倫理のはなし | れぽれろのブログ

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東京は現在都知事選の選挙期間中です。
自分は大阪府在住ですので、東京都の選挙には直接影響はなく、さほど関心もないですが、選挙期間中くらいは社会について考えようという以前からの当ブログの習わしに従い、社会についての記事を書きます。

昨年の統一地方選の際に「経済のはなし」という記事を書き、参院選の際に「政治のはなし」という記事を書きました。
今回は倫理について思うところなどをまとめてみたいと思います。
しかし、倫理について考えるのは非常に難しい。本屋さんに行けば、経済についての書籍や政治についての書籍はたくさん並んでいますが、倫理を扱ったような書籍はそんなに多くないように思います。
自分の文章は考えていること・分かっていることを割とクリアに記述する方だと思いますが、経済・政治に比べて倫理は難しく、今回はやや不透明な文章になりますが、ご興味のある方はお読みください。


今から7年前、2013年の参院選の際に、自分は以下のような記事を書いています。
 → [社会を考える-2013夏- ①生きる意味]
これは35歳のときに書いた記事で、今読んでもなかなか面白く、生の意味より生自体の充足を重視する、れぽれろらしい(笑)記事のように思いますが、読みようによっては倫理の軽視ともとれる文章であり、大枠では間違っていないと思いますが2020年時点から振り返って読むと少し物足りなさを感じる文章です。(これから7年が経って42歳になった現在、自分もいささか保守的になっているのだと思います。)
この記事の最後に、次回に続く形で記載されている「苦しみの緩和」というテーマは、「最大多数の最小不幸」(この2年前の菅内閣のキャッチフレーズである「最小不幸社会」にも通じる)を目指す構えであり、抽象的に言えばベンサム的なものを否定しロールズ的なものを肯定する、簡単に言えば「一部の不幸な人を犠牲にしても全体の幸福を極力大きくする社会」より「一部の幸福な人の幸福度を下げてでも全体の不幸を極力小さくする社会」の方がよいという考え方です。
このような社会をあるべき形として示すことについては今でも自分は間違っていないと思いますが、こういう社会を実現するためにも倫理が必要、とりわけ政治の中心にいる人たちの倫理感が必達です。

この2013年の夏は、まだオバマが大統領であり、イギリスの首相はキャメロンであり、安倍政権が発足してまだ半年しか経っていない時代、日本社会はアベノミクスだ何だと浮かれていた時代であり、今からか考えると呑気な時代です。
この年の秋に閣議決定された特定秘密保護法を皮切りに安倍政権が「本気を出す」のがこの2013年の年末以降、その後アメリカではトランプが登場し、イギリスはブレグジットとジョンソンの時代に移り、日本では7年以上現政権が継続しある面での暴走と別の面でのサボタージュが続いています。
日本ではコロナ対策の失敗により現政権はポイントを落としていますが、その中でポスト安倍を目論んでいるかに見える現都知事・府知事らの現首相を越えるポピュリストぶりを目の当たりにすると、やはり為政者の倫理というものを考えざるを得ません。
昨年の「政治のはなし」の記事で書いた通り、システムは政治の悪化を防止することができるが、政治をよりよくするのは人でしかない、というのが自分の考えです。
政治をよりよくするための為政者の動機をどう調達するかという点で、倫理は非常に重要です。


自分は社会のあまねく人々が高度な倫理観を獲得するような社会は不可能だと思っています。しかし、為政者にはある程度の倫理観が必要、その倫理観を如何にして獲得するかは、考える必要がある。
さらに現在は一人一票の民主主義社会であり、為政者のポピュリスト的な言動に容易に動員されないようにするためにも、社会のある程度の人々が最低限の倫理観を持っている必要があると感じます。
そのためにはどうすればよいか。

一般に欧米では倫理の中心に宗教があると言われます。
一神教的な神の眼差しを前にしてはじめて人々は「ちゃんとする」、ちゃんとした人々が一定数いることで社会が回る。アメリカでトランプが暴走する中、何とか最悪の事態を回避しつつトランプを制御できているのは、周囲の人間にある程度の倫理観が存在しているからなのかもしれません。
しかし、日本については一般に倫理観は薄く、人々の行動を規定するのは「空気」(山本七平)であり、「世間」(阿部謹也)であり、「つぎつぎになりゆくいきほひ(次々に成り行く勢い)」(丸山眞男)であると言われます。
つまり、日本の人々が行動を律するのは一神教の神のような超越的な目線ではなく、まわりの人々による目線であり、小集団や中間集団の相互監視の中で初めて人々はちゃんとする、日本はそういった社会です。このことは少し前のコロナ下の社会についての記事で書いた通り、昨今より明確になったように思います。
これでいいのかと問われれば、やはりNOと言わざるを得ない。
社会の目指すべき方向性が明確な時代はこのような心性でも良いようにも思いますが、まかり間違うと同調圧力に屈して暴走する、日本社会はそういう危うさを持っています。


戦国の世に終止符を打った徳川幕府は、いかにして幕藩体制を維持するかについて考え、儒学を重視し、為政者の価値観の中心にこれを据えました。
徳川幕府の目標は戦国の世に戻らぬようにすること、そのために真っ当な政治を執り行うこと、まわりの空気によらない倫理を獲得するため儒学を重視し、17世紀を経て武断政治から文治政治に移り変わっていきます。
儒学は外来の儒教を日本流にアレンジしたある種の虚構、しかしその虚構が時代を経て18世紀以降も一部幕府の重臣の倫理観を規定した、自分はそのように考えています。
その後、明治の近代化において維新の元勲たちは、儒学的なものの延長上に古代の天皇制を据えるという国学・水戸学的なアクロバティックな思想を採用し、天皇の目線により人々がちゃんとするという近代天皇制国家を構築しました。
近代天皇制ももちろん当初はフィクションで、維新の元勲たちの中で明治天皇を心から崇拝する人など誰もいない。しかしその虚構が時代を経て後年の政治家の行動を規定した。例えば吉田茂は尊王の政治家であったと言われ、彼が尽力した戦後日本社会の形成への動機づけの背後には、天皇の目線により行動を律するという倫理観がありました。
儒学を経由した近代天皇制は、ある時代までは為政者の倫理を規定するものであったと言えます。

近代天皇制はメリットもありますが、天皇自身も一人の人間である限り万能ではない。天皇は神ではなく人ですので、その目線を倫理の規範に据えるのは非常に危ういものでもあります。
近代天皇制の負の側面、例えば貞明皇太后とその影響下にある若き昭和天皇の意向が、30年代以降の戦時体制に少なからず影響を与えたという面も忘れてはならないことです。
平成時代の天皇はこのことを強く意識していたため、皇后と共に各地への行幸を繰り返し、とくに災害の際には必ず現地に赴き、常に倫理を体現する存在として公務を続け、国民と政治家に対し繰り返し直接的・間接的にメッセージを発し続けました。このことが一部の国民や政治家に影響を与え、行動を律するきっかけになったであろうことは推測できることです。
しかしこのような体制は非常に危うい、近代天皇制は天皇自身が「もう嫌や」と言い出した瞬間、制度自体が破綻するものです。
近代天皇制は、天皇自身がまともに振舞う限りにおいて、ある程度有効に機能する可能性があるという、非常に心もとないものです。


理想論として、倫理の中心に何を据えるべきか?
自分は中道リベラリストであり普遍主義者ですので、倫理の中心に据えるべきは、啓蒙思想に遡る基本的人権、パリ不戦条約に遡る平和主義、及びそれを支える、フランス革命に遡る国民主権の考え方以外にないと考え、「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」(現憲法前文)を実現し、さしあたって最大多数の最小不幸を目指すことしかないと考えますが、これを実現するための動機付けはどのように調達されるべきか。

自分は東京に遊びに行くたびに東京の街をウロウロ歩くことが多いですが、東京を歩いていていつも思うことは、近代天皇制の残存物が非常に多いことです。
靖国神社や明治神宮や乃木神社などの、近代天皇制の下で登場した「人間の神」がたくさん存在し、「なんとか恩賜公園」とか、「なんとかの宮公園」だとか、その手の施設が目につきます。近代天皇制をベースにしたある種の宗教的空間が東京という都市を覆っている、というのは考えすぎでしょうか。
他方自分の地元大阪の街にはこの手の感覚がほとんどない。護国神社は大阪の隅っこである住之江区の南西に追いやられ、街中に存在するのはいかにも商都的で観光地化した社寺ばかりです。
しかし畿内の場合、郊外からとくに京奈方面に向かうと、非常に古い社寺が、古代から中世を経て近代まで、各時代の歴史を重層的に感じることができる社寺がたくさんあります。
上記は首都圏や近畿圏の例ですが、地方都市やその周辺にも、たくさんの社寺が残っています。

自分は大阪の南河内の郊外で生まれ育ち(奇しくも現大阪府知事と同じ市の出身です)ましたが、都市郊外の住宅密集地というのは全く宗教的な感覚がない場所で、人々からは超越的・宗教的な感性は薄れ、損得のみを考えるようになりがちであり、自分が親から受け取ったメッセージは「正しく生きろ」ではなく「うまく生きろ」。
このような環境で育った人間が長じて都市空間に1人で放り出された場合、空気に支配されつつポピュリストの動員合戦に巻き込まれ、あるいはポピュリスト的動員に加担するようになるのは当然の帰結と言えます。
しかし都市を離れれば古い社寺がある、社寺では歴史的・超越的なものに触れる経験が可能である。
自分は親の出身が和歌山県の高野山で、自分は子供のころに何度も高野山を訪れています。
高野山は伽藍地区も見どころはありますが、とりわけ重要なのは奥の院です。たくさんの巨大な杉の木に囲まれ、古来から現代までの夥しい数のお墓が2キロ以上に渡って続く参道、この得も言われぬ超越的な空間、畏怖の感覚を幼いころに体験したことは、おそらく自分のその後の身体の構え、心の構えに少なからず影響を与えています。
自分も大多数の人たちと同じように決して倫理性の高い人間ではありませんが、最低限身に付けているある種の心の構えと、古いお寺の空間を体験したこととは、繋がりがあるように思います。


いささかアクロバティックな結論です。
倫理を形作ることができる心の構えの背景には歴史的感覚・宗教的感覚が必達であると自分は考えます。
歴史的・宗教的な感覚を思い出すためには、日本の場合、都市や郊外や山村に無数に存在する社寺が大きなリソースになります。それが畿内のような古来から続くものであれ、東京のような近代に構築されたものであれ、このような場所は我々が歴史や宗教性を体感的に思い出すための助けになる。
自分が近年(とりわけ2014年以降、「生きる意味」の記事を書いた翌年以降)、しきりに社寺を訪れているのはこのような直観があるためです。
近代天皇制を倫理の規範に据えるのはもはや不可能。社寺観光を通じて歴史や宗教性に触れること、かつてあったような神仏習合的な感覚、超越的な感覚、畏怖する感覚を歴史的に思い出すことの方が、まだ可能性があるのではないか。
東日本大震災の指揮にあたった菅元首相は決して有能な政治家ではなかったと思いますが、最小不幸社会を目指そうとした(目指そうとして失敗した)彼の最低限の倫理観の背景には、社寺参拝を重視する習慣との繋がりがあるようにも思います。
観光-歴史-宗教-倫理を接続し、それを普遍性(リベラリズムを通した不幸の最小化)に結びつけることができないか、為政者の心の構えに影響を与えることはできないか、最近とくに自分はこのようなことをよく考えます。