大阪府堺市 方違神社・菅原神社・街の様子など | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

近畿発見シリーズ。
このゴールデンウィークは堺強化週間ということで、2日かけて堺市のあちこちを回ってきました。過去に当ブログでは、大仙公園、仁徳天皇陵、浜寺公園、大泉緑地、大鳥神社、百舌鳥八幡宮、萩原天神、堺市アルフォンス・ミュシャ館などを取り上げたことがありましたが、堺はまだまだ見どころはたくさんあります。

堺といえば、古墳、フランシスコ・ザビエル、千利休、与謝野晶子ということのようで、街を歩くとこれらに関わるものがたくさん見つかります。
堺の地は奈良盆地の西方にあたります。ちょうど古代の大和政権の権力の中心地であった三輪山のふもと(現在の奈良県桜井市・橿原市周辺)から、生駒山地と金剛山地の間を抜けて西へ向かうと現在の堺市のある位置に辿り着きます。このルートは外交上においても重要な陸路であったためか、付近にたくさんの巨大な古墳が作られます。有名な仁徳天皇陵もその1つです。
次に堺が歴史の表舞台に登場するのは中世末期の戦国時代。港町であった堺は海路と陸路の交通の要所となり、鉄砲の生産などの商工業都市として堺は栄えました。スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルや、茶の文化で有名な千利休がこのころにゆかりのある人物です。
近世江戸時代になると大和川の付け替えによる土砂の堆積により、港町としての堺の機能は衰えましたが、刃物をはじめ多くのものが堺の街で作られました。「ものの始まりみな堺」と言われるゆえんです。
近代になると堺は紡績業を中心とした工業都市になりますが、浜寺の海水浴場なども近代史上では有名かもしれません。大和川の付け替えによる土砂の堆積により、奇しくも堺には風光明媚な砂浜と松林ができ、堺は大都市近郊のレジャーの場としての機能も果たすことになります。このころに活躍した歌人が、有名な与謝野晶子です。
戦後は工業都市化がさらに進み、臨海部が埋め立てられて大工場が増設され、風流な砂浜は残念ながらなくなってしまいます。泉北ニュータウンをはじめとする、大都市近郊の郊外住宅地としての位置づけが強くなるのも、近代とくに戦後以降のことです。

今回は前編、堺市の方違神社と反正天皇陵、菅原神社、堺市役所展望台、及び堺の街の様子などを取り上げます。(後半では浅香山緑道、ザビエル公園、大浜公園などを取り上げる予定です。)
訪問は今年の4月30日及び5月3日です。



(1)方違神社と反正天皇陵

まずは堺区三国ヶ丘にある方違神社(ほうちがいじんじゃ)です。
方違は元々は「かたたがい」と発音されたようですが、現在は「ほうちがい」の読みが一般的であるようです。南海堺東駅を降りて北東に向かって歩くと、方違神社が見えてきます。


入口の様子。

この日は車が多く、警備員の方が複数名おられました。何かの行事があったのかな。


拝殿。

 

方違神社の起源は崇神天皇8年と言われますので、例によっていつのころやら分かりません。

神功皇后が三韓征伐の帰路に立ち寄ったという伝説から、応神天皇時代に神功皇后を合祀し、方違大依羅と号したとのことです。大依羅(おおよさみ)は以前に取り上げた大阪市住吉区の神社の名称でもあります。古代はこの地には大和川はなく、住吉とは陸続きだったので、何らかの関わりがあるのかも。
熊野街道の近辺にあったことから中世以降は貴族との関わりも多かったようです。
毎年5月31日には「ちまき祭り」なるものが行われるのだとか。上の鳥居の写真の左にも「ちまき祭」の看板があります。


こちらが神功皇后の碑。

「御馬繁之松」とあります。神功皇后がこの松に馬をつないだのでしょうか? それにしては新しそうな松です 笑。


「三国丘」の碑。

この付近の地名は三国ヶ丘と言われます。この三国は摂津・河内・和泉の意味。ちょうど摂河泉三国の境目にあるというのが三国ヶ丘の地名の由来です。現在の堺市の大部分は旧和泉国ですが、北の方には旧摂津国、東の方には旧河内国であった土地も含んでいます。(ちなみに「堺」の名そのものが三国の「境」を表すのだという説もあります。)
方違神社は三国の境目にあるため、方位による災いが消える場所という意味もあるのだそうです。方位の厄払いなるものもあるようですが、方位による厄というのはなかなか現代人には想像しにくいです。
なお、現在の三国ヶ丘は、鉄道的には南海と阪和の乗り換え駅として重要な、三国ヶ丘駅がある地でもあります。


天皇陛下御在位五十年記念庭。

神社恒例の天皇関連の記念碑。昭和天皇在位50年なので1976年の碑と思われます。記念樹はよくありますが、記念庭というのは珍しい?


こちらは神社の南側にあった反正天皇陵(百舌鳥耳原北陵)。

正面から見ると天皇陵はどれも同じ形をしており、代わり映えがしません。
反正天皇は仁徳天皇の子供で、前回の藤井寺市の記事で登場した允恭天皇の兄にあたり、倭の五王では「珍」に相当するとも言われる天皇です。反正天皇のころの都は丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)と言われますので、旧丹比郡近辺(南河内の北西部)に都があったものと思われます。なお、反正陵は南にある仁徳陵と比べるとかなり小さな古墳です。


お馴染みの宮内庁によるいかめしい看板も登場。

どの天皇陵も同じ文言なのでしょうか?



(2)菅原神社

続いては菅原神社です。所在地は堺区戎之町です。
南海堺東駅から今度は西へ向かうと、南海堺駅との中間付近に菅原神社があります。この付近は古くからの堺の街の中心地で、少し南にある関口神社と合わせて、古くから重要な神社であったようです。方違神社は郊外の住宅地付近にありましたが、こちらの菅原神社は都市の中心部にある神社です。


鳥居の様子。



鳥居の奥にある楼門。

こちらの方が立派です。1677年の建立と言われますので、古い楼門です。


こちらが菅原神社の拝殿。


菅原神社は堺の天神さんとも言われ、その名の通り菅原道真を祀る神社です。大阪天満宮、服部天神、道明寺天満宮など、大阪府内にも道真由来の神社がたくさんありますが、菅原神社もその1つ。古くは常楽寺天神、または単に天神社と言われていたようです。
道真由来ですので創建は10世紀。その後1532年の大火により一旦焼失しますがすぐに復旧し、この16世紀当時が神社の規模は最も大きかったとのこと。この後の大阪夏の陣で社殿はまたしても焼失、その後1652年に再び復旧しますが、それ以前に比べて社殿の規模はだいぶ縮小されたとのことです。近世から近代を通じて、都市の中にある神社として親しまれてきたようです。


こちらは石田梅岩の像。

石田梅岩は石門心学で有名な江戸時代の儒学者。梅岩は京都府の亀岡の出身ですが、堺にも縁があったようです。商人の社会的役割を肯定する思想から町人にその教えが広まり、堺でも梅岩の思想は普及していたものと思われます。


古い石灯篭。

享保15年とのことですので1730年。約300年前のずいぶん古い灯篭です。石は長持ちです。


毎度おなじみ、天皇陛下御即位二十年記念樹。

このパターンも様々な神社でおなじみですね。
こちらは平成の天皇の即位20年ですので、2009年の植樹です。


神牛。

菅原道真は丑年生まれであることから、天神社には牛の像も多いです。これもその1つ。頭部が何やらキュートです。



(3)堺の街、展望台など

さて、ここからは堺の街や展望台からの風景などです。南海堺東駅周辺を中心に、特徴的なものをいくつか取り上げます。


こちらは南海堺駅前にあった与謝野晶子の像。

与謝野晶子は言わずと知れた、近代日本を代表する詩人です。与謝野晶子は堺出身で、堺市の公園などあちこちで与謝野晶子の歌碑もみかけます。過去に訪れた大鳥神社や浜寺公園にも与謝野晶子の歌碑はありました。
ちなみに与謝野晶子の旧姓は鳳です。鳳の読みは「ほう」ですが「おおとり」とも読み、大鳥神社や大鳥郡と言った地名の残る堺とは、関わりの深い名前なのかも。


こちらは堺東駅前の商店街。

堺市内は全体的に南蛮文化推しです。


16世紀の船と地図が登場する商店街も。

堺東駅は南海沿線であるため、難波に本店のある高島屋とも縁が深いです。


堺のバスはこんなデザイン。

「ようこそ堺へ」。金屏風を思わせる桃山文化っぽい色合いと、南蛮屏風の人物たちが描かれています。特徴的なバスですね。


居酒屋の看板に描かれるフランシスコ・ザビエル。

ザビエル楽しく飲酒。ビール片手の笑顔がいいですね。
ちなみに16世紀当時のイエズス会の宣教師たちは、日本人が酒を飲んでべろべろになる様子を見て、日本は酔っ払いの国だと驚いたのだとか。


こちらは堺市役所の1階フロアに展示されていた、住吉祭礼図屏風の複製図。

近世の大和川の付け替え以前は、現在の大阪市住吉区と堺市にあたる部分は地続きでした。なので住吉大社と堺の間に川はなく、今よりも住吉大社はずっと近い存在でした。住吉大社は大阪市のかなり南部にあるため、位置的には大阪の中心地よりも堺の方がずっと近いです。


この屏風で面白いのが、奇抜な服装をした人物たちです。

巨大な鹿の角?を背負う人物、頭部から木が生えているような?人物も。



こちらの人物も巨大な赤い袋を背負い、身長の倍以上ある金色の装飾を上部に立てています。いわゆる「かぶき者」といわれる人たちでしょうか? こういうイキリヤンキー文化的なものも、日本の一つの伝統なのかもしれません。


以下は堺市役所展望台から見下ろした付近の様子。

こちらは南側(旧和泉国方面)。

奥に見える森が大仙公園の近辺です。左に見えるのが仁徳天皇陵、中央あたりが大仙公園(平和塔が目立つ)、右奥が履中天皇陵です。


北側は大阪側(旧摂津国方面)。

中央奥にあべのハルカスが見えます。


南東側(旧河内国南部)。

奥に見えるのが金剛山地です。その手前、左奥に見える白い巨大な塔がPLの塔(富田林市)です。
摂津・河内・和泉の各所が見渡せる展望台になっています。


ゆるキャラ紹介コーナー。

堺市博物館の公式カレンダー、サカイタケルくん。

どう見ても奈良のせんとくんです 笑。デザイナーは籔内佐斗司さん。この方だデザインしたキャラクタはどれもご自身の顔に似ており、どれも同じ顔になるのが特徴的。奈良のせんとくんから鹿の角を取り払い、古代風の鎧を着せると、サカイタケルくんに変身します 笑。


こちらは南海堺東駅にいたハニワ駅長。

古墳には埴輪がつきもの。ということで埴輪がゆるキャラ化されているようです。このハニワ駅長は観光案内などに三次元キャラとしても登場します。全身着ぐるみのゆるキャラが多い中、頭部だけ謎の仮面をかぶっているというスタイルは珍しい? 手には切符を切る道具を持っており、駅長自ら切符を切るのがまた斬新。
ちなみに南海は自動改札の普及は早く、自分が子供のころの80年代後半時点で少なくとも都市郊外の駅にはほぼ自動改札は設置されており、このような切符を切る駅員の姿はみられませんでした。ところが新今宮駅で国鉄(現JR)環状線に乗り換えたとたん、多人数の国鉄駅員が集団で切符を切る姿に遭遇し、大都市中心部の駅なのに改札対応が人力という事実に驚いたことが、遠い記憶として残っています。


ということで、堺市のいくつかの神社と街の様子でした。
次回はいくつかの公園などを取り上げたいと思います。