映画 FAKE | れぽれろのブログ

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また映画の感想。
森達也監督の映画「FAKE」のDVDを鑑賞し、これがまた面白かったので、感想などを記事化しておきます。


「FAKE」は今から3年前にゴーストライター問題&詐病問題で世間を騒がせた佐村河内守氏に迫るドキュメンタリー映画です。
マスコミ及び世間から大バッシングを受けた佐村河内氏ですが、彼がどこまで作曲に関与していたのか、彼がどの程度の聴力を有していたのかは、必ずしも明らかになっていません。
この映画はこれらの事実に迫り、一定の事実関係を浮かび上がらせる同時に、「真実」なるものを確認することの困難性をも描いた、興味深いドキュメンタリー映画になっていました。


以前の記事にも書きましたが、自分は佐村河内守作曲であるとされていた「交響曲1番 HIROSHIMA」の全曲版の初演を2010年8月に京都コンサートホールで鑑賞しています。(→[佐村河内守騒動] ゴーストライター&詐病問題が報道された直後の記事です。)
この記事の最後に「誰かこの騒動を検証するドキュメンタリーを作ってくれ」と書きました。
同時に自分は森達也さんの作品が好きで、過去の映像作品のうち「A」「職業欄はエスパー」「よだかの星」「放送禁止歌」「A2」「ドキュメンタリーは嘘をつく」を鑑賞、著作(ノンフィクション作品)のうち「A(書籍版)」「職業欄はエスパー(書籍版)」「A3」「死刑」を読んでいます。
なので、監督森達也、出演佐村河内守という形で実現したこのドキュメンタリー作品は、半年ほど前の映画公開時からそのうちぜひ見ようと思っていた作品なのです。


本作は佐村河内守氏の自宅にカメラを持ち込み、森監督が佐村河内氏の生活を追いつつインタビューを行い、その様子を撮影するという形で製作されています。
過去作品でもそうですが、森監督は彼の性格もあってかすぐに被写体と仲良くなります。
被写体から距離を置いて撮影するのではなく、被写体の側に入り込むような形で撮影するスタンスであるため、打ち解けた被写体はかなりリラックスした形で思いを伝え、その姿をカメラに収めることに成功しています。

 


映画「FAKE」から浮かび上がってくる事実関係は、およそ以下のような感じです。


まず作曲に関して。
佐村河内氏は、過去作品は新垣隆氏との共作であると訴えていますが、彼は譜面が書けず、いわゆる一般的な意味でのクラシック音楽の作曲能力は、佐村河内氏にはありません。
クラシック音楽は子供のころから好きなようですが、作曲を勉強した形跡はありません。
佐村河内氏は新垣氏に対し、独特の指示書、及びメロディなどを録音したテープを渡し、それを元に新垣氏が譜面に起こしたと証言しています。
しかし、指示書は残っていますが、テープは残っておらず、メロディ・リズム・ハーモニー等の音楽要素に佐村河内氏が関与していたのかどうかは、かなり疑わしい。
作中に外国人記者が佐村河内氏に鋭く突っ込む場面が登場しますが、この場面の佐村河内氏の受け答えから推測すると、彼の作曲への関与の比率はかなり低いのではないかと推測されます。
しかし、佐村河内氏の指示書がなければ作品が生まれなかったであろうことも、一つの事実ではあるようです。


耳について。
この作品を見る限り、佐村河内氏が難聴であることはほぼ疑いないと考えて良いと思います。
生まれつき耳が悪いのではなく、成人後徐々に悪化したようで、奥さんとも手話と読唇で会話しています。
おそらく全聾ではなく、大きな音にはある程度反応できるようですが、どの文字を発話したのかどうかまでは理解できない様子。
調子が良いときと悪いときで、聴こえ方に差もあるようです。
広島県出身の被爆2世であることは事実で、彼の両親は被爆手帳を持ってます。
(このことと難聴との関係性はよく分かりません。)
光に反応して耳鳴りが誘発されるらしく、そのため部屋は暗く、外出時はサングラスをかけています。
佐村河内氏自身は難聴であることから、何らかの施設を通じて障害を持つ方々との交流もあるらしく、作中では佐村河内氏と親しい全盲の女の子が登場します。
彼女が点字による手紙を朗読し、佐村河内氏の人柄と彼への思いを伝えるシーンは、本作で最も感動的な部分です。
なお、聴覚に障害のある人が全く音楽に反応できないかというとそうではなく、骨を通してある程度刺激が伝達されるのか、作中で登場する全聾の方も、携帯端末で音楽を聴いています。
佐村河内氏も、スピーカーに体を近づけその音圧(?)から音の在り様を確認したり、頬を叩いてモーツァルトを演奏する(骨からの伝達により音程が把握できる?)場面が映されています。


本作を見る限り、佐村河内氏は戦略的な人間ではありません。
世間を欺いた詐欺師であるという印象からはほど遠く、どちらかと言えば状況に流されやすい、どこにでもいそうな弱い人間です。
事態が発覚して以降、メディアを利用して弁明するような戦略性もなく、作中では折角のフジテレビからのオファーも利用しようとはせず、断ってしまっています。
状況に流されるままにメディアや周囲に翻弄されているだけの人間、状況に太刀打ちせず、内面に新垣氏やマスコミに対する怒りを秘めているだけの人間のように見えます。
このような性格ゆえに、作品の人気が出て以降、周囲に流されるままに作曲家を演じ続け、メディアに露出し、言われるままに反核団体や障害者支援団体のシンボルに祭り上げられていったのではないかと推測します。
もちろん彼に、反核や障害者支援の意志があったであろうことは確かなことだと思います。
このあたりは、自分が2010年8月に京都で見た佐村河内氏の姿、反核団体や障害者支援団体に囲まれながら、楽曲に対するコメントは一切なく、反核のメッセージのみを主張する彼の姿に対する印象と符合します。

 


森達也監督作品の特徴と「FAKE」について。


自分は森作品から以下の4点の主張を感じます。
①視点を変えれば見方が変わる
②真の悪者(大ボス)はいない
③あなた(視聴者)も無関係ではない
④「真実」は分からない


順に過去作品の例と合わせてまとめてみます。

 


①視点を変えれば見方が変わる


過去作品「A」は、地下鉄サリン事件以降のオウム真理教側から見た世間・マスコミ・警察の様子を捉えた作品です。
視点をオウム真理教側にずらすと、世の中の見方が変わる。
「A」で描かれるのは、世間・マスコミ・警察の異常さです。
とくに警察の不当逮捕の場面(警察官がオウム信者に暴力を振るい気絶させ、気を失った状態のまま無理やり公務執行妨害で連行する)の異常性は衝撃的です。
「FAKE」も同じ、視点を佐村河内氏の側にずらすことにより、彼をバッシングする世間の浅ましさ、マスコミ報道の酷さ、神山典士氏(佐村河内事件を報道したライター)や新垣隆氏の非誠実さが浮き彫りになります。
視聴者はオウム信者や佐村河内氏の視点で世界を見ることになり、視点が変われば見方が変わる、世界の多様性を感じることができるようになります。

 


②真の悪者(大ボス)はいない


何か事件があったとき、我々は「諸悪の根源はこいつだ!」と名指ししがちです。
しかし事実はそう単純ではありません。
分かりやすいのが過去作品「放送禁止歌」です。
この作品は、テレビでは放送できないと言われている、高田渡、岡林信康、なぎら健壱、山平和彦らの一部の楽曲(いわゆる要注意歌謡曲)が紹介され、なぜ放送できないのか、誰が規制してるのかを追いかけるドキュメンタリーです。
取材を続けるにつれ、テレビ局や民放連や部落解放同盟が規制しているわけではなく、規制している主体はどこにもいない(大ボスはいない)ことが明らかになっていきます。
「FAKE」も同じです。
本作では、マスコミが悪い、神山典士が悪い、新垣隆が悪い、という形では描かれていません。
そう描くと分かりやすいですが、森監督はそうならないように慎重に映像を選択しています。
森監督が神山典士氏へ表彰状を渡すシーンや、新垣隆氏にサインをもらい彼の朴訥そうな表情を撮影するシーンを挿入している意図は、彼らが必ずしも悪者ではないのだという印象を与えるところにあります。

 


③あなた(視聴者)も無関係ではない


森監督の作品は、視聴者に問題を突き付ける作品です。
これも分かりやすいのは「放送禁止歌」です。
要注意歌謡曲が放送されない真の理由は、「こんなもの放送していいのか?」という言葉をつい発してしまいがちな、我々の構えにあるのだということを、視聴者に突き付けてきます。
「A」においても、我々が考えるオウム信者へのイメージと、現実の信者の姿とのギャップが我々に突き付けられ、「よだかの星」においても、動物実験なくしては現代の医療は成り立たず、動物愛護と医療のバランスの問題が、視聴者自身に突き付けられます。
「FAKE」も同じ、我々が佐村河内事件を如何に一方的な視点で観察していたかが視聴者に突きつけられ、聴覚障害の複雑さへの我々の無知が問題の一端であることが視聴者に突き付けられます。
「こいつが悪い!」と名指しする作品の方が分かりやすいしカタルシスがありますが、森作品は「お前も悪い」と視聴者に問題を突き付けます。
森作品が一部で徹底的に不人気な理由は、おそらくこのあたりにあります。

 


④「真実」は分からない


これは森作品の最も重要なテーマです。
分かりやすいのが過去作品「職業欄はエスパー」です。
この作品はいわゆる超能力者を名乗る人たち(清田益章氏、秋山眞人氏、堤裕司氏)を捉えたドキュメンタリー。
例によって森監督は彼らと親しくなり、打ち解けた彼らがカメラの前で超能力を披露します。
スプーンが曲がる、複数枚の重ねた1円玉が額に貼り付く、丸めたティッシュがどのコップに入っているかを高確率で当てる。
多くの視聴者はびっくりすることだと思いますが、森監督は最後まで「超能力など信じない」というスタンスを貫きます。
「体験」の存在は必ずしも「現象」の存在を意味しません。
人間にできることは「体験」を共有し法則化ところまでであり、「現象」の存在は証明できません。
拡張して考えると、我々は世界を体験していますが、本当にこの世界が存在しているのかを確認することは絶対にできない。
同様に我々は我々の体験から、「真実」を巡ってある程度の推測は可能ですが、本当の意味での「真実」には絶対に到達できない。
「FAKE」でもこのスタンスは貫かれています。
佐村河内氏がどこまで作曲していたのか、どの程度まで耳が聞こえないのかは、映像から確からしさを推測することはできますが、本当のところは分からない。
全て佐村河内氏の演技かもしれませんし、すべて森監督の嘘かもしれません。
この作品自体が嘘(fake)かもしれない、真実は分からない。
真実が分からないのに絶対的な悪を名指しするなどナンセンスである、と視聴者に突きつけるのが森作品です。
映画の最後、森監督は佐村河内氏にある質問をしますが、このシーンの意図はこのあたりにあるのではないかと感じます。

 


我々にとって重要なことは、誰かを悪者と名指しし、叩いて終わるのではなく、その背後にある構造に目を向け、適切な処置を取ることです。
「真実」に到達することは困難ですが、視点をずらして観察し多面的に物事を捉えると、この映画のように、事実関係はおおよそこうであろうというということは、ある程度見えてきます。
佐村河内守騒動以降にバッシングされた人物(小保方晴子、佐野研二郎、舛添要一、ベッキー、等々)についても、彼らの視点で物事を見ようとすると、おそらく違った構造が見えてくるのだと思います。
昨今のバッシングのターゲットは籠池泰典氏でしょうか。
自分は彼の教育方針には断固反対したいですが、それでも彼が自民・公明・維新の議員から徹底的に糾弾される様子は、異様だと感じます。
かといって、安倍昭恵が、迫田英典が、松井一郎が悪い、彼らを叩いて引きずりおろせばそれで済むという問題ではない。
適切な人物が適切なレベルで責任を取る形に持っていけるよう、できる限り多面的に物事を捉え、落としどころを模索する。
それが本来の政治の役割であり、メディアの役割なのだと思います。

政治やメディアは我々を映す鏡、我々が悪者叩きを要求する限り、政治やメディアの体質も変わりません。

問題はやはり我々に突き付けられています。

 


ということで、「FAKE」は興味深い映画でした。
聴覚障害や音楽に関心のある方はもちろん、そうでない方にとってもお勧めしたい作品、森監督の過去作品と合わせて、ぜひ多くの方に鑑賞して頂きたい作品です。