【内観(2)】から続く〉

 

 私がオウム信仰から脱却するにあたって、自己反省法「内観」が決定的な役割を果たしてくれたことは前記の通りですが、この内観に巡り会うまでには、劇的な経緯がありました。
 
 2009年に内観を実践する前に、私は2007年に上祐代表らと共に「ひかりの輪」を発足させ、翌2008年にはオウム真理教に対する反省・総括作業を推進したのですが、この流れの中で、貴重な人々との出会いと導きによって、内観を知ることができたのでした。

 なお、私が、昭和天皇が崩御した1989年1月7日にオウム真理教に入信し、2007年にその後継団体アレフを脱会して、同年(2007年)に「ひかりの輪」を発足させるまでの約18年間のいきさつについては、こちらのページに詳しく書いてありますので、ご関心のある方は事前にお読みくだされば幸いです。

 では、以下に、ひかりの輪が発足した2007年から、内観を実践した2009年までの経緯を記し、その後、私の内観体験を具体的に書いていきたいと思います。


●オウム総括作業に着手(2008年~)

 2007年3月にオウム真理教の後継団体・アレフを脱会した私たちは、準備期間を経て、同年5月に「ひかりの輪」を設立しました。上祐は代表役員に就任し、私は3人いる副代表役員のうちの一人に就任しました。私は副代表などという器ではないと思い再三断りましたが、前記のように2004年の私の行動が引き金になってアレフ内で上祐派が作られていき、「ひかりの輪」につながったという経緯からして、推されて就任するに至りました。

 「ひかりの輪」の設立に先立ち、私は上祐代表から、「オウム時代の過ちについて、俺と一緒に責任をとってくれ」と言われました。先に記したとおり、私はオウム時代に、オウムや麻原を絶賛する教団出版物を書いて大勢の人を誤導してしまいましたが、その作業は上祐代表とも行っていたのです。

 ですから、確かに私は上祐代表と一緒に、その責任をとらねばならないと思いました。間違った内容の文章をたくさん書いたわけですから、少なくとも、それと同じか、それ以上の分量の過ちを正す文章を書かなければ、私の責任をとったことには到底なりません。

 小学校時代に大変お世話になった恩師の「責任を果たせ」という言葉も、また私の胸に響くように思い出されました。

 そう思った私が中心になって重点的に取り組んでいった作業が、オウム真理教の反省・総括でした。

 まず、その年の8月から、「ひかりの輪」の数十名の専従会員(団体の業務に専従する会員で、主にオウム・アレフに出家していた者)全員を招集しての「総括会合」を毎週繰り返して開催しました。

 これは、オウム・アレフを脱会した私たちが、人生をやり直す第一歩を踏み出す際に、最初にやらなければならないことであるとともに、団体として、オウムの過ちを総括し、その再発を防止する道を模索するために必要不可欠な会合でした。

 一つの目標として、オウム時代の総括文書を作成することに決め、松本智津夫の本名を持つ麻原が「麻原彰晃」と名乗り始めた1983年から、時系列的に、オウム・アレフ時代を振り返っていく作業を皆で行いました。

 年ごとに、麻原の言動、教団の行動、そこでの参加者各人の行動を思い起こし、自分たちのどこが誤っていたのかを徹底的に認識し、議論し、総括していったのです。

 私は毎回、この総括会合を主催しました。当時の出来事が詳細にわかる参考資料を毎回作成して配付し、皆の意見を取りまとめ、「ひかりの輪」団体名義の総括文を私が少しずつ書いていきました。

 また、並行して、専従会員の各人が、自分のオウム人生を振り返って、各人名義の総括文も作っていきました。

●森永乳業の反省を見習う

 しかし、やはり自分の過去の過ちを直視して反省していく作業というのは、心理的には相当な負担であり、各人各様に苦しんでいることがよくわかりました。

 そこで私は、できるだけ皆が総括に取り組めるよう、様々な手段を使って皆を励ましました。

 たとえば、2008年2月に東京で行われた総括会合の際には、「森永ヒ素ミルク中毒事件」の際の森永乳業の対応について報じたテレビ番組を録画したビデオを皆に見せました。

 この事件は、1955年に、森永乳業製の粉ミルクの中に、製造過程で毒物のヒ素が誤って混入してしまったことから発生しました。それを飲んだ乳幼児の130人が死亡し、1万2000人以上が被害を受け、さらに1969年には、脳障害等の後遺症に苦しむ子供の親たちが、森永に対して、責任を認め賠償するよう要求しました。

 しかし、森永は、後遺症とヒ素との因果関係を否定し、責任を認めようとしなかったのです。

 森永の内部では、社の対応に納得がいかず、「責任を認めよう」と訴える社員もいました。ですが、彼らに対しては、社内から「不忠者!」「森永も被害者なんだ!」という批判が浴びせられました。被害者が1万2000人以上もいるのに賠償金を支払ったら、会社は倒産し、社員と家族が路頭に迷ってしまうから、責任を認めるわけにはいかないというのが、社内の主流的な考えだったのです。

 社内の意見は割れ、収拾がつかないうちに、森永製品の不買運動が発生し、森永に対しては「人殺し!」「謝れ!」などの非難の声が殺到しました。

 やがて森永を訴える民事訴訟が提起されると、責任を認めようと主張する社員らは、幹部らに対して、「ごめんなさいと言って何が悪いのです?」「責任を認めゼロからやり直しましょう」と強く訴えました。

 結局、社長は「自分が一生背負い続けなければならない十字架だ」と述べ、責任を全面的に認め謝罪する決断を下しました。森永は「被害者が一人でも生ある限り救済する」という「恒久救済」――つまり、最後の一人まで賠償金を払い続けるという選択をしたのです。謝罪・賠償を主導した社員は、「忘れてはならない事件、そのためにも恒久救済は会社にとって"財産"だ」とまで言いきります。

 事件発生から半世紀以上経った今でも、毎年、森永・被害者・国の三者の話し合いが続いています。森永は、今でも事件と向き合っています。被害者への救済(賠償金支払い)事業は、三者で作った財団法人「ひかり協会」が運営し、これまで総計約400億円を支払ってきました。もちろん今でも毎年支払っています。

 森永では、二度と同じ過ちを犯さないように、社長自身が全国の工場に足を運んで点検に回っています。社長いわく「品質を守る習慣を築き上げて、その習慣が5年10年経って企業の文化となるのが大切だ」とのことです。

 さらには、事件を風化させないために、新入社員研修の際には、必ず事件の教訓について語り、再発防止に努めています。「人間の尊厳を大事にする会社というゴールを設けると、それに伴う責任や具体策が後から追っかけてくる」――そう、責任者は語っていました。

 ――だいたい以上のような内容のビデオなのですが、私はこのビデオをある会員から提供されて一人で見てみたところ、非常に感銘を受けました。

 ヒ素ミルク事件の責任をとろうと主張する社員に対して社内から浴びせられる「不忠者」との非難は、オウム事件の責任を取ろうと主張した私たちに浴びせられた「グル(麻原)に対する裏切り者」という非難と、そのまま重なって見えました。外部社会から浴びせられた「人殺し」という非難も、全く同じです。そして、責任をとって地道な賠償事業を続ける財団法人「ひかり協会」の名は、偶然にも、そのまま私たち「ひかりの輪」の団体名にも重なって見え、何だか不思議な勇気をもらった気がしたのです。

 社会の一般の企業が、きちんとこのように事件と向き合い、総括し、賠償責任を半世紀以上にもわたって取り続けている。ならば、仮にも一度は「衆生救済」の情熱を胸に秘めて、全てを捨てて出家した者たちが、なぜ同じことができないなどということがあるだろうか?

 食品製造会社が、自社製の食品の中に二度と毒物が混入しないよう総括し、教訓を残し、再発防止に努め、企業文化にまで高めている。これこそ見習うべき食品製造会社の責任の取り方だ。ならば宗教・思想の道を歩んだ者が、自分の宗教教義・思想の中に、二度とサリンのような毒物をまき散らす誤った思想を混入させないよう、しっかり総括して教訓を残し、再発防止に尽くし、より高い精神文化をつくるお手伝いをしていくことが、宗教者・思想家にふさわしい責任の取り方ではないだろうか?

 ――その時の私はこのように感じ、そして皆に訴えかけました。これには、多くの専従会員が感じ入ってくれたようで、さらに総括作業は進んでいきました。

                                         (【内観(4)】に続く)