保守のはなし、リベラルのはなし | れぽれろのブログ

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衆院選になりました。
選挙のときには社会や政治について考えようシリーズ、今回はいわゆる「保守」「リベラル」を中心に昨今の政治的立場などについて思うところを書き、合わせて今の政局について考えたことなどをまとめておきたいと思います。
当ブログで何度も書いている通り、自分は中道リベラルがいいなと考えている人間です。自分からみて保守はどうみえるのか、日本で保守はどうあるべきか、それに対するリベラルとはどういう考え方か、等についてあれこれ書いてみようと思います。


かつては保革対立と言われる通り、「保守」の反対は「革新」でした。革新は理性や知性で物事を解決できるという立場、保守はそうではないという立場です。
一般に保守思想の歴史は18世紀のイギリスの思想家、エドマンド・バークにさかのぼると言われます。その後フランス革命を経て保守思想は一般的になります。
フランス革命は理性を掲げ、かつての王侯貴族や宗教権力などではなく、民衆を中心とした階級の知的営みがあれば、自由や平等が実現できるという考えのもとに行われた革命でした。しかしその革命は結果として、ブルボン王の殺害からギロチンによる恐怖政治に至り、その後皇帝ナポレオンが即位し、ヨーロッパ全土を巻き込む戦争が勃発するという、大混乱の時代になりました。
ナポレオン没落後、バークに始まる保守思想が一般的になり、18世紀以前の王侯貴族を中心とした古き良き(?)ヨーロッパの安定した秩序を取り戻すために、かつての伝統的を重視し、急激な体制変革を否定するという立場が保守主義となりました。一方の革新は19世紀以降社会主義や共産主義という形で、さらに具体的に進化していくことになります。

日本ではどうか。
日本は江戸時代後期のとくに19世紀以降、外国船の来訪による対外状況の変化や社会不安等により、一部の地域の一部の階級では幕府への信頼が揺らぎ、かつての天皇を中心とした政治を求める声が高まります。現状の幕府を否定し、かつての天皇親政を取り戻す、このある種の復古的立場が明治維新の原動力にもなりました。
一方で明治時代前期、とくに1880年代は欧化主義の時代でもありました。近代化には西洋的な知見が必須、西洋の知を取り入れ、学問・科学・政治・経済・軍事を振興させ、欧米に対抗するというのが明治日本の国是でしたが、行き過ぎた欧化主義(鹿鳴館でのダンスなどに象徴される)は、逆に日本とは何かという考えを深めるに至り、単なる欧化主義は良くないという考えに至る、これが日本における保守の始まりなのだと考えます。
1890年前後は憲法や内閣制度や市町村制など近代日本の基礎が出来上がる時期ですが、この時期に合わせて教育勅語も発布され、欧化・近代化の中心に具体的に天皇が位置付けられ、これが日本の保守思想と結びつくようになります。西洋的な理性や知性だけでは物事への対処は不可能、この考えが古代から続く天皇と関係するのが日本の保守思想の1つの特徴です。


一方でリベラルとは何か。
今から7年前に自分はリベラリズムについての記事を書いています。(→[社会を考える-リベラリズム-]) 詳細はこちらの通りなのですが、簡単にまとめると、リベラルとは文字通り自由主義ですが、ただし人々が完全に自由に振舞うと社会が棄損されるので、ある程度の制限は必要であるという考え方です。

上にも書いた19世紀の革新思想は具体的に共産主義思想として伸張し、20世紀の初頭にはロシアで革命が起こりソ連が誕生、世界の共産主義化を目指すコミンテルンの考え方は自由主義国家にとって脅威となります。その結果、自由主義国家の方でも基本的人権や主権在民を推し進める政策が取られます。共産主義にできることは自由主義でもできるのだということを示す考え方です。憲法への個人の生存権の記載や普通選挙の一般化なども、共産主義の台頭以降のことです。
フランス革命に始まる、理性を掲げる革新思想を突き詰めると共産主義となる。それに対抗する自由主義側の施策がリベラリズムである、と考えることもできるように思います。保守主義はフランス革命の結果誕生し、リベラリズムはロシア革命の結果誕生した、という言い方もできるのかもしれません。

20世紀末に東側共産主義国家が次々と解体し、ソ連も崩壊します。その結果いわゆる革新という言葉はなくなり、保守と革新の対立、いわゆる保革対立もなくなります。
代わって登場するのが保守対リベラルという構図ですが、保守もリベラルも共産主義という巨大な革新思想に比べると大きな違いはなく、理性や知性を極端に重視するという考え方ではありません。何に重きを置くのかが現在の保守とリベラルでは微妙に違うという程度で、具体的な政策はそう大きな差異はない、しかしどういうわけか細かいところで対立が起き、社会に分断が生じているというのが現在の状況なのだと思います。
自分は常に「中道リベラル」という言い方をし続けていますが、リベラルは革新思想的・共産主義的な左ではなく、かつ極端な保守主義・復古主義的な右でもないという意味を込めています。


自分の考えでは、リベラルの根底には自由を求める思想がある。その上に個人の自由を重視するために社会にある程度の制約を課す。それが基本的人権の尊重であり、主権在民であり、平和主義の考え方です。
アメリカのニューディーラー(1929年の世界恐慌以降に登場したリベラリストたち)により制定された現在の日本国憲法は、この3つの考え方を元に策定されています。これはフランス革命以降の世界の混乱と悲劇を乗り越えた1つの成果であり、共産主義ではなく極端な保守主義でもないい、中道の理想主義を謳ったものです。
リベラルの思想は分かりやすさにあります。権力により極端に束縛される状態よりは自由が良い、人権が蹂躙されるよりは尊重される方が良い、主権が王や君主にあるよりは国民にある方が良い、戦争しているよりは平和な方が良い。極めてシンプルで分かりやすく、保守思想に比べると万人が納得しやすい思想だと自分は考えています。

一方今日の保守のロジックはなかなか込み入っており、難しくて分かりにくい。自分は日本の保守思想の本なども面白く読む方ですが、天皇を日本の中心に据えるようとするそのロジックはなかなか難しいです。なので、保守は情念であるというようなロジックを放棄した概念も出てきやすいのかもしれません。
また、リベラル派が是とする日本国憲法は外来の思想であり、日本の伝統にそぐわないという考えもあります。これについては、歴史的には日本は外来の物を常に摂取し、日本風に作り変えてきたという歴史があります。稲作、仏教、律令制度、鉄砲、儒学、立憲君主制、いずれも外国から受け入れた制度・文化を日本風に作り変え、その輸入元よりも場合によっては深く、洗練された形で受容していくのが日本の伝統であると言えます。
なので、ニューディーラーの思想を日本風に再運用することは極めて伝統的な日本のあり方であると考えます。このような摂取と日本的受容の伝統こそが、一つの日本の保守すべきも対象であるという考えも成り立つように思います。


ここまで大きな保守思想・リベラル思想について書きましたが、生活レベルでは保守はもっと身近なものなのかもしれません。家族が大事、地域が大事、伝統が大事という考え方は、日常とその延長レベルでは有効に機能します。
生活保守などと言う言葉もあります。自分はこのような考え方は理解できますし、自分自身個別に保守したい対象はあります。40歳を過ぎると人間は保守になる、などと言われますが、これは年を経るとそれぞれの共同体の責任を負う立場となり、守るべきものが増えるからなのかもしれません。こういった日常の生活保守の立場は重要で、尊重されるべき考えであると自分は考えます。
問題はこの身近な保守的思想が一気に国政までジャンプすることです。私の家族が大事、私の地域が大事、私の考える伝統が大事、だからこれらは国政レベルでも大事なはずである、このような考え方は少々危険です。
社会には多様な人間がいます。ある人が保守したいものと、別の人が保守したいものはバッティングするかもしれません。国政はこれらの個別のそれぞれの生活保守の立場を調整する場であるのが理想的で、国政自体が万人が保守したいと思うような立場を掲げるのは、自分は難しいと考えます。

ポイントは多様性だと思います。
先日の自民党の総裁選の候補者のうち、ある候補は天皇と日本語が日本にとって大切であると述べています。また別の候補はご先祖様やお寺や神社が日本にとって大切だという旨の発言をされています。
天皇・日本語・ご先祖様・神社仏閣を大切にするというのはまさに1つの保守思想です。しかしこれらの対象は万人が大切だと思えるものではありません。天皇にシンパシーを抱けない人もいます。日本語を母語としない人もいます。ご先祖様や神社仏閣からは疎遠な人もいます。これらの人をも包摂するには、もっと慎重に言葉を選ぶ必要があります。
「私は天皇や日本語が日本にとって大切であると考える。しかしそうでない方もいらっしゃることだと思う。日本の国土に住む方であればどなたでも日本国民であり、私はそのあまねく国民のために仕事をしたいと思う。」くらいの補足があれば妥当なのではないか。慎重に言葉を選ぶ穏健な保守思想であれば自分は尊重したいですし、いわゆるリベラル思想ともバッティングしない保守思想というのも可能なのではないかと思います。

同時にリベラルの側も、もし個別の生活保守の立場を排除しようとするなら、それはそれで問題です。家族が大事、地域が大事、伝統が大事、その構え自体は尊重されるべきですし、リベラル側が否定できるものではありません。このあたりもやはりポイントは多様性であると考えます。


最後に昨今の政局について。
今回岸田文雄氏が自民党総裁となり、内閣総理大事にに就任しました。自民党としては宮澤喜一以来のほぼ30年ぶりの宏池会系首相となります。
宮澤喜一と言えば1955年以降続いた自民党内閣、いわゆる55年体制の最後の首相です。1993年以降の政界再編で様々な内閣が誕生し消えて行きましたが、約30年を経て派閥主体の穏健な宏池会内閣に戻ったことは、この30年の混乱を考えると良かったのではないかと思う一方、結局30年前に逆戻りなのかという感じも受けます。
一方の立憲民主党も「政権取ってこれをやる」という7つの事項を先日発表しましたが、これでは多くの人に届かないのではないかというのが自分の印象です。この7つの事項は個別には自分もたいへん重要だと思いますし、すべてに対して賛成、直ちにやってほしいとは思いますが、国民の関心がどこまであるのか(例えば日本学術会議問題などマニアックすぎて誰も関心がないのではないか)という内容で、中道を取りに行くために掲げる政策とは言い難い内容になっているように思います。
2009年に旧民主党が政権を取れたのは、中道をきっちり押さえられたからです。このような内容をトップに押し出すようでは絶対に政権は取れない、これではまるで、立憲民主党は80年代までの旧社会党のような、単なる野党政党になってしまっているように思います。
与党も野党も気が付けば30年前に逆戻り、やはり全体として社会が保守的になっているのかもしれません。それ故に昨今の社会は保守思想とも相性が良いのかもしれない、そんなことも考えたりもしています。