兵庫県 阪急沿線の神社仏閣 (清荒神・売布神社・門戸厄神) | れぽれろのブログ

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久しぶりの神社仏閣探訪シリーズ。
兵庫県にある3つの社寺、清荒神清澄寺(宝塚市)、売布神社(宝塚市)、門戸厄神東光寺(西宮市)を訪れてきましたので、写真と覚書などを残しておきます。

コロナ前の1月~2月にかけて、近代における鉄道の発達と社寺観光について考えつつ、大阪府内の私鉄沿線の社寺を巡ってみようということで、駅名に社寺の名前が採用されている8つの社寺を訪れました。
今回はその続編、対象は阪急電鉄です。
阪急の駅のうち社寺の名前が採用されているのは、服部天神・中山観音・売布神社・清荒神(以上宝塚線)、門戸厄神(今津線)、崇禅寺・総持寺・長岡天神(以上京都線)、松尾大社(嵐山線)の9つです。
このうち服部天神、中山観音、崇禅寺、総持寺は過去に訪れました。
今回は未訪問の5か所のうち、売布神社、清荒神、門戸厄神の3ヶ所を訪れてきました。(長岡天神と松尾大社もいずれ訪れたいなと思っています。)

明治に入り日本各地に鉄道網が整備され、官営もしくは民間により多くの鉄道が敷設されました。その後、日露戦争後の1907年に鉄道国有法が制定され、軍事上・産業上の理由から多くの民間の鉄道が国有化されました。

そんな中、明治末から大正初年にかけて、新たな民間の鉄道が次々と開業されました。近畿圏の場合、この時期に開業した鉄道会社、阪神電鉄(1905年)、箕面有馬電気軌道(1910年、現在の阪急)、京阪電鉄(1910年)、大阪電気軌道(1914年、現在の近鉄)等が現在私鉄と言われている鉄道です。
近畿圏の鉄道会社は国家のルールに縛られず、線路幅や駅の構造を(半ば法を無視して)自由に設計、より速くより快適な鉄道を目指すとともに、様々な形で沿線開発が行われました。

代表的なのがやはり阪急で、沿線の住宅開発を行い、郊外から都市へ通勤するという生活形態を確立、起点(梅田)に百貨店を、終点(宝塚)にレジャー施設(歌劇場)を設置し、通勤・ショッピング・レジャーのために日々鉄道を利用するという、20世紀都市郊外中間層の標準的なライフスタイルを定着させることに貢献しました。
社寺観光もおそらくこのような沿線開発の思想と関係がある。
阪急宝塚線は終点宝塚駅の前に、清荒神駅、売布神社駅、中山観音駅という3つの駅があり、それぞれ社寺の名前が取られています。
宝塚線の開業以降、池田や豊中に住宅を購入した人たちは、お休みの日にも電車を利用して宝塚方面へ向かい、これらの神社やお寺にお参りしたことと思われます。清荒神参道の商店街の発達や、中山観音の安産祈願のご利益の定着など、おそらく沿線開発の歴史と関係があるように思います。

以上を踏まえて(?)、3つの神社仏閣を並べてみます。


(1)清荒神清澄寺 (きよしこうじんせいちょうじ)

阪急宝塚線の開業は1910年(明治43年)、梅田-宝塚間に敷設された鉄道です。
まずは阪急宝塚線の終点宝塚駅の1つ手前、清荒神駅から歩いて約1.3kmほど北側にある清荒神清澄寺を取り上げます。
訪問日は6月27日の土曜日です。


駅を降りるとすぐ北側に「ようこそ清荒神へ」の表示が見えます。

ここから北へ約1.3km続く道が清荒神の参道で、間には様々なお店が並ぶ商店街になっていました。


こんな感じの商店街が続きます。


この日は曇り空で雨も降りそうな感じの日、かつコロナ開けということもあってか、人は少なかったです。たくさんの商店を見ると、往時にはもっと多くの人たちが訪れていたのだろうと推測されます。


しばらくすると見えてくる鳥居。

清荒神清澄寺は一応お寺という位置づけですが、神仏は明確に分離されておらず、鳥居などの神社的な建築物も多数みられます。
往時の神仏習合の雰囲気を非常によく残しているお寺、と言えるかもしれません。


突如現れるゆるキャラ、官兵衛くん。

官兵衛くんとは、5年前に訪れた姫路の北側、書写山圓教寺のロープウェイ以来の再会です。
黒田官兵衛が有馬温泉で養生したエピソードが記載されています。
鳥居の前は有馬街道の一部であるとのこと。


参道は龍の姿で現されます。

駅からお寺まであと950mとのこと。


商店街は続く。

なぜか占いのお店が多いです。
このあたりは近鉄石切駅から石切剣箭神社にかけての参道と共通です。
かつては神社仏閣の参道と言えば占いだったのかな?


やがて道は森の中へ。


 

龍の首の部分までやってきました。

ここまで来ればあと少し。


お寺のすぐ手前にも露店が並びます。

この写真には見えていませんが、「清荒神名物 明石焼き」の表示も見えます。
どう考えても明石名物やろ、などと突っ込んでしまいそうですが、清荒神でも有名なのかな?

占いのお店などもあり、全体的に石切神社の参道と類似性があるよに思いますが、石切参道のある種のキッチュさに比べると、清荒神参道の方がどことなく品が良いように思います。
これが近鉄沿線と阪急沿線の差なのか、などと考えてしまいます 笑。


ようやくお寺の入口です。


清荒神清澄寺のの開基は896年、宇多天皇の勅願により創建されました。
大日如来像が安置され、同時に伊勢内宮・外宮の15神を勧請したとありますので、9世紀後半当時の典型的な神仏習合のお寺、ということが言えるように思います。以前に訪れた道明寺の場合は明治期に厳格に神仏が分離され、お寺と天満宮が別々の敷地になり、沿革もいちいち別々にまとめられていましたが、清荒神はこのような厳格さはなくゆるゆるで、今でもお寺と神社が混在したような空間になっており、沿革もとくに分離することなく記述されていました。
源平時代・戦国時代に兵火に遭いましたが、その度に再興され、現在まで存続しているお寺です。


こちらが本堂。

中にはご本尊の大日如来がお祀りされています。


一願地蔵尊。

ひとつだけお願いをかなえてくれるのだそうです。
なかなか大きなお地蔵さんです。


本堂の左手には2体の布袋さんと鳥居があります。


神社の入口の両脇にいるのは狛犬などが一般的だと思いますが、禅僧である布袋さんが鳥居の両脇にいるとはこれ如何に。


拝殿。

明確に神社の形態です。
神仏習合ゆるいの感じがよいですね。


本堂右手奥の細い道を抜けると、



奥には聖光殿 鉄斎美術館と言われる建物がありました。


清荒神は富岡鉄斎の作品の蒐集も行っているのだそうです。
残念ながらこの日は美術館は閉まっていました。
富岡鉄斎は堺の大鳥神社の宮司をしていたこともあると言われ、何かと社寺に縁の深い絵師であったようです。


ということで、商店街の雰囲気も含め、良い感じのお寺でした。
阪神地区のお寺のなかでは、個人的にお勧めのスポットです。


おまけ。
清荒神駅のすぐ南側にあるベガホール。


自分は7年前に訪れたことのある、懐かしいホールです。



(2)売布神社 (めふじんじゃ)

清荒神駅の次の駅が売布神社駅です。
同じく6月27日の土曜日の訪問。
時間的には自分はこちらの売布神社を先に訪れ、お参りの後に清荒神まで散歩しました。
中山観音-売布神社-清荒神間はお参りのための道があちこちにあり、道案内もたくさんありますので、これらの社寺を歩いて巡ってみるのも楽しいと思います。

売布神社駅の駅前には、カトリック女子御受難修道会、宝塚黙想の家といった施設があり、キリスト教関係の施設が目立ちます。何やら阪神間の山の手にやってきたぞ、という雰囲気が漂ってきます。
これらのキリスト教系施設をを越えたところに、売布神社の入口がありました。


鳥居。



並木道の奥に見えてくる階段。

よい雰囲気です。


こちらが売布神社。

こちらは布袋さんではなく、ちゃんと狛犬がおられます。

売布神社は7世紀初頭、推古朝の時代の創建と言われますので、また例によって古い由来のある神社です。神社の名前は物部氏、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)と関連があるのだとか。
江戸時代初期までは貴船大明神と呼ばれていたそうですが、18世紀前半の調査により売布神社と改称され、現在に至るのだそうです。


アジサイが綺麗に咲いていました。


 

売布神社近辺を歩いていて見かけた表示。

近代日本画家、橋本関雪の別邸があった場所のようです。


敷地内は木々に覆われています。

邸宅が現存しているのかどうかを含め、よく分かりません。


清荒神・売布神社周辺は、富岡鉄斎や橋本関雪など、名だたる画家と関わりがある土地のようで、、その点も含め興味深いスポットだと思います。



(3)門戸厄神東光寺 (もんどやくじんどうこうじ)

最後は阪急今津線の門戸厄神駅の周囲にある、門戸厄神東光寺です。
訪問日は7月4日の土曜日、お昼過ぎは曇り空でしたが、やがて雨が強くなった日です。自分はちょうどお参りの帰り道に大雨に遭いました。

阪急今津線は宝塚線に遅れること11年、1921年(大正10年)の開業で、当初は西宮北口-宝塚間の運転(当時は西宝線と言われた)であり、後に今津まで延伸されました。
長らく今津-宝塚間の直通運転で、西宮北口で神戸線と十字に交差する線路(ダイヤモンドクロスと言われるのだそうです)で有名な路線でしたが、1984年(昭和59年)の西宮北口駅の改装により、今津-西宮北口間、西宮北口-宝塚間が分離され、現在に至ります。

自分は今津線は今回初めて乗車しました。
西宮北口から1駅、門戸厄神駅で下車し、西国街道に沿って西に向かうと神戸女学院大学の入口が見えてきます。ここから北に向かって歩くと門戸厄神東光寺の入口に辿り着きます。
この周辺はいかにも阪神間山の手といった感じの邸宅が続き、これぞ阪急文化圏、阪神間モダニズムを醸成した場所、という雰囲気がします。

南河内の住宅地出身の人間からすると、場違いなところにきたのではという感触も受けます(笑)。(同時に「不審者に注意」のような看板をやたらと見かけるような、やや歩きにくい街でもあります。若干ゲーティッドコミュニティー的な感じがする、などと感じてしまうのは河内出身者のひがみかもしれません 笑。)


住宅地を抜けると見えてくる、門戸厄神東光寺の表示。


 

入口。

こちらは表門です。


南門。


 

中楼門。

「厄神明王」の大きな提灯が見えます。

門戸厄神東光寺は高野山真言宗の別格本山で、829年の弘法大師による創建と言われ、お大師さんとかかわりの深いお寺です。
ご本尊は薬師如来ですが、それ以上に有名なのが愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王で、現在でも厄除けのお寺として有名です。
西宮市内では、西宮戎神社と合わせて有名な社寺なのだそうです。
鉄道の敷設とともに中山観音が安産祈願のお寺という面が強くなっていったのと同様、東光寺も厄除けのお寺となっていったのであろうと推測します。


敷地内には4つのお堂がありました。

薬師堂。

薬師如来がお祀りされています。


こちらが厄神堂。

厄神明王がお祀りされてます。厄除けのお堂がこちらです。

こういうところでお参りすると、そういえば自分はまだ後厄の年だったなと、余計なことを思い出してしまいます 笑。


大黒堂・愛染堂。

大黒天と愛染明王の両方がお祀りされているようです。
あれ、愛染明王と不動明王が一体化して厄神明王になったんとちゃうかったんか?
愛染明王自体も単独でおられるとみられ、このあたりの仏様の存在の在り様はなかなか難しいですね。


最後が大師堂です。

お大師様、弘法大師空海をお祀りしているお堂です。


門戸厄神は高野山と関わりの深いお寺。
敷地内には高野山の巨大な杉の木の一部が置かれていました。


延命杉。

高野山にあったとされる、樹齢800年、高さ60メートルの杉の根です。
延命と病気平癒のご利益があるのだとか。


こちらは法輪杉。

同じく高野山の樹齢800年の杉の木の幹です。
年輪に沿って、平安時代から現在までの年表が記載されています。
年輪と各時代に思いを馳せることができるようになっています。


突如現れるかえるくん。

祈願かえると言われ、「栄える」などとかけたご利益があるのだとか。
神社仏閣恒例のダジャレ信仰がまたしても登場。


松の木の様子。

この写真では途切れていますが、枝は左にもっと長いです。


表門のすぐ北側にあった碑。

東宮殿下御野立所。
東宮殿下とは大正天皇のことです。1911年(明治44年)、まだ皇太子時代の大正天皇がこの地を訪れ、当時の陸軍の演習をご覧になったとのこと。東軍と西軍に別れて戦った模擬演習の様子を、当時の陸軍大将乃木希典が大正天皇に逐一報告したと言われていますが、自由奔放な大正天皇のことですので、真剣に聞いていたかどうかは疑わしい(笑)。
原武史さんの「大正天皇」(朝日文庫)によると、この演習を見学したのは1911年の11月19日から20日にかけてのことで、大正天皇は休憩中に勝手に旧友の家を訪問し、旧友と語り合った後、次の演習の時間に遅刻したとあります。

なかなか自由な行幸で、いい感じです 笑。(個人的には令和の天皇もこれくらい自由であっても良いのでは、などと感じます。)


ということで、阪神間の北側の社寺とその周辺も、社寺や鉄道を巡って古代から近代まで様々な歴史を観察できる、面白い場所でした。


次回は京都方面を訪れてみようかなと思っています。