ゲンロン11 悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶 | れぽれろのブログ

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批評誌「ゲンロン」の最新刊、「ゲンロン11」を読みました。
この中で、東浩紀さんによる「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」と題された論考が非常に面白かったので、覚書と感想などをまとめておきます。


「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」は、前回の「ゲンロン10」に掲載された「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」の続編です。
賢いとされる人類がなぜ愚かな悪を成すのか、旧日本軍・ソ連軍・ドイツ軍が成した愚かな悪(加害)を巡って、悪(加害)が躊躇や呵責がなく極めて簡単に行われている事実、その悪(加害)を記憶することの難しさといったことが、前回の論考のテーマでした。(自分なりのまとめと感想はこちらの記事を参照 → [ゲンロン10 悪の愚かさについて]

その続編である今回の論考のテーマは、チェルノブイリ原発事故です。
原発事故は起こそうと思って起きたわけではない事故であり、前回の悪(加害)と比較しても、さらに加害の主体性の希薄な悪です。
本論考では著者がチェルノブイリを訪れた経験を通して、チェルノブイリが辺境の地に存在し過去何度も帰属先が変わったという事実(リトアニア、ポーランド、ロシア、ソ連、ウクライナetcと帰属先が変わる)や、辺境の地であるが故に原発が立地された事実、現在チェルノブイリはウクライナ領ですが現在進行形でロシア的なものからウクライナ的なものへ変遷して行っている事実などが指摘され、チェルノブイリという場所の歴史的多様性と、あり得たかもしれない別の可能性について考えれれています。
さらにチェルノブイリ事故を巡るドラマ(フィクション)の紹介や、現在観光地化しているチェルノブイリの在り様を通して、愚かな悪(加害)を記憶することのヒントを模索するのが本論考の主要な流れです。

その中で、本論考では、中動態という視点を導入することと、固有名の訂正可能性について考えることという、2つの哲学の考え方を通して、論考が補足されています。
この2つの論点は非常に重要です。
中動態は2017年に國分功一郎さんが出版された「中動態の世界」を通して読書人層の間で有名になった概念です。自分なりにまとめると、人間が主体的に振舞う「能動」と、人間が客体的になる「受動」以外の、能動でも受動でもない人間の行動の在り様を「中動」と定義することにより、多くの人間の行為が実は中動態的(≒非主体的かつ非客体的)に行われていることを示すことができるという、非常に便利な考え方です。
固有名の訂正可能性の問題は、一般名詞が比較的定義が容易である(例えば「三角形」などは容易に定義できる)のに対し、固有名詞は定義が確定しない(例えば「ソクラテス」の定義は困難、新たな歴史的事実の発見や、人々の間でのイメージの変遷に伴い、「ソクラテス」なる概念の定義は時代によりどんどん変わっていく)という事実から、固有名詞の定義はいくらでも訂正可能・拡張可能であるという考え方です。

中動態論は愚かな悪(加害)を考えるのに有用な概念です。
前回の論考の1つのテーマである旧日本軍の731部隊の成す悪にせよ、広島・長崎への原爆投下という悪にせよ、加害者側に主体的に悪(加害)を行っているという認識は薄く、極めて中動態的に悪(加害)が行われている。これはチェルノブイリや福島の原発事故とて同じことです。(哲学者アーレントの説とは異なり、実はアウシュビッツのユダヤ人虐殺に関わったアイヒマンですら中動態的に振舞っていたのではないかと示唆されている点も、本論考の非常に面白いポイントです。)
悪(加害)の中動態性を考えることにより、初めて愚かな悪(加害)の実態を捉えることができるというのが、本論考の重要な視点です。

さらに、固有名の訂正可能性論を通して、悪(加害)としての固有名の認識を更新することの重要性が指摘されています。
現に「チェルノブイリ」という固有名の概念は、チェルノブイリという場所の歴史的帰属先の変遷や原発事故の経緯により、どんどんイメージが変わっていっています。このことをさらに拡張し、フィクション(虚構)を通して固有名のイメージを更新し、悪(加害)の記憶につなげることの可能性について、本論考では触れられています。
加害史観的・被害史観的(能動的・受動的)な博物館の展示は単に政治的に悪を定義しているだけであり、歴史的悪を必然として捉えている、これでは中動態的で愚かな悪を記憶する手段にはならない。フィクション(虚構)を通して、あり得たかもしれない過去・現在・未来を想像することから、歴史的悪を一つの偶然として捉え、固有名の更新と、中動態的で愚かな悪の記憶へ繋げていくことができるのではないか。
能動的・受動的・必然的な歴史観から、中動態的・偶然的な歴史観へ。本論考ではこのようなことが示唆されているように読めます。


考えたことを3点ほど記載し、当ブログの関心に繋げてみます。

まず悪の中動態性について。
本論考では、人の成す悪の中動態性が考察されていますが、これを拡張すると、この世界になぜ悪があるのか、神の成す悪の中動態性についても考えることができるように思います。
世界はそもそもデタラメであり、人間の生は一切皆苦である。世界は本質的に偶然性に満ちており、不条理なものであるが故に、放っておくと悪が栄え、正直者が馬鹿を見るのがこの世界の在り様。であるからこそ人倫の構築は必達。これが当ブログの世界観です。
抽象的に書くと、この世界に悪が存在するのは、万物の創造主たる神(がいると仮定するとその神)が、中動態的だからです。
前回の自分の「ゲンロン10」の記事でも触れた旧約聖書の「ヨブ記」について、中動態というキーワードを用いると分かりやすい。(「ヨブ記」の詳細は前回の記事を参照。)
ヨブは神を能動的な存在として、自らを受動的な存在として捉えています。これはヨブの友人たちも同じです。
神の成す悪(加害)には理由がある。この捉え方故にヨブは悩み苦しむ。
しかし「ヨブ記」の後半に登場する神は、極めて中動態的です。神は理由があって悪を成すのではなく、単に悪を成す。このことへのヨブの気付き(悟り)が、「ヨブ記」の重要なテーマであると自分は考えます。
神の中動態性は、世界のデタラメさの寓意です。人倫の構築を志向するための第一歩は、世界のデタラメさに対する認識が必達、このためには世界(≒神)の中動態性を考える視点は有用です。

続いてアートの役割について。
当ブログでは、分かりやすい政治的主張が込められたアート作品を凡庸なものと考え、こういったものはプロパガンダと大差がないということ、それよりも、寓意性や多義性や笑いに満ちたアート作品こそが面白い、ということを何度か書いてきました。(ここで言う「アート」はいわゆる現代美術としてのアートだけではなく、その他の芸術作品やサブカルチャー、文芸作品や映画作品、ノンフィクションやドキュメンタリーをも含みます。)
本論考で触れられる中動態論と固有名論を通して、この考えに繋げることができるように思います。
分かりやすい政治的主張・プロパガンダは、能動的主張と受動的受容があるのみで、ここから浮かび上がってくるのはある形の世界を必然とする考え方、暴力的で排他的な考え方です。(もちろんこういった主張がときに必要であることも一定程度理解できます。)
アートとして面白いのは、作者はむしろ中動態的で、世界の在り様(世界の偶然性・デタラメ性)がそのまま浮かび上がってくるような作品です。
寓意性や多義性や笑いの要素を含むアート作品を制作することは、固有名を考え直し、更新し、ズラす営みであるとも言えます。
中動態論と固有名論を通してアート作品を考えてみることも、非常に面白いのではないか、このことは愚かな悪(加害)をアートを通して記憶することの可能性にも繋がります。

3点目は歴史研究の面白さについて。
本論考の固有名論を通して、歴史研究の醍醐味は固有名の更新可能性にあるのではないかと考えることができるように思います。
「○○は実は××だった」という新たな発見と立証、それを現在の問題系に接続していくことが、歴史研究の一つの重要な役割です。例えば「満州事変」や「日中戦争」といった固有名に関わる歴史を捉えなおし、再定義するのが歴史研究。
このことは歴史の面白さでありながら、デタラメな歴史観が増殖する危険性も伴います。
ここでもキーワードは中動態です。
歴史上の人物は常に主体的・必然的・能動的に振舞っているわけではなく、その人物を取り巻く環境や時代の要請に伴い、人物は歴史の流れの中で偶然的・中動態的に振舞っています。例えば、満州事変における石原莞爾や日中戦争における近衛文麿の意志決定の問題は重要ですが、ここでも彼らの主体性のみを考え断罪するだけでは不十分で、当時の軍・政治・メディア・社会の環境全体を捉えて考察していくことが肝要です。
中動態的な考えは、歴史のプロパガンダ化、歴史人物のヒーロー化(アンチヒーロー化)を防ぐためにも有用な考え方です。


自分は東浩紀さんの良い読者ではない(ここ数年の数冊しか読んでいない)ので、中動態論にせよ固有名論にせよ、過去に別の論考で触れられているかもしれず、必ずしも本論考によって新たに示されたテーマではないのかもしれません。(さらに言うと國分功一郎さんの「中動態の世界」も自分は読んでいません。)
しかし自分は本論考ではこの2点が非常に面白く、社会・アート・歴史を考える上で、非常に有用なポイントであると考えました。

「ゲンロン11」はこの他にもたくさんの興味深い論考が掲載されています。
何点かの漫画論は左派運動と関わりの深い内容で、戦後史を考える上で面白い。
石田英敬さんの記号論も興味深く、意識-述語論が東さんの論考と呼応してる(奇しくも例文がどちらも「ソクラテス」)のも楽しい。
速水健朗さんの独立国家論は、これまた別の可能世界の考察(固有名の未規定性と関わる)という、東さんの論考と重なり合うテーマの連載で、今回が最終回で近々単行本化されるとのこと。
辻田真佐憲さんの国威発揚年表は数項目ごとに笑える年表で、これまた愚かな歴史の記憶の手段として有用であると感じます。
「ゲンロン11」、ご興味のある方は手に取ってみるときっと面白いと思います。