フィオナ・タン まなざしの詩学 | れぽれろのブログ

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17日の土曜日「フィオナ・タン まなざしの詩学」と題された展覧会を鑑賞しに
大阪は中之島の国立国際美術館に行ってきました。

フィオナ・タンはインドネシア出身でオランダ在住の女性現代美術作家。
ビデオアートの作家さんですが、中には写真や映像と音声を組み合わせた
インスタレーションのような作品も製作されています。
自分は実は2年前に金沢の21世紀美術館に行ったとき、
フィオナ・タンの特集展示を少し鑑賞しています。
このときはメインの特集展示(内臓感覚-遠クテ近イ生ノ声)の鑑賞に
時間を割いたこと、
21世紀美術館の常設展示品を鑑賞したり
写真を撮ったりに時間を割いたこと、
美術館の隣にある兼六園にも
行きたかったことなどが重なり、
フィオナ・タンの特殊展示をしっかりと
鑑賞している時間がありませんでした。
今回改めて大阪で特集されるとのことで、しかも金沢のときより
大規模な展示となっていました。

今回は合計14点の作品が展示されていました。
約1時間のドキュメンタリー作品2本(これで鑑賞時間2時間)、そして
その他の映像作品・インスタレーションがそれぞれ数分~数十分となっており、
網羅的に鑑賞するなら合計4時間はかかる展示となっていますので、
鑑賞される方は時間に余裕をもって出かけることをお勧めしたいです。

ということで、この展示の覚え書きをまとめておきますので、
ご興味のある方はお読みください。


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2本のドキュメンタリー作品がとくに面白かったので
まずはこちらの内容から。


・興味深い時代を生きますように(1997年)

約60分のドキュメンタリー作品です。
フィオナ・タンはインドネシア生まれ、オーストラリア育ちで、
現在はアムステルダム在住。
父親は中国からの移民(華僑)の中国系インドネシア人で、
母親はアングロサクソン系オーストラリア人、白人と黄色人のハーフで、
名字の「タン」は中華系の姓のようです。
複雑な国籍を持ち、特定の民族に帰属しない
中間的なアイデンティティを持つ作家さん。
そんな彼女の出自を巡るドキュメンタリー作品です。

まず冒頭で複数の人物の姿が順番に映し出されます。
これらの人たちは、後々フィオナ・タンの親戚であることが分かってきます。
この作品は彼女が世界の至る所に住む親戚を訪ねて回り、各親戚に
インタビューし、自らのルーツと親戚一同の民族的アイデンティティを
探るという試みです。
そしてこれらの親戚は、60年代にインドネシアで起こった反共運動から
華僑に対する排斥運動や一定量の虐殺が発生し、結果インドネシアを
追われることになった親戚たちであるということも、作品を通して徐々に
分かってきます。
フィオナ・タン自身もオーストラリアで育ったのは、
この排斥運動によりインドネシアを追われたからのようです。

様々な考え方の親戚がおり、自らを中華系だと思う人もいれば、
インドネシア人であるという人もいる。
とくに民族的基盤を意識せず「世界市民だ」という人もいます。
混血の人は、「何人かわからない自らのミステリアスさが気に入っている」
という人も。
華僑排斥運動の過去から、インドネシアを快く思わない人もいます。
中には中国に戻った人もいますが、今度は60年代後半からの文化大革命により
純粋な中華系でないことから危険な目に逢いかけた人もいます。
そして作品の最後、フィオナ・タンは中国本土のタン姓が集住する地域、
自らのルーツと思われる村落に行き着きますが、
訪れた彼女の結論は「ここが故郷であるとは感じない」。

感じたこと。
一般に中国社会は血縁社会であると言われます。
作品内でも「中国人は情に厚いので親族のつながりを非常に大事にする」の
ような発言をしている人も登場します。
華僑は血縁ネットワークを非常に大切にする集団です。
このドキュメンタリーは、フィオナ・タン自身が中華系であることによる
血縁ネットワークの存在があるからあるからこそ製作できた作品であるような
気がします。
日本は地縁社会(遠くの親戚より近くの他人)です。
例えば自分などは日本の戦後郊外第2世代、父は7人兄弟の5番目、
母は3人兄弟の3番目、父母が田舎から離れて都市近郊の郊外に定住した
世代であり、
母を除き父と両親それぞれの祖父母も全員亡くなっておりこともあり、
親しい親戚が数えるほどしかおらず、1世代前の親戚も誰がどこにいるのかも
わからない人がほとんどです。
血縁リソースがないので、自分にはこのようなドキュメンタリーを
作ろうと思っても作れません。
自らのアイデンティティを探るという試みが、実は自らの民族的ルーツを
リソースとして成り立っているというところが、
何だか逆説的で
この作品の面白いところであるような気がします。

この作品は1997年の作品ですが、現在はこの作品から18年が経過しており、
グローバル化・国家間格差の縮小・国内格差の増大は世界的に
ますます進行しています。
グローバル化の進展により世界がフラット化し、
民族的アイデンティティはより希薄になっていくのか。
それとも国家の集権的再配分が困難になった結果、人々は国家より血縁的
ネットワークに依存するようになり、民族的アイデンティティはより強固に
なっていくのか、どちらなのか・・・。
そんなことを考えながらこの作品を鑑賞しました。


・影の王国(2000年)

続いても約50分のドキュメンタリー。
今度は写真作品とは、映像作品とは何かについて考えるドキュメンタリーです。
これが今回の展示の中で最も面白い作品でした。

全編は写真を蒐集するコレクターや写真芸術家へのインタビューが
中心となっています。
そのインタビューの間に、自らの最も大切な写真を手にした
たくさんの人々の姿が映し出される映像が挟まれます。
この作品のタイトルは、世界で初めて映画を観た人間の感想
「これは影の王国のようだ」から来ているとのこと。

まずは写真蒐集者の写真に対する思いが述べられます。
写真は絵画や彫刻と比較して、偶然の要素が強いので面白い。
アマチュア写真家の作品の方が、職業写真家の作品より偶然の要素が強く、
より面白い写真が撮れる。
ときにケルテスやカルティエ=ブレッソンのような優れた作品が、
アマチュア写真の中から一定の割合で必ず見つかるという言説が印象的です。
プロの写真家を前にした人物の表情よりも、
親しいもの同士で撮影した表情の方が面白い。
そして、膨大な量の写真の中からいくつかを取り出して並べてみたとき、
それぞれの偶然の組み合わせから意味的な関連性が浮かび上がって
くることが非常に面白い。

そして、写真の記録としての側面を強調する言説も紹介されます。
アウシュヴィッツの事実やルワンダ虐殺の事実を写真は伝えます。
写真には必ずしも真実が現れるものではなく、
写真に写っているものをそのまま真実だと判断するのは危険なことですが、
写真の前後を想像したり写真を分析したりして確からしさを
確認することはできます。
そして、その写真を撮影した人物が、その現場に必ず存在したという事実が
重要であるとされます。

その他、ドキュメンタリーの途中で、鏡を持って街を歩く人を接写で捉えた映像や、
鏡に水滴が飛散する映像、手で動物などの影絵を造る映像、
そしてこの後の展示で紹介されるフィオナ・タンの映像作品
「ダウンサイド・アップ」の映像などが部分的に挟まれます。
この部分は視覚的に面白い表現となっています。

感じたこと。
とくに写真蒐集者の感想が面白いです。
上記に挙げた写真に対する感想は、現代美術の面白さそのものに
繋がるものだと思います。
アマチュア的な情報が繋がり合って、全体として何かしらの意味らしきものや、
世界の面白さがたち現れてくるというのは、現代美術の楽しみ方そのものです。
そして、膨大な情報の中から何をどうチョイスするかというのが、現代美術作家の
役割なのではないか、世界の断片を優れた編集能力を以て編集することが
できる人が、優れた現代美術作家と言えるのではないか、
そんなことを感じます。

冒頭に彫刻家の映像が現れ、エンドロールにも彫刻の音が聞こえてきます。
古くからの彫刻は、世界のある断面の固有的な描写や、
表現者自身の内面の表出が目的です。
このような彫刻作品と、現代的な写真作品・映像作品の差が
対比されているように見えます。
このあたり、彫刻にはアウラがあるとされ、写真や映像のような複製芸術になると
アウラが消失するという、ベンヤミンの複製芸術論を思い出します。
ベンヤミンはこのような芸術の変化を肯定的に捉えてい(るように見え)ますが、
この作品いおいても、写真や映像が肯定的に捉えられているのではないかと
感じます。


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フィオナ・タンは非常に幅広い多様な作品を制作される方だと思いますが、
上記のドキュメンタリー2作品の考え方が、以降の展示の計12作品にも
色濃く表れているように思います。
いくつかの作品について纏めておきます。


「興味深い時代を生きますように」の主題である
民族的問題やアイデンティティの問題に照準したのが
「ディスオリエント」(2009年)や「取り替え子」(2006年)です。

「ディスオリエント」はマルコ・ポーロの東方見聞録の朗読に合わせ、
朗読に登場するそれぞれの地域の現在の映像や文物の映像が映し出されます。
アルメニア、インド、チベット、インドネシア、マダガスカル、日本も少し登場します。
とくに現在の各地域の映像と朗読内容との比較が楽しいです。
自分は「東方見聞録」であるという解説を読まずに鑑賞したので
いつの時代の分析かわからない朗読は面白かったです。
この映像に登場する日本人の多くの人はマスクを付けていましたが、
これは2009年の豚インフルエンザ騒動の時期の映像なのかもしれません。

「取り替え子」は無数の女子小学生(インドネシア系?)の肖像が次から次へと
映し出される中、女性のアイデンティティに纏わる独白が音声として
流れるという作品。
独白の内容の方が本作品のテーマだと思いますが、次々と映し出される
卒業アルバム的な(?)写真の連続、
類型的で同じような服装と髪型と眼鏡の
女の子たちですが、
よく見ると(当たり前ですが)ひとりひとりの顔が違うところが
シンプルに面白かったりします。


一方で、映像を見ることの面白さを楽しむことができる、「プロヴナンス」(2008年)、
「ライズ・アンド・フォール」(2009年)、
「イヴェントリー」(2012年)などの作品は、
「影の王国」的な路線であると思います。
「プロヴナンス」はオランダの人物の映像を複数の画面に並列して並べた作品。
「ライズ・アンド・フォール」は、若い女性と年老いた女性を左右2面の
ディスプレイに映し出し、滝を中心とした水のイメージと混ぜ合わせて映し出す
映像作品。
「ライズ・アンド・フォール」は2年前の金沢でも展示されていました。)
「イヴェントリー」はたくさんの蒐集されたアンティークが並べられる家を
6面の映像で延々映し出す作品。
いずれの作品も映像がすごく綺麗で、意味合いを考えず単に映像を
見ているだけでも心地よい作品たちです。
とくに「プロヴナンス」が素敵な作品だと思いますが、細かいことですが
ディスプレイの中に一部視野角特性の悪いディスプレイがあり、
綺麗に表示できていなかった作品があったことが残念です。


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さて、この日は常設のコレクション展も合わせて鑑賞したのですが、
その中で、米田知子さんの1995年の神戸を撮影した一連の写真作品が
非常に印象に残りましたので、覚書を残しておきます。

今回展示されていた米田知子さんの写真作品は、阪神淡路大震災のあとの
被災地の風景やそこに散らばる細かい事物の断片を、
正方形のモノクロームの写真として捉えられた作品です。
傾いたビル、捧げられた花、道端にある錠剤、散らばった商店街の花飾り、
古びたムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」のレコード、
誰かの思い出であるはずの一枚の写真・・・。

この作品を鑑賞した日は奇しくも1月17日、
ちょうどあの日からまる20年が経過した日です。
当時自分は高校生、大阪南部でも大揺れし、本棚は倒壊しましたが
その程度で他は大した被害はありませんでした。
しかし隣の県で甚大な被害が出たことは自分にとって相当な衝撃で、
生命の儚さ、文明の脆さ、日本列島に住む限り避けることのできない運命を
強く感じたものでした。

この米田知子さんの作品は、ちょうどフィオナ・タンの「影の王国」の
記録的な写真という言説とも呼応します。
過去の記憶と、ついさっき鑑賞したドキュメンタリーの記憶と、
目の前の写真から漂う作品の力が溶け合って、得も言われぬ感慨を抱きます。
やはり写真は面白い・・・。


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ということで、特別展・常設展とも非常に興味深い展示で、
楽しく鑑賞することができました。
フィオナ・タンの特集展示は3月22日まで。
貴重な機会だと思いますので、現代美術好きの方はぜひ鑑賞して頂きたい
特集であると思います。