大阪府堺市 浅香山緑道・ザビエル公園・大浜公園など | れぽれろのブログ

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前回の続きです。
今年のゴールデンウィーク、大阪府堺市に2日かけて出かけた記録。前回は神社や街の様子が中心でしたが、今回は公園を中心にまとめたいと思います。

堺市の公園といえば、浜寺公園、大仙公園、大泉緑地がとくに有名かと思います。
浜寺公園は明治6年(1873年)にできた古い公園で、砂浜と松林と海水浴場で有名だった場所。大仙公園は仁徳天皇陵のすぐ近くにある戦後にできた公園で、市立博物館や平和塔や図書館で有名。大泉緑地は中央環状線沿いにある戦前の防空緑地で、戦後に緑地公園として再開発された場所でした。
いずれも過去に訪れて記事化した場所ですが、堺市の公園はこれだけに非ず。今回はこれらの大きな公園より規模は小さめですが、特徴的ないくつかの公演の様子などをまとめておきたいと思います。



(1)浅香山緑道

まずは浅香山緑道です。
浅香山緑道は大和川のすぐそばにある緑道です。所在地は堺区香里ケ丘。最寄駅はJR阪和線の浅香駅です。
かつてはこの付近に浅香山浄水場があり、大和川から取水した水を浄水して配水していましたが、高度成長期以降の大和川の水質汚濁により取水と浄水は停止、現在は淀川などの別の場所から取水した水を配水する機能のみが残されています。この旧浄水場の東側(大和川寄り)が緑道になっていて、ここにたくさんのツツジが植えられています。


こちらが入口。

まずは「浅香山公園」の表示が見えてきます。この奥が緑道になっています。


既にツツジが咲いていて綺麗です。



ゴールデンウィーク中はちょうどツツジが綺麗に咲く季節。


でもこのツツジはまだまだ序の口です。

川沿いに歩いて行くと、巨大なツツジの密集地帯が。



かなり綺麗に咲いています。





赤、白、ピンクといずれも綺麗。
初夏の暖かい日、たくさんの人が散歩していました。


こちらは与謝野晶子の歌碑。

前回の記事でも銅像が登場した与謝野晶子は堺市出身の歌人。堺市の公園や神社などでは、よく与謝野晶子の歌碑を見かけます。


堺市水道事業発祥の地。

上述の通りここは旧浄水場なので、このような碑も建てられています。


大和川の様子。

ちなみに浅香山緑道から大和川を越えた対岸の大阪市側には、大阪市立大学があります(自分の出身大学です)。大阪市大には校歌はありませんが、古くから「聞けや大和の清流に♪」の歌詞で始まる学生歌がありました。上にも書いた通り大和川は高度成長以降水質が悪化していたので、当時の学生たちはおそらくこの歌を耳にするたびに、「どこが清流やねん」と心中でツッコミをいれていたことだと思われます(自分もそう 笑)。一時のことを思えば現在は川はいくぶん綺麗になっているのかも。


公園には昔のこの近辺の写真が掲示されていました。

1948年ですので戦後3年の大和川の子供たち。
写真提供が竹村健一さんとなっていますが、これはあの竹村健一さんなのかな…? あの竹村健一さんも大阪府出身のはずですが、真偽は不明。


こちらは南海電車の写真。

1991年なので31年前です。緑色の車体が懐かしいです。「若い人魚の歌声乗せて、走る電車は緑の電車♪」と歌われた南海電車は、緑の車体で有名でしたが、現在はこの緑のデザインはなくなってしまいました。


戦前の付近の地図。

阪和電鉄による1935年ごろの地図です。左側が北(大阪市)で、右側が南(堺市)です。現在のJR阪和線は戦前は阪和電鉄という私鉄でした。この地図によると昔から大和川沿いはピクニックに行く場所だったようです。まだ浅香駅はなく、杉本町駅の次が阪和堺駅(現在のJR堺市駅)となっています。「商科大学」とあるのが現在の大阪市立大学です。



(2)ザビエル公園(戎公園)

堺市は与謝野晶子、千利休、フランシスコ・ザビエルを推しているということは、前回の記事にも書いた通り。その推しの一人であるザビエルの名を冠した公園がありました。場所は堺区櫛屋町西、南海堺駅から少し東に向かったところにあります。


公園の様子。



聖フランシスコ・ザビエル芳躅の碑。

文字が見にくいですが、ザビエルが堺のこの地にやってきて、当時の堺商人にもてなされた旨のことが書かれています。これを記念してザビエル公園という名前になったということのようです。


公園内には南国風の木が目立ちます。

フェニックスの木でしょうか。


初夏の青空と南国の木は絵になります。



こちらは堺鉄砲之碑。

中世末期の堺は鉄砲の量産が行われていた場所です。堺は商業と工業の中心地でした。
量産化された鉄砲を駆使した織田信長らの集団戦術は、ヨーロッパのそれより大規模で、この鉄砲の量産化・戦術化により、日本はいち早く中世的な分権体制から近世的な半集権体制へ移行した、という説も聞いたことがあります。


公園の西側の様子。

解説によると、ちょうどこの手前の道路の部分が中世時代の海岸線で、この写真の奥の遊具がある部分は海だったのだとか。
中世の堺には大和川はなく、現在の大和川の河口は近世に大和川の付け替えにより設けられたものです。これによる大和川の河口の土砂の堆積などにより、堺の海岸線はずっと西に後退しました。現在は埋め立てにより、広々とした海はさらに遠くなっています。


船の遊具。

この船の遊具は、かつての海の上に浮かんでいるかのように存在している、ということになります。


こちらは島野庄三郎の碑。

公園の南側にありました。

自転車と釣具の生産で有名なシマノの社長の碑です。シマノも堺の有名企業の1つ。



(3)大浜公園

最後は大浜公園です。
ザビエル公園から大浜公園の方向に西に向かって歩いていると…。


あっ!!と思わず立ち止まります。


道の途中に明治天皇御駐蹕之跡の碑がありました。

ここは堺区戎島町、現在は住宅地になっていますが、かつては堺紡績所があった場所です。

大阪は明治の開国以降いち早く紡績業の都市として栄え、日本の近代化の一翼を担った場所。堺も同じく紡績業が重要産業でした。堺はこのような工業都市であったため、天皇の行幸のルートにも工場施設が入っていたものと思われます。


こちらは南海堺駅を越えて西側に歩いた海のそば。

南国風の風景が撮れます。いい雰囲気ですね。


海には謎の女神像が。

龍女神像というのだそうです。1903年に作られた像を、2000年に復元したものです。


その女神像に向かって手を振る人物。

こちらは呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)という人物の銅像です。元の名は納屋助左衛門、16世紀末から17世紀前期にかけて活躍した堺の商人で、東南アジアとの交易で巨利を得たのだとか。鎖国政策以前の日本の商人はかなりアクティブでした。


そしてこちらが大浜公園。

 

大浜公園は堺区大浜北町にあります。ほぼ海の間近にある公園です。
堺の大浜は古い地名で、上方落語「堺飛脚」などにも登場します。江戸時代末期はこの地はいわゆる台場、異国船の打ち払いのための砲台が設置された場所でしたが、1879年(明治12年)に公園となります。1903年(明治36年)には大阪の内国勧業博覧会の一環として水族館がこの地にできました。上の龍女神像ができたのもこのころ。現在は水族館はなくなりましたが、公園としては現在まで残っています。


松林が良い雰囲気。



小さい山も。

蘇鉄山という山のようです。「日本一低い山」との表示がありましたが、それは大阪港の天保山ではなかったのかな…?


大阪窯業煉瓦工場之跡。

工業都市堺には、やはり工場跡地の碑が目立ちます。


その側に現れるのはやっぱりこの人。

再び明治天皇御駐蹕之跡の碑です。工場訪問しすぎの明治天皇。
堺紡績所と同じときに訪れたのかもしれません。


こちらは擁護璽(ようごじ)。

1854年(安政元年)に発生した東南海地震・南海地震にまつわる碑です。
この地震は周期的に発生するいわゆる南海トラフ地震。この地震の際の津波は大阪・堺をも遅い、2000人以上の人が津波により亡くなったと言われます。
次の南海トラフ地震が1944年ですのでこの地震の90年後、周期性を考慮するとそろそろ地震が起こってもおかしくはありません。大阪人は津波に関する認識はかなり薄いですが、これは心しておかないといけないことです。


その他公園内には武道館などがあります。



こちらはサル舎。

中でサルが飼育されていました。


サルの様子。

ピントが金網に合っていて見えにくいですが、サルです 笑。


樺太犬慰霊像。

1958年、南極の昭和基地で亡くなった犬たちの慰霊碑です。
1958年当時の南極越冬隊は諸般の事情で犬を置いて帰ることになりました。犬たちは当然亡くなりますが、翌年の1959年に再び越冬隊が訪問したところ、2匹の犬(タロとジロ)が生き残っていたというのも有名な話です。この犬たちの慰霊のために堺市の獣医師が作ったといわれるのがこの碑です。


こちらが有名な旧堺灯台。

ですが、高速道路が邪魔して経路が入り組んでいるのと、歩き疲れた疲労もあって、近くまで歩いて行くのが面倒くさくなり、遠目からの撮影です 笑。


そのすぐ近くには南蛮人たちが来日する様子の壁画が。

堺はやはり南蛮推しですね。


公園内の表示。

流行りのSDGsに関わる表示も、堺ではなぜか古墳の形になっています 笑。


ということで、堺市の3つの公園とその周辺の様子でした。

堺は広くまだまだ見どころはありますので、また追ってあちこち訪れてみたいと思います。