映画 三度目の殺人 | れぽれろのブログ

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映画監督の是枝裕和さんの新作「万引き家族」が、カンヌ映画祭のパルムドールを受賞しました。
自分は是枝監督の作品が好きで、過去に「ワンダフルライフ」「誰も知らない」「歩いても歩いても」「空気人形」「そして父になる」を鑑賞しています。
フォローしている監督が映画賞を受賞すると、何やら嬉しいもの。
ということで、まだ見ていなかった是枝監督の現時点での最新作「三度目の殺人」をこの流れで鑑賞しましたので、感想などをまとめておきたいと思います。

自分が感じる是枝作品の特徴。
是枝作品は常に社会問題、とくに家族の問題をテーマに映画を制作しています。
多くの作品において、社会問題に起因する不幸を描きつつ、しかし単なる悲劇では収まらない、この世界を肯定する感触・手触りがあるところが、是枝作品の面白いところだと思います。
親に見捨てられた子供たちの苦しみ、心を持ってしまった人形の苦しみ、産院での赤ん坊の取り違えに起因する親の苦しみ、しかしその苦しみの中で、束の間の救済や、世界への肯定的な気付きが描かれる。
社会は苦しみに溢れる、禍福は糾える縄の如し、幸福は不幸の始まりであり、しかし不幸は次の幸福のきっかけでもある。
そんな感触・手触りを与えてくれるのが是枝作品です。


「三度目の殺人」もまた非常に興味深く面白い作品でした。

福山雅治演じる主人公の弁護士は、実務的・効率的に犯人を弁護し、無罪や減刑を勝ち取ってきた有能な男。
彼は真実には関心はなく、如何にうまく容疑者を弁護し得たかにしか関心のないタイプの人間です。
今回彼が弁護を担当することになったのが、食品工場の社長の殺害容疑で起訴されている役所広司演じる容疑者です。
容疑者はコロコロと証言を変え、どこに本心があるかが分からない男、非常に弁護しにくく、厄介な存在として描かれます。(この役所広司の演技が凄まじく、本作の重要な見どころの一つです。)
真実には関心を持たない主人公の弁護士ですが、容疑者と面会を重ね、容疑者の境遇を知るにつれ、少しずつ事件の真実に対し関心を持つようになっていきます。
やがて弁護士は、広瀬すず演じる被害者の娘と容疑者との関係に気付き、限りなく真実に近づきますが・・・。

果たして法廷で真実は明らかになるのか?、容疑者の運命は?、弁護士は如何なる決断をするのか?、というのが簡単なお話の流れです。

刑事司法をテーマにした法廷サスペンスの体で物語は進んでいきますが、是枝作品ですので、当然の如く(?)、真犯人が明らかになってバンザイ、という類の映画ではありません。
一般的なサスペンス映画や2時間ドラマのようなカタルシスをこの映画に期待すると、裏切られます。
最後まで真実は法廷で明らかになりませんし、犯人も犯行目的も示唆されるだけで明確にはならず、これでいいのかというモヤモヤを鑑賞者に与え続けることになります。
しかし、本作は単なるミステリを大きく超える魅力的な映画になっているように思います。



本作の面白いところ。

まず、日本の刑事司法の問題が、かなりリアルに描かれていると思われるところが興味深いと思います。
自白偏重主義(容疑者が取り調べで一度自白してしまうと、裁判でそれを覆すのは非常に難しい)、調書絶対主義(検察が作成した調書をベースに裁判が進行し、調書を否定する場合弁護側に立証責任が生じる)、公判前整理手続き(検察と弁護側は裁判の前に論点についてあらかじめ打ち合わせし、裁判はその結果発表のセレモニーになりがち)、裁判員裁判(事実の論理的整合性より裁判員への心象が重要になる)、傍聴券取得のための行列(傍聴席には限りがあるので、新聞社やテレビ局はバイトを雇って整理券取得の行列に並ばせる)、等々。
このような司法のリアリティの片鱗が、物語や映像のあちこちで描かれているのが面白いです。

全体として、何よりも手続の迅速性が重視されるという司法の実態、裁判が真実を究明する場ではなく(注1)、妥当な落としどころに迅速に落とすための手続きであることがよく分かります。
我々は裁判で真実が明らかになっていると思いがちですが、限られた時間と証拠で真実を明らかにすることは非常に困難、本作はこのような司法の実態を、鑑賞者に感覚的に伝えるころに一つの力点が置かれているようにも思います。
世界は2時間サスペンスドラマのようにはできておらず、もっと困難で解決しがたく複雑であるのが、現実の世界の在り様なのです。


さらに本作の面白い点。
法廷で事実関係が明らかになることの良し/悪しにまで踏み込んでいる点が非常に面白いです。
ポイントを列挙すると、
①法廷で真実は明らかにならない。
②しかし、調査を深めることにより、何が真実かはおぼろげながら浮かび上がるものである。
③しかし、真実を浮かび上がらせることが、当事者にとって必ずしも幸福であるとは限らない。

以前に森達也監督の「FAKE」についての記事(こちら)にも書きましたが、神の目から見た「真実」は、絶対に分からない。
よって刑事事件の犯人を躊躇することなく悪と名指しするのはナンセンスです。
しかし、映画「FAKE」における盗作と難聴の事実関係がそうであったように、何が真実かは、深く調査をすることによりおぼろげながら浮かび上がってくるものです。
真実は分からない、規定できないが、真実性を追求することはある程度は可能。
とくにポスト・トゥルースなどと言われるでっち上げが横行する現在、真実性を追求することは非常に重要です。

本作「三度目の殺人」はその上を行きます。
福山雅治演じる弁護士は、役所広司演じる容疑者に感情移入し、調査を深めることにより限りなく真実に近づきます。
真実に近づいた福山雅治は煩悶します。
果たして真実を明らかにすることが良いことなのか。
この真実を明確にしたところで、一体誰が幸福になるのか(注2)
本作は刑事司法を舞台にした悲劇ですが、他の是枝作品と同様、苦しみの中での微かな救済が描かれる作品、そして社会的正義を越えた赦しが描かれるという感触をも得る作品です。
強いて宗教に例えるなら、ユダヤ・キリスト教的な神の目から見たジャッジメントではなく、仏教的な「悲」を推奨しているようにも感じます。
人を救うのは正義の貫徹ではなく、他者共感による真実を越えた赦しなのではないか・・・。


ということで、是枝作品は面白い。
カンヌを受賞した次作を鑑賞するのも楽しみです。
「三度目の殺人」は、是枝作品の重要な要素である「映像から感覚的に感じられる世界の手触り」とでも言うような、独特の映像表現がやや薄いようにも思いましたので、次作はこちらの復活にも期待したいです。



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<補足>


(注1)
一応補足しておくと、そもそも近代司法の目的は、事件の真実を明らかにすることではありません。
検察は事実関係に基づき、必要に応じた法的手続きを取ることが職務です。
そして弁護側は、検察の法的手続きに問題がないかをチェックし、その問題点を指摘することが職務です。
要約すると、近代司法は検察の妥当性を追求する場です。
検察の法的手続き(due process of law)が正しいかを裁くのが、近代裁判のあるべき姿。
「疑わしきは被告人の利益に」、「百人の罪びとを放免すれども一人の罪なき人を罰することなかれ」、ということが近代司法の原則。
放っておくと国家権力は暴走するので、まずそれを抑止するところに近代司法の一番重要なポイントがあります。
しかし、現代日本の刑事司法が全くこのように運用されていないことは、本作の表現からもよく分かります。




(注2)
以下、ネタバレに触れます。
未鑑賞の方が読んでもこの映画の鑑賞の楽しみに影響を与えることはないように書きますが、一応結末に触れますのでご注意ください。

繰り返しになりますが、本作では真実は明確には明らかにはなりません。
本作で描かれる殺人が、役所広司の単独犯行か、役所広司と広瀬すずの共謀によるものか、役所広司が広瀬すずの犯行の身代わりになったのかは、明確には描かれません。
しかし、殺された被害者が道義的に問題の多い人物であり、役所広司と広瀬すずが共犯関係にあるらしいことは、おぼろげな真実として浮かび上がってきます。
この演出の目的は、まさに裁判の実態、ひいてはこの世界の実態(真実は絶対に分からないが、考察を深めると真実らしさは浮かび上がるものである)を表現するところにあるのだと思います。

福山雅治が真実に近づいたことを察知した役所広司は、広瀬すずを擁護するためにわざと否認に転じ、公判前整理手続きを台無しにし、裁判員の心象を悪化させ、その結果として罪が重くなります。(役所広司は前科の経験から、こうすれば重罪になることを熟知している。)
これにより広瀬すずは免責され、被害者との関わりの中での不都合な真実も世間に公表されずに済みます。
そして、真実に近いづいた福山雅治は、真実を明らかにすることも、役所広司を法的に擁護すること(弁護士としての職務)も放棄し、役所広司の「演技」に加担します。
描かれるのは、法を越えた自己犠牲による他者救済の肯定です。
近代司法による救済には限界がある、しかし近代司法の不完全さ故に人が救済される場合もある。(言い換えれば、社会による個人の救済には限界がある、しかし社会の不完全さ故に個人が救済される場合もある。禍福は糾える縄の如し。)
このあたりのことを、是枝監督の表現から感じ取ることができるように思います。