大阪府 神社いろいろ | れぽれろのブログ

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4月になりました。
当ブログ開始から7年が経過、この4月から8年目に入ります。
アクセスして頂いてる皆さま、今後ともよろしくお願い致します。

昨年秋に大阪市内の中心部にある神社をいくつか回りました(→こちら)が、それ以外にも大阪府内にはたくさんの神社があります。
昨年秋以降、神社を訪れるのがマイブームになっており、大阪府内のいくつかの神社を訪れていますので、そのうち6つの神社について、覚書や写真などを残しておこうと思います。
少し長めの記事になりますが、ご興味のある方はお読みください。

日本の神社の歴史は古代に遡ります。
元々山や石などの自然物を崇拝していた場所が、7世紀後半以降の国家統合の時代に神社となり、社や鳥居などが設けられ、統治の象徴的な場所となります。
11世紀には二十二社制度が確立、律令各国に一宮・二宮等が設けられ、朝廷による神社の序列化が進みます。
同時に6世紀以降日本は仏教を受容し、皇族や貴族の中には厚く仏教を信仰する者も現れ、その中で神仏が習合していく、八幡神は八幡大菩薩となり、大国主と大黒天が同一視されるなど、神と仏の境界は曖昧になる。
神社の横にお寺が、お寺の横に神社ができるというケースも多く、藤原氏であれば興福寺と春日大社というように、神社-お寺の関わりも強くなります。
室町時代以降、朝廷が衰えるに従い二十二社制度は廃れ、神社は村の鎮守様のような形で庶民の信仰の場所として存続します。
状況が一変するのが明治時代、厳格な神仏分離により神社とお寺は引き裂かれ、神道は宗教ではないと判断され、神社は再び国家の出先機関となり、国民統合の場所となる、靖国神社に代表されるような戦死した英霊を祀る護国神社が新設されるのもこのころです。
戦後、GHQの神道指令により国家神道は解体、神社は国家の出先機関から一宗教法人になる、言うなれば「神社の民営化」が起こったのが戦後です。
神社は古代より信仰の場所であり統治の場所でもあった。
なので、現在の神社本庁(宗教法人)による政治への働きかけについても、このような流れの中で捉える必要があります。

以上のような歴史を踏まえて(?)、神社を訪れてみても面白いもの。
以下、6つの神社の覚書です。


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1.杭全神社

杭全神社(くまたじんじゃ)は大阪市平野区にある神社。
最寄り駅はJR関西本線の平野駅。
自分が訪問したのは2018年10月14日の日曜日です。

杭全神社はかつて平野郷と呼ばれた中世の門前町の北側にある神社。
平野は堺などと同じく中世の自治都市で、
織豊時代の天下統一まで自治が継続していた場所です。
杭全神社はこのような自治都市の中の信仰の場として存続していたものと思われます。


南側の大鳥居。


 

この日は秋祭りだったのか、敷地内にはたくさんの人がいました。

小型のだんじりもみられます。


拝殿。

この日は拝殿の前では少林寺拳法か何かの演武が行われていました。
かっこいい動きに思わず拍手。


こちらが本殿。


杭全神社の創建は平安時代初期。
坂上田村麻呂の蝦夷平定の功により、その息子坂上広野麿が杭全荘を賜ったころにさかのぼります。
広野麿の「広野」は「平野」の語源とも言われます。
古くは祇園社、熊野権現社などという名前で呼ばれていた神社でしたが、明治期に杭全神社という名称になりました。(このように権力との関係や諸事情により、神社名は意外とコロコロ変わるものです。)
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)など。
かつては牛頭天王も祀られていたとのこと、このような神仏習合の何でもありな感じも日本の神社の特徴です。


敷地内には日露戦争の記念碑があったりも。



こちらは筆塚。

筆をお祀りするというアニミズムっぽい感性も日本の神社仏閣の特徴かもしれません。


神社の南側には昔の案内表示が残っていました。

「当社 熊野権現 祇園宮」とあります。
やはり近世以前は違う名称であったようです。


総じて杭全神社は町の中の庶民的な信仰の場という感じがします。
平野区はこの他にも面白い場所がたくさんありますので、また別の機会に取り上げたいと思います。


神社の南側には、巨大なゴリラ2体が生息していました。




2.大鳥神社

大鳥神社は堺市西区にある神社。
最寄り駅はJR阪和線の鳳駅。
訪問日は2019年1月19日の土曜日です。
大鳥神社はかつての律令時代の和泉国一宮であり、杭全神社などと比べるとずっとランクが高かった神社、ということになります。


鳳駅を降りて西側に少し歩くと、鳥居が見えてきます。


 

こちらが拝殿。

パッと見、杭全神社に比べると、どことなく厳かな感じがします。

大鳥神社の祭神は大鳥連(おおとりのむらじ)祖神とのことですが、1957年に日本武尊(やまとたけるのみこと)が増祀されたとのこと。
日本武尊が東征からの帰国の際に伊勢で亡くなり、白鳥になって飛び立ったあと、最後にこの地に降り立ったと言われています、ほんまかいな。
創建年代は不詳ですが、古代の豪族中臣氏の一族である大鳥連が祖神を祀ったことに始まると言われていますので、およそ6世紀ごろから信仰の場であった場所なのではないかと思います。
明治期には日本画家の富岡鉄斎が宮司をしていた神社なのだとか。
最後の文人画家と言われる富岡鉄斎が宮司だったというのも何やら面白いです。


こちらが現在の祭神、日本武尊。


 

そしてこちらが富岡鉄斎の顕彰碑。

調べてみると富岡鉄斎は奈良石上神宮の宮司もしており、明治期の神道体制に尽力した人だったようです。
幕末には勤皇思想に傾倒していたらしく、このこととも関わりがあるようです。
日本の近代化・天皇制・神社と文化との関わりは、歴史を考える上でやはり重要。


こちらは平清盛との関わりのある歌碑。

1159年に平清盛・重盛父子が熊野詣の途中で大鳥神社を訪れ、歌を詠んだとの伝説があります。
堺は熊野街道のある場所でもあります。


与謝野晶子の歌碑もありました。

与謝野晶子は堺市出身の歌人、旧姓が鳳だったらしく、このあたりも何か関わりがあるのかも。

日本武尊-平清盛-富岡鉄斎-与謝野晶子と、様々な人物と関わりのある
興味深い神社でした。



3.枚岡神社

枚岡神社(ひらおかじんじゃ)は東大阪市の東の端、旧枚岡市域の生駒山付近にある神社です。
最寄り駅は近鉄奈良線枚岡駅。
訪問日は2018年12月31日の月曜日、大晦日にお参りしました。
初詣の前日ですので人は少なかったです。
枚岡神社はかつての河内国一宮であり、社格は大鳥神社などと同じく高かったものと思われます。


駅を降りてすぐ東側が入口です。

翌日の初詣に備え、屋台の準備が進められていました。


生駒山の傾斜にそって、山の上に登っていく形の神社です。

剣の形をした石塔がたくさん。


手洗い水は鹿の口から注がれます。

奈良に近い場所だから鹿なのかなとも思いましたが、関係はあるのかな?


こちらが拝殿。


枚岡神社の創建年代はやはり不詳。
伝説によれば神武天皇東征の際、紀元前3年に国土平定を祈願したことにさかのぼるのだそうです。(ここでいう紀元は西暦ではなく皇紀です。なので2600年以上前が神社の起源になるという設定のようです。)
実際のところは西暦650年に豪族中臣氏一族の平岡連(ひらおかのむらじ)らが神殿を造営したとあるので、現実の起源はこのあたりかと思われます。
中世以降、神官は中臣氏の子孫の水走氏(みずはやし)が勤めていたとのこと。
水走(みずはい)は東大阪市に今でも残る地名です。
枚岡神社は旧一宮であり、明治以降の官幣大社であるため、大鳥神社と同様に厳かな感じがします。


神社の裏側は山にそって公園になっています。

落葉の赤と芝生の緑による素敵なカラーリング。


こちらはハケ・ブラシの顕彰碑。

杭全神社の筆塚などと同様に、物をお祀りする碑です。
東大阪市は中小企業の街であり、ハケやブラシは市域の重要な地場産業です。


ネズミさんとアヒルさんのベンチ。

著作権管理の厳格化が叫ばれる昨今、このおおらかさは素晴らしく、応援したくなります。


明日に備えた屋台にも、著名なネコちゃんのキャラ2体の姿が。

「カステーラ」の表記もよいですね。



4.石切剱箭神社

石切剱箭神社(いしきりのつるぎやじんじゃ)も東大阪市東部にある神社、枚岡神社から北に二駅のところにある神社です。
単に石切神社とも言われ、地元では「いしきりさん」と親しまれている神社です。
最寄り駅は近鉄奈良線石切駅、もしくは近鉄けいはんな線新石切駅。
神社自体は新石切駅からの方が近いですが、この神社の場合、石切駅から降りて参道を歩くことをお薦めしたいです。
訪問日は2018年12月31日の月曜日、自分は枚岡神社を訪れたあと、ついでに石切さんにもお参りしてきました。


ようこそ石切さんへ。

付近は生駒山麓につながる場所。
石切駅から新石切駅にかけては、急激な下り坂になっています。
この下り坂に沿って、商店街やその他様々な面白いものがあります。


大晦日のお昼頃ですが、商店街にはたくさんの人がいました。


 

この参道の商店街の面白いところは、占いの店が異様に多いことです。


とにかく下り坂に沿って多くの占いの店が続く。


本業と占いを兼業していると思われる店も。


漢方薬の店もいくつかあります。


この商店街の印象は庶民的というよりは、もう少し妖しい感じ、どことなくキッチュな雰囲気の魅力があります。
商店街に沿って歩くとこの他にも石切大仏などの特徴的なものも見られますので、石切神社を訪れる方はぜひ商店街をゆっくり歩くことをお薦めしたいです。


さて、こちらが石切神社の入口。

この写真では少し見にくいですが、門の屋根の上には剣と矢の装飾があります。
剱箭(つるぎや)神社の所以です。
やはり翌日に備えて屋台の準備が進められています。


鳥居。

大晦日にも関わらずたくさんの人がいます。
枚岡神社はガラガラでしたが、こちらは多くの人が茅の輪のまわりをぐるぐる回っています。
お百度のような風習なのかな?
参拝されているのは観光客なのか、それとも地元の人たちなのでしょうか。


拝殿。

 

石切剱箭神社もこれまた創建年代は不詳。
古代の豪族物部氏にさかのぼるらしく、神社の名称は石でも切れる剣と矢という意味で、軍事を司る豪族物部氏との関連性が深いようです。
祭神は物部氏の祖神など。
でんぼ(腫物)の神様としても有名なのだとか。


奥にあった庭園の様子。



現在の神社を考える上でひとつ重要な切り口として、神社本庁に所属しているか単立系かという区別があります。
上に挙げた杭全神社・大鳥神社・枚岡神社はいずれも神社本庁管轄の神社ですが、石切神社は単立系です。

大阪府の場合、神社の概要は大阪府神社庁のHPで確認できます。
http://www.jinjacho-osaka.net/osakafunai-no-jinjya/osakajinjyamap.html

現在ほとんどの神社は神社本庁の管轄になるようですが、東大阪市は単立系(神社本庁非加盟)の比率が異常に高い地域でもあります。
東大阪市では神社本庁管轄の神社は4割程度にすぎず、これは全国的にも稀有な地域のようです。
やはり民都大阪、という感じがしますが、これに至った事情はよく分かりません。

旧官幣大社である枚岡神社の厳格な雰囲気に対し、石切神社はその参道のキッチュさも含め、もっとゆるゆるな感じがしますが、このあたりも神社本庁加盟/非加盟の違いに由来するのかもしれません。
大鳥神社も枚岡神社も中臣氏由来で社格は高い、石切神社は物部氏由来で社格は低い、このあたりは6~7世紀の権力闘争(中臣氏は後に藤原氏となり権力の中枢となった)の結果が反映されているのかもしれません。
このあたりの経緯を推測することも含め、石切神社及びその参道はかなり面白く、個人的には今回取り上げた神社の中でもお勧めの(?)神社です。



5.大阪護国神社

大阪護国神社は大阪市の南西の端っこ、大阪市住之江区にある神社です。
最寄り駅は大阪メトロ四つ橋線住之江公園駅。
住之江競艇場から道路を隔てた東側にあり、住之江公園の南西角に位置する神社です。
訪問日は2018年12月22日の土曜日、少し小雨がぱらつく日でした。


入口。

この鳥居は大阪市内の神社の中でも最も大きい鳥居なのだとか。


拝殿。


大阪護国神社の創建は1940年で、非常に新しい神社、国家神道の時代に作られた神社です。
1940年といえば日中戦争は既に開戦しており、太平洋戦争開戦の前年、戦時体制の中でできた護国神社で、お祀りされているのも戦死した英霊ということになります。
近代になって創建された英霊のための神社といえば靖国神社が有名ですが、東京の靖国神社が都市のど真ん中にあり、敷地も非常に広いのに対し、大阪の護国神社はそれとは対照的に、市域の端っこにこじんまりとした感じで存在しています。
都市の中心部にいまさら大きな施設を作ることができず、ここしか場所がなかった、ということなのかもしれません。

戦後の占領下において、大阪護国神社は浪速宮と改称され、祭神は仁徳天皇ということになりましたが、サンフランシスコ講和条約を経て日本が独立して以降、再び大阪護国神社という名称に戻り、現在に至るようです。
このあたり、自由自在に変遷していく神社の感じも興味深いです。

敷地内には英霊のお墓や慰霊碑がたくさんありますが、面白い形のお墓が多いのも大阪護国神社の特徴です。

様々なデザインのお墓、砲弾の形をしたものも。


 

海軍関係者の慰霊碑は、錨のデザイン。


 

航空隊の碑はプロペラがあしらわれています。



手水の作法のイラスト。

70年代風のイラストが可愛らしいです。



6.三光神社

大阪の都心部にぐっと戻って、最後に取り上げるのは大阪市天王寺区にある三光神社です。
最寄り駅は大阪メトロ長堀鶴見緑地線玉造駅。
今までの5つの神社は大都市周辺、郊外や山麓部近辺にある神社でしたが、三光神社は都市のど真ん中にある神社になります。
訪問日は2019年の3月30日、ちょうど桜が咲き始めた時期で、敷地内にも桜が綺麗に咲いていました。

三光神社は上町台地の真田山丘陵と呼ばれる小高い部分にあります。
真田山は江戸時代初期の大坂冬の陣の際に、真田幸村が陣を築いた場所とのことで、それ以降真田山と言われるようですが、三光神社はそれよりはるか昔から存在する神社です。


鳥居。

桜が咲き始めています。


拝殿。

右下に見えるのが真田幸村です。

三光神社はアマテラス・ツクヨミ・スサノオの3神を祀るため三光神社と呼ばれているようですが、3神より真田幸村の方がずっと目立っています。


真田幸村の像。


 

真田幸村と猿飛佐助の顔出しパネル。

世俗感あふれる神社。
こういうのを見ると、あー大阪の中心部やな、という感じがしてきます(笑)。
三光神社も石切神社と同じく単立系で、神社本庁には所属していないようです。

三光神社の創建は反正天皇の時代とされており、これまたいつのことやら分かりませんが、信仰のあった場所としては、一応5世紀くらいまで遡ることができるのではないかと思われるます。
かつて難波京があった場所のすぐ南側に位置する神社ですので、歴史的には古い土地であることは間違いありません。
中風除けのご利益があると言われるのも三光神社の特徴。


寿老人の像。

寿老人は中国宋代の仙人ですので、なぜ神社に像があるのかは不明。
中世に禅宗と共に日本に伝わった仙人様ですので、広い意味での神仏習合の一形態といえるのかも。
真田幸村よりはまだ神社のイメージに近いかな?


付近の神社仏閣には七福神がお祀りされているのだそうな。

イラストが微笑ましいですね。



さて、三光神社とは特段関係はない(たぶん)ですが、三光神社そばの真田山丘陵には、真田山陸軍墓地と呼ばれる旧日本軍に関わる施設がありましたので、取り上げておきます。


丘を登るとこんな感じのお墓が。


真田山陸軍墓地の起こりは1869年とのことですので、明治2年、維新後すぐのことになります。
敷地内を歩いてみると非常に古いお墓がたくさんあります。
西南戦争に始まり、日清・日露、満州事変あたりまで確認できます。
それ以降のお墓はパッと見た感じ見られず、敷地不足のため納骨堂にまとめて納められているということのようです。
この墓地は都市のど真ん中にありますが、空襲を免れたのか、古い時代の形のまま現在まで残されているものもあります。(上の写真の手前側、苔むして欠損しているお墓などがそう。)
先ほどの大阪護国神社のような面白いデザインの碑はあまり見られず、素朴なお墓が並んでいるという感じです。


よく見ると新しいお墓と古いお墓が並んでいることが分かります。

後々建て替えられているものもあるようです。


こちらは明治37~38年とのことですので、日露戦争のお墓。



こちらは満州事変です。



お墓のそばでお花見をする人々。

訪れた時間はちょうどお弁当の時間でした。
お墓と桜とピクニック、いい絵になります。

自分はこの陸軍墓地のことは全く知らず、たまたま訪れたら広い敷地にお墓が現れたので、びっくりしました。
まだまだ大阪の都市部にも知らない場所がたくさんあります。
街をブラブラと歩くといろんな発見があるのが楽しいですね。