音楽の危機 <第九>が歌えなくなった日/岡田暁生 | れぽれろのブログ

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岡田暁生さんの新著「音楽の危機 <第九>が歌えなくなった日」(中公新書)を読みました。
以下、覚書と感想などをまとめておきます。

岡田暁生さんは音楽学者で、中公新書において「オペラの運命」「西洋音楽史」「音楽の聴き方」の3冊の既存著作があります。どれも面白い本で、自分はこの3冊を中公新書音楽三部作と勝手に呼んでいます 笑。
「音楽の危機」はその岡田さんによる新著で、本年4月~6月のコロナ下において、クラシック音楽を中心に音楽について考察した本です。
我々が当たり前にように享受してきた音楽を聴くという行為、これが禁じられたのが今年の春以降に起こった出来事。集まることが禁じられ、録音以外の音楽が社会から消えてしまった時代において、そもそもクラシック音楽とは何だったのか、集まって演奏する・聴くとはどういうことかを、改めて考え直したのが本書です。
昨今の中公新書は実証研究ベースの書籍が多いですが、本書はどちらかというとエッセイ調で読みやすく、それでいて音楽について重要な視点を提供してくれる、興味深い本になっていました。


本書は全体が大きく2部で構成されており、第1部と第2部の間に「間奏」と呼ばれる章が挟まれ、最後に終章があるという構成になっています。
以下は自分なりのまとめです。

第1部は、そもそもクラシック音楽とは何だったのかということが主なテーマ。
クラシック音楽が西洋近代の資本主義・自由主義・民主主義とは切っても切れない関係にあること、音楽の聖性は実は俗なる空間から生成していること、ライブ音楽と録音は異なり(本書では録音は音楽とは異なる「録楽」であると主張されている)音楽鑑賞の場で発生する可知しにくい音や人々の気配の重要性、音楽家が「聴こえない音を聴く」存在であることなどがまとめられています。

間奏と呼ばれる章では、音楽が不要不急のものであるとされ、今日と同様に音楽が社会から消えてしまった第一次世界大戦下のヨーロッパをふり返り、人々は音楽を渇望し結局音楽は復活したこと、しかし音楽は確実に録楽に切り替わっていったことなどが書かれています。

第2部ではクラシック音楽の時間意識について考察されており、ベートーヴェンの第九交響曲に代表される西洋近代の時間意識(輝かしい勝利に至る時間経過)に触れた後、音楽の終止をいくつかの類型に分類し近代の時間意識を相対化し、最後に5つの現代音楽の形式に触れ、近代とは異なる新たな時間の捉え方の模索のあとについて紹介されています。

終章は音楽が演奏される空間についての考察。
近代クラシック音楽がホールの構造と不可分であることに触れ、コロナ下においてソーシャルディスタンスが強要される中、その制約を利用したような批評的な音楽形式を模索することの重要性についてまとめられています。


感想・考えたことなど。

まずライブと録音の違いについて。
ライブこそが音楽であり、録音はそれとは異なる「録楽」であるというのが本書の主張。(録楽を否定しているわけではないことには注意。)
これは全くその通りで、生演奏の場で奏者や観客の存在を感じながら(会場のノイズも含め)その場で発せられる音を聴くという体験と、場と切り離された音の痕跡のみを聴く録音とは、身体的に全く異なる体験です。
ライブは時間と身体のある種の拘束を伴う、日常から断絶された状態での鑑賞体験であるのに対し、録音は聴覚以外は非拘束的で日常の延長にある鑑賞体験です。

コロナ下ではライブができなくなった結果、ストリーミングで生放送する形態も増えましたが、ストリーミングだと心が動かないという意見もよく聞かれます。自分も同意見です。
ストリーミングは身体は日常の中にあるにも関わらず、時間のみ拘束されるというデメリットの方が大きいように感じられ、これやったら録音(録画)でええやん、と思ってしまいます。そんなわけで生演奏に行けなくなって以降、自分はストリーミングも全く関心が持てず、鑑賞していません。(しかし自分は録音やストリーミングには肯定的です。理由は後で触れます。)

次に(これが一番重要なことだと思いますが)、近代資本主義・自由主義・民主主義とクラシック音楽との関わりです。
近代社会は誰でも自由に振舞うことができ、自由に市場に参加し、自由に政治に参加し、自由に物事を享受して良い社会です。

音楽も誰もが参加し鑑賞し享受する機会が与えられているのが近代です。かつては西洋音楽は王侯貴族や宗教者のものでしたが、19世紀以降は多くの人に開かれるようになりました。
その一方で19世紀は制限選挙の時代です。
誰もが政治に参加できるとは言え、その対象は納税者の男性に限られていました。同時に帝国主義下では経済は後発国からの収奪により成り立っていました。
女性や子供や低所得者や後発国の人間は「誰もが」の中に含まれないのが19世紀の社会。そんな中で花開いたのが西洋ロマン主義クラシック音楽です。
近代社会は自由であると言いながら本質は排他性を持った社会、表向きの自由・平等とは裏腹に、「誰にでも開かれている」構造と「誰かを排除している」構造が表裏一体になっているのが近代社会です。

20世紀に入り、本書でも触れられる第一世界大戦の時期を契機に、帝国主義体制は見直され、徐々に女性や低所得者にも選挙権が与えられ、平等化が進んでいきました。
同時に大衆社会化が加速し、技術の発達により録音音楽が大衆に普及、より多くの人が音楽を享受できるようになったのが第一次世界大戦後の20世紀の社会です。大文字の「西洋クラシック音楽」の時代は第一次世界大戦を契機に終わり、以降はポップスと録音音楽の時代に移っていきます。
クラシック音楽も再現音楽化・録音音楽化し、録音で再現音楽に触れた鑑賞者の一部が、19世紀的なものの残滓である演奏会の会場に足を運ぶという音楽体験が一般化します。これはクラシック音楽の平等化であると同時に、音楽体験の平凡化が生じているとも考えることができます。
一部の人が崇高なライブ音楽を享受できる時代から、多くの人が平凡な録音音楽を享受できる時代へ。コロナがなくてもこの方向性は変わらなかったとは思いますが、コロナ下でおそらくはこの流れはさらに加速することだと思います。

本書の副題にもなっているベートーヴェンの第九交響曲が示唆的です。
本書でも取り上げられている、フルトヴェングラーのナチス政権下での第九交響曲の圧倒的名演と、S・キューブリック監督による「時計じかけのオレンジ」の第九交響曲の主題化は、非常に重要です。
前者は近代の権化であるナチス政権(「誰かを排除している」近代の一面を徹底的に推し進めたのがこの政権)の時代においてこそ、再現音楽・ライブ音楽の一つの完成形であるこのような演奏が残されたのだいうことが重要。
後者は近代の自由と暴力性を第九交響曲に象徴化したような作品で、自由と人間性が失われ第九が聴こえなくなるときに暴力もまた失われ、自由と人間性と第九が復活するときにまた暴力性も復活するという、近代批判の作品です。
第九そのものの歌詞の中の「(幸福に愛し合うことが)できない人は、この輪から泣きながら立ち去れ」という歌詞の隠れた排他性に近代の本質を見る、アドルノによる指摘も重要です。

自分は、19世紀的なもの≒排他的な近代≒崇高なライブ体験≒第九交響曲的なものが衰退していくのは、時代の流れであり仕方がない面があると考えます。
同時に、20世紀的なもの≒大衆化された現代≒凡庸な録音体験≒非第九交響曲的なものが蔓延していくことに極めて肯定的です。
一方で19世紀的なライブ体験の残滓を今後も鑑賞したいという気持ちも強くあります。本書の終章で考察されているような、コロナ下ならではの空間設計(ソーシャルディスタンス)を逆手に取ったような批判的な音楽を鑑賞してみたいという気持ちもあります。
このあたりのクラシック音楽やライブ音楽に対するアンビバレントな自分の考えを改めて確認できたのが、本書を読んで最も良かった点です。(なお、著者の岡田暁生さんも、おそらくはクラシック音楽に対してのアンビバレントな感情を持たれていることが本書から読み取ることができるように思います。その意味でクラシック音楽研究者でありながら、クラシック絶対主義とはならない真摯な書き手だと思います。)


これ以外にも本書「音楽の危機」には多くの論点が提示されています。
クラシック音楽やライブ音楽に関心のある方、コロナ以降の音楽のあり方に関心のある方は、本書を読んでみるときっと面白い視点を提供してくれることだと思います。
最近の中公新書にしてはかなり読みやすい本ですので、実証研究的なものが苦手な方に対しても、本書はお勧めです。