大阪市パノラマ地図 1924年(大正13年) | れぽれろのブログ

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1924年(大正13年)の大阪市の鳥瞰図が、パブリックドメインとして公開されています。
https://stroly.com/maps/1970/

「大正12年12月28日印刷」「大正13年1月5日発行」とありますので、およそ1923年の後半時点、今から約95年前の大阪市の様子が確認できるということになります。
この図は拡大して細部を確認することもできます。
図の範囲は現在の大阪市の中心部と西部、現在の区割りで言うと、概ね、北区、中央区、天王寺区、浪速区、西区、福島区、此花区、港区、大正区が含まれています。(当時は区割りは異なります。)
現在の淀川以北、及び、JR環状線より東部と南部は含まれていません。
大阪市は1925年に拡張政策を取り、周辺の町村を合併し、いわゆる「大大阪」となりますので、この地図の範囲はその直前の市域ということになります。

大阪にお住まいの方、大阪の街を歩いたことがある方、大阪に関心のある方は、拡大してこの地図の細部を確認すると、きっと面白いと思います。
今回はこの地図をみながら、現在の大阪の街と比較する等、少しコメントしてみたいと思います。
以下、計19枚の画像を並べます。
また少し長めの記事になりますが、ご興味のある方はお付き合いください。


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まずは全体図です。



大阪市を南西から鳥瞰した図になっています。
図の左上が北、右上が東、右下が南、左下が西。
図の一番左上に少しだけ見えているのが淀川です。
右上のお堀に囲まれている部分が大阪城址。

上部から大きく蛇行して流れる川が大川、中之島を経て安治川と木津川に分かれ、図の下側の大阪湾に流れ込んでいます。

拡大すると「北区」「東区」「南区」「西区」の表記が見えますので、当時の大阪市の区割りはまだこの4区しかなかったものと思われます。
大阪市は1925年に拡張政策を取り一気に13区に増加、その後の人口増加時代を経て最大26区まで分割されました。(現在の大阪市は2区減少して計24区となっています。)



中心部を少し拡大してみます。



大阪市の中心部の道路が、東西南北に整然と区画されていることがお分かりかと思います。この後、空襲により大阪市の中心部も甚大な被害を受けますが、この区画整理の方針は戦後も継続します。
坂道が多く凹凸が激しい東京山の手とは、当時から都市の在り様が全く異なっていたことがお分かりかと思います。

この図の中心部の川に囲まれた大きな四角形の部分が、船場(せんば)です。
北は大川から分離した土佐堀川、東は東横堀川、南は長堀川、西は西横堀川に囲まれ、ひとつの島のようになっていることがお分かりかとお思います。
船場は近世江戸時代からの商業の中心地で、戦前まで大商人が住んでいた場所、お金持ちの「ぼんぼん」や「いとさん」が住んでいた場所でした。
川の外に住んでいるのと内側に住んでいるのとでは、商人としての地位、家柄が全く違ったというのは、山崎豊子さんの小説などからも読み取ることができます。
戦後には南側の長堀川、西側の西横堀川が埋め立てられ、川に囲まれた地域はなくなり、経済の在り様も大きく変わり、船場システムは名実ともに解体します。
現在、長堀川のあった部分は長堀通になり、西横堀川のあった部分には阪神高速1号環状線が通っています。



細部に移ります。
以下17枚の画像はすべて同じ縮尺で表示しています。


・梅田



「大阪梅田停留場」が現在のJR大阪駅、大阪の玄関口です。
中央上側にある「阪急電車」の表示があるところが阪急梅田駅、下側の「阪神前」の部分にあるのが阪神梅田駅です。
道路には路面電車が走っています。(大阪市パノラマ地図を見ると、当時はかなり広域にわたって路面電車が走っていたことが分かります。当時はまだ地下鉄はありませんでした。)
この当時は広大な梅田地下街はまだありません。

阪神梅田駅は(地下化している点を除けば)現在の駅舎とほぼ同じ位置にありますが、阪急梅田駅の駅舎はJR大阪駅の駅舎より南にあったことが分かります。
当時の阪急は大阪駅の南側から出発し、高架で国鉄(現在のJR)の線路の上を通って、北に向かっていました。
私鉄が国鉄の上を高架で通過するのは怪しからん、国鉄は皇族がお召列車で通過する鉄道でもある、阪急梅田駅は移転されるべきである・・・。
阪急と国鉄は長い間この高架を巡って争い続け、ついに私鉄が国鉄に屈服し、阪急梅田駅は北側に移転させられる、このあたりの経緯は原武史さんの「民都大阪 対 帝都東京」に詳しいです。
現在も阪急梅田駅と阪急百貨店がJR大阪駅を挟んで南北に分離されているのはこのためです。この分離区間に「動く歩道」が建設され、阪急梅田の名物になるのは戦後のことです。



・中之島(東側)



淀屋橋付近です。
日銀大阪支店、大阪市庁、中之島図書館、中之島中央公会堂が並んでおり、このあたりは現在と大きく風景は変わっていません。
大阪市庁舎は戦後建て替えられますが、日銀、図書館、公会堂は現在も当時の建物が残っています。
豊国神社は現在は大阪城公園に移転、東側にある大阪ホテルのあった場所は、現在は大阪市立東洋陶磁美術館になっています。



・中之島(西側)



現在の肥後橋・渡辺橋付近から筑前橋のあたりにかけて。
朝日新聞は当時から肥後橋と渡辺橋の間に本社があったことが分かります。
現在フェスティバルホールのある位置は、当時は郵便本局があったようです。
西側の筑前橋付近には医科大学校(現在の大阪大学医学部)と大学病院があります。(現在は移転していますが、大阪大学は元々中之島にありました。)
この医大と病院の位置に、現在は大阪市立科学館と国立国際美術館があります。



・本町



南へ移動、本町付近です。
西本願寺北御堂、東本願寺南御堂が見えます。
南御堂の西側には坐摩神社(いかすりじんじゃ)もあります。
東西に路面電車が走っている部分が現在の本町通、上にも書いたように、この図の下にある西横堀川は現在は埋め立てられなくなっています。
この図から分かることは、御堂筋も中央大通もまだないということ。
御堂筋はこの後の昭和期に着工し1937年に完成、中央大通は1970年にようやく完成しています。
あの広い道が大正期には影も形もないことから、御堂筋や中央大通は船場内の家屋や商家をつぶしてかなり強引に敷設した道路であることが分かります。



・心斎橋~四ツ橋



さらに南へ。
心斎橋から四ツ橋付近です。
心斎橋は長堀川にかかる橋でしたが、戦後に長堀川は埋め立てられ、地名だけが残りました。長堀川は現在は長堀通となり、地下には地下鉄長堀鶴見緑地線が走っています。このため、現在の長堀通には橋がないのに「○○橋」という地名がたくさん残っています。心斎橋もその地名の一つ。
西側の四ツ橋も同じ、長堀川と西横堀川が交差する部分に4つの橋が架かっているので四ツ橋なのですが、どちらの川も埋め立てられましたので、現在は4つどころか橋は1つもありません。
この図を見ると、大正当時は橋は5つあったことが分かります。
心斎橋の南側には小さく十合(そごう)が、この図では途切れていますが、南には大丸が見えます。



・難波



南海難波駅とその北側です。
南側(右下)に見えるのが南海難波駅、この当時高島屋はまだなかったようです。
難波駅から戎橋筋に沿って北にある橋(図の左上、道頓堀川にかかる)が戎橋、現在グリコの看板などがあるところです。
中央を東西に走るのが千日前通で、現在地下鉄千日前線が走っている部分。
中央にあるドーム状の建物が「楽天地」と呼ばれる当時の一大レジャー施設で、演劇や映画の上映などが催されていました。この場所は歌舞伎座やデパートなどの紆余曲折を経て、現在はビックカメラとなっています。
上にも書いたように御堂筋はまだありません。
難波駅の下に見える川も現在はなくなっています。
この図では途切れていますが、難波駅の南側、現在のなんばパークス(旧大阪球場跡)には煙草専売局の巨大なタバコ工場があったことが分かります。



・湊町



南海難波駅のすぐ西側、国鉄湊町駅付近です。
この図は上の難波周辺と同じ縮尺で表示しています。なので、大正当時は南海難波駅より国鉄湊町駅の方がずっと規模が大きかったことが分かります。
私鉄王国と呼ばれる大阪では、同じ場所にあっても私鉄は国鉄とは違う駅名を付けるケースが多いです。(大阪→梅田、天王寺→阿部野橋、湊町→難波)
上に梅田界隈(キタ)では私鉄が国鉄に「屈服」した例を書きましたが、難波界隈(ミナミ)では、この後も南海難波駅が中心であり続け、湊町駅より南海難波駅の方が規模は大きくなり、90年代についに湊町駅はJR難波駅に改称、ミナミでは私鉄が国鉄に勝利した、といえるのかもしれません。(一定以下の年代の人は「湊町」と言ってもピンと来ないのではないかと思います。)
この湊町駅の上部は現在はOCATとなっています。(余談ですが、南海難波周辺に比べてOCAT付近は人が少ないので、自分はOCATでよく食事をしています。)



・新世界~天王寺公園



1903年の内国勧業博覧会跡地にできたのが新世界と天王寺公園。
新世界はその道路の区画も含めて、現在とほとんど同じ形をしていることが分かります。
デザインは変わりましたが、通天閣も現在と同じ位置にあり、東側には動物園が、上町台地を上がったところには、現在と同じく一心寺、茶臼山、大阪市立美術館があります。
国技館や市民博物館など、現在はなくなっている建物もありますが、この界隈はおおむね当時の雰囲気を現在に残しているということが言えそうです。



・四天王寺



ここまではキタからミナミまでざっと南下してきました。
ここからは上町台地の上側を、北へ向かってみようと思います。
新世界から上町台地を上がったところにあるのが四天王寺、この図でも五重塔が大きく描かれています。
図の左下に見えるの細い道が現在の松屋町筋、図の左上から右下にかけて中央を走るのが現在の谷町筋、どちらも当時は細い道で、路面電車は現在の四天王寺夕陽丘付近で右折し、上町筋の方に向かっていることが分かります。(現在の地下鉄谷町線とはルートが違う。)
松屋町筋と谷町筋の間にあるのが、少し前の記事で取り上げた天王寺七坂で、この図でも「くちなわ坂」(口縄坂)の表記が左側に小さく見え、愛染坂、清水坂、天神坂も図に描かれています。
大江神社の表示はありますが、愛染堂(勝鬘院)は表示なし、当時は大江神社の方が重視されていたのでしょうか。



・上六



その北側。
千日前通と上町筋が交差する部分が上六(上本町六丁目)で、現在の近鉄上本町駅や上本町ハイハイタウンがあるところです。この図でも大軌(大阪電気軌道、現在の近鉄)の駅舎が見えますが、現在のターミナルよりは小さめのようです。
「谷町九」の表示がある部分を南北に走るのが現在の谷町筋ですが、やはり細い道。当時の谷町筋はこの北側の六丁目から道幅が広くなるようです。
西側(左下)には生国魂神社が見えます。表記は「生魂神社」となっています。



・馬場町



大阪城の南西部、この図の中心が現在の馬場町の交差点です。
馬場町はその名の通り、大阪城の馬場があった部分であることが分かります。
図の左下が谷町四丁目、北側の「憲兵隊」の表記のある所は、現在は大阪府警になっています。
大阪城の周辺は軍隊の施設が多く、この界隈もほとんど軍関係の建物になっていることが分かります。
輜重兵第四大隊のところは現在はNHK大阪と大阪歴史博物館に、第三十七連隊のところは現在は大阪医療センターになっています。
その東側の歩兵第八連隊のところは難波宮跡ですが、当時は公園はなく軍の施設があったようです。



・大阪城



現在は大阪城公園になっていますが、当時はほとんど軍の施設で埋め尽くされていることが分かります。お城に軍関係の施設ができる、この傾向は自分が過去訪れた中では、金沢城や広島城や姫路城も同じでした。
この当時は大阪城の天守閣がなかったことが分かります。(天守閣の再建はこの後の1931年のことです。)



・扇町



現在のJR天満駅、地下鉄堺筋線扇町駅付近です。
この付近はぽっかりと何もなく、空き地になっています。

この空き地の部分は元々は大阪監獄、つまり刑務所があった場所でした。
監獄が扇町公園になったのが1923年とのことですので、ちょうどこの地図が出版された前年。空地の中央に緑の部分が見えますがこれが公園なのかな。1924年当時は公園は小さく、その後大きく整備されたということなのかもしれません。
図の中央の大きな道路が天神橋筋で、その東側に現在と同じく天神橋筋商店街が南北に走っているように見えます。
川のある部分がちょうど現在の阪神高速12号森口線に当たる部分(この川も今はありません)、上に書いた西横堀川の例と言い、川を埋めてその部分に高速道路を敷設するという傾向があったようです。



・西長堀



ここからは大阪市の西側(海側)の細部に移ります。
この図は現在の西長堀界隈、大きく流れるのが長堀川で、上にも書いた通り現在は埋め立てられて長堀通になっています。
左側に土佐稲荷神社があり、ここが三菱財閥発祥の地、その東側の鰹座橋付近が現在の地下鉄西長堀駅がある部分で、その南側が現在の大阪市立中央図書館がある部分、この南北のラインが現在の新なにわ筋です。
そしてその東側の白髪橋のラインが現在のあみだ池筋。
この当時は新なにわ筋よりあみだ池筋の方が広く、あみだ池筋が西側のメインストリートだったようです。
路面電車もあみだ池筋を走っており、かなり現在と景観が異なります。



・九条



この地図を見ていて、当時と今の位置関係の違いが最も分かりにくいのが、現在の西区の西部から港区にかけての部分です。このあたりは空襲が最もひどかった部分(とくに港区は人口減少率96%と言われています)なので、全く景観が変わってしまっているのかもしれません。
この図の左側にみえる大きな道が現在のみなと通、この図の下側に九条の停留所がありますが、右側の千代崎橋と左側の茨住吉神社の位置関係からすると、九条停留所は現在の九条駅の部分にあったのではなく、みなと通にあったことが分かります。(この当時、現在の中央大通はまだありませんでした。)

路面電車があちこちに走っており、九条界隈は当時かなり栄えていたことが分かります。
右上の松島町の表示のある左側の桜並木の部分が、おそらく移転前の松島遊郭ではないかと思います。松島遊郭はこの後移転され、その移転を巡っての疑獄事件が第一次若槻内閣倒閣の遠因となったのも有名な話です。
この図で花園橋と書かれている部分の川も、現在はなくなっています。
なお、この九条停留所から南西へ進むとちゃんと朝潮橋に辿り着きますので、みなと通と現在の中央大通との位置関係に一瞬迷います。
ちなみにこの当時の地図では、弁天町という地名は見当たりません。弁天町は中央大通の完成と環状線の開通に伴って表に出るようになった場所なのかもしれません。



・大正橋



その南側、大正橋とその近辺です。
右側にみえるのが大正橋で、現在の浪速区と大正区をつなぐ橋。
尻無川を隔てたこの図の西側が現在の西区、「瓦斯会社」と書かれている大きなガスの設備がある部分が、現在は大阪ドームになっている場所です。
このあたりの橋の位置関係は現在と大きく変わっていません。



・千島



ラストです。
現在の大正区の千島付近、「千島町」の表示が見えます。
付近は建物が少なく、当時の大正区はかなりのどかな場所だったようです。
(下の方に屏風絵風の雲があるのが面白いです 笑。)
現在、大正区は区の北側の大正駅を除き、鉄道が全く走っていない、孤島のような区になっていますが、当時はちゃんと路面電車が走っていたことが分かります。
現在この図の中心付近には昭和山という人工の山がありますが、昭和期に作られた山ですので、当然当時はまだありません。(大正橋、大正区、昭和山など、この付近は元号由来の地名が多いです。)
右上に「難波島渡し」の表示が見えます。これがおそらく木津川の渡し船で、この無料で乗れる船の機能は95年を経た現在も現役で活躍しています。



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以上、大正時代の大阪市パノラマ地図を少し読み解いてみました。

大阪在住者としては、とにかくこの図を見ていると面白いので、細部を見ながらあれこれと考えていると、どんどん時間が経っていきます(笑)。
上にリンクを張ったStroly-βのページには、大阪以外の地域の古地図などもパブリックドメインで公開されていますので、ご興味のある方は色々と調べてみても面白いかもしれません。