです。どちらかと言えば近代遺産のような形での答申なのかもしれません。
さて、伴林氏神社の西には允恭天皇(いんぎょうてんのう)陵に比定されると言われる、恵我長野北陵があります。
この地域は古市古墳群の古墳たちがたくさんあります。歩けば巨大な古墳にあたる、それが大阪南部。
恒例の宮内庁の物々しい看板。
こちらが允恭天皇陵。
允恭天皇は5世紀ごろの天皇で、仁徳天皇の息子にあたり、倭の五王では「済」に比定される天皇です。
菜の花が綺麗に咲いており、良い雰囲気です。
猫ちゃんがいました。
土師ノ里駅にあった謎のポスター。
観光難易度A級シティ、フジイデラ。
魅力がないのではなく、難しすぎるだけなのだという説がとられています 笑。どの地域も観光誘致に必死ですが、自虐的な笑いに転化されているのも大阪南部っぽい?笑
(2)大津神社とその周辺
続いては羽曳野市の神社です。
大津神社は近鉄高鷲駅の南側にある小規模な神社。訪問は今年のお正月です。今年は初詣がこちらの神社でした。
鳥居の様子。
本殿。
かつて河内国には渡来人が多く住んでおり、この大津神社周辺にも百済から渡来したと言われる王辰爾(おうしんに)の一族がいたのだそうです。この一族の一部が後に津氏となり、この津氏を祀った神社がこの大津神社ではないかと言われています。
この周囲には長らく北宮村と南宮村(合わせて宮村)という村があり、北宮村がこの大津神社を管理していたようです。神仏習合以降は牛頭天王を祀っていたようで、「日本歴史地名大系」にも牛頭天王社の名が見られます。ちなみに現在は北宮・南宮という地名はなくなり、周囲は高鷲という地名になっています。おそらく高鷲の名は、この北にある雄略天皇陵に比定されている丹比高鷲原陵から取られたものと思われます。
上の伴林氏神社は近代国家的な雰囲気も感じられる神社でしたが、こちらの大津神社はたいへんローカルな印象です。
伊勢神宮の遥拝所も見られます。
敷地内を歩くとこんな碑も。
光の加減で見にくいですが、「支那事変 出征軍人武運長久祈願」となっていますので、日中戦争の出征兵士の武運を祈願する碑のようです。日付は昭和12年(1937年)7月8日となっています。日中戦争は7月7日に勃発と言われますが、1日のずれがあるようです。当時の報道では少し日付が違ったのかもしれません。
かと思うと、平和之社なるものもあったりします。
こちらの方が目立ちます。戦争関係の碑は奥にひっそりと残っているという感じです。
大宮戎、いわゆる「えべっさん」の幟。
訪問は1月3日でしたので、えべっさんの直前です。
大阪では一般に「十日戎」と言われ、1月10日を中心に9,10,11日にお祭りを行うケースが多いですが、大津神社は「八日戎」となっています。珍しいケースのように思います。大阪ではえべっさんは地域をあげてのイベントで、この時期は初詣よりもえべっさんの方が神社は賑わいます。
さて、歩けば古墳に当たる南大阪。
大津神社から西の方に向かうと、恵我之荘駅付近に現れてくるのが大塚山古墳です。
こちらが大塚山古墳。
天皇陵に比定されていないためか、宮内庁の物々しい看板はなく、「陵墓参考地」になっています。
古墳の様子。
お堀も大きく、立派な古墳です。日本で5番目に大きい古墳とも言われますが、意外と天皇陵には否定されていません。高鷲駅の北側に雄略天皇陵がありますが、こちらの大塚山古墳が本当の雄略陵ではないかという説もあるようです。
お堀にいる鳥たち。
優雅に泳ぐカモ。
古墳の周囲。
古墳を一周してみましたが、大きな古墳なので冬でもそれなりに汗ばみます。付近の小学校では、授業で古墳一周マラソンが行われると聞きます。小学生の足にしてはなかなかたいへんなのではないかと思います。
付近にあった辻本翁之碑。
この近辺の灌漑用水の治水工事を行った辻本善三郎という人物の記念碑のようです。
一般に大阪の中心部や北部には、洪水や水害に関わる碑が多いです。淀川の洪水や台風による高潮などの被害が北部・中部では大きいためです。
これに対し、大阪南部で問題になるのは旱魃です。水が不足しがちであった大阪南部は溜池などが多く、郷土の有名人として溜池をつくった人物を学校などで教わるケースも多いです。辻本善三郎もそのような人物の1人なのかもしれません。
恒例のゆるキャラ紹介コーナー。
こちらは羽曳野市のご当地ゆるキャラ、つぶたん。
羽曳野市はブドウが特産品である地域でもあります。地域のガイドマップでもこのつぶたんが登場しています。
ということで、南河内にある伴林氏神社と大津神社、及びその周辺の様子でした。