上祐史浩

オフィシャルブログ ―― 21世紀の思想の創造


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 来週5月2日から、ひかりの輪の東京教室を中心に、恒例のGWセミナーを開催します。

 

 このセミナーでは、仏教思想・瞑想法・心理学の講義、ヨガ気功の行法や歩行瞑想、更には各種のヒーリング・個人相談などを行います。

 

 今回は特に、ストレス解消・能力向上・健康に良いと今注目の仏教由来の「マインドフルネス瞑想」から、更にその先の段階にあって、心の深い解放・悟りに近づく仏教の瞑想まで、各種の瞑想の解説・実習を行う予定です(例えば、呼吸法型・歩行瞑想型・思索型・象徴への集中型など)。

 

 ご機会、ご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。よろしくお願いします。以下団体からのお知らせです。

 

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 5月2~7日に,,恒例のGWセミナーを開催します。プログラムは、上祐代表らの仏教・瞑想法・心理学の講義(毎日行います)。内容は、瞑想法・ヨガ・気功の実習、各種ヒーリング、個人相談など。

 一般の方の参加を歓迎しています。1日だけの参加や、一回の講話だけの参加も可能です(講話は初回参加料2000円で教本付です)。ご希望の方には個人面談もあります(無料)。詳細・連絡先はこちら http://www.joyu.jp/hikarinowa/news/05/1217.html

 

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 さて、マインドフルネスは、前に説明したように、仏教の念(パーリ語でサティsati)の英訳ともされていますが、厳密に言えば、今流行りのマインドフルネスは、仏教の念=本来のマインドフルネスから見れば、その一部に過ぎません。

 本来の念(サティ)とは、「(常に)心にとどめておくこと」、「いつも心に思うこと」といった意味があります(岩波仏教辞典)。これは、第一回の記事で紹介した、今流行りのマインドフルネス瞑想の定義とは、だいぶ異なっていますね。なぜなら、それが本来のマインドフルネスの一部であって、全体ではないからなのです。

 そもそも、仏教の念とは、釈迦の初めての説法(初転法輪)で説かれた八正道の中の正念に遡ります。正念とは、絶えず教えを思念するという意味であり、特に重要な瞑想法とされる四念処を絶えず修することと解釈される場合が多いです。

 では、初期仏教、大乗仏教、密教全体を見渡して、本来のマインドフルネス=念とは、どういった種類・段階のものがあるのでしょうか。

 このブログの記事の中で、これを十分に解説することは難しいと感じます。今後のひかりの輪のGWセミナーの講話などで、十分に解説する機会を設けたいと思います(講話の一部はネットで無料公開生中継し)、録画をひかりの輪のHPの動画コーナーに掲示する予定です。

 

 しかし、私の仏教思想の研究や瞑想体験に基づいて、とりあえず大雑把に大雑把に表現すると以下の通りになります。

 
(1)第1マインドフルネス:是非の判断をしないマインドフルネス
  =是非の判断をせず注意を向ける(今流行りのマインドフルネス)
 
 これは、大別すると以下の二種類があると思います。1より2の方が難しい。

1.呼吸・身体・動作などの外的・物理的な対象へのマインドフルネス
 
2.思考・感情など内的・精神的な対象へのマインドフルネス


(2)第2マインドフルネス:適切な是非の判断をするマインドフルネス
  =間違った物の見方による負の感情を修正する

 第1で、自分の思考や感情に対して客観的な意識を培い、この第2の段階で、苦しみをもたらす間違った思考に気づいて修正します。是非の判断をしない第1段階は、適切に是非の判断をする第2段階の準備段階となっています。

 

 そして、かなり荒っぽい分類ですが、この段階も、以下の2つに分けられると思います。

1.社会生活に有害な考え方を修正するマインドフルネス。

  例えば、心理療法でマインドフルネス認知療法と呼ばれるもの。
   
2.苦しみ全般の原因である煩悩・無智を弱めるマインドフルネス

  例えば、自我執着を否定し、利他心を肯定する瞑想。具体的に四念処(四法印)や四無量心など。
  座る時だけでなく、日常全体で行う。念の本来の意味は、常に心の留めおくと言う意味。


3)第3マインドフルネス:肯定型のマインドフルネス
  =良い心の状態をもたらす対象を修習する

  これにも、以下の2つの種類があると考えることができます。

1.一点集中型の肯定のマインドフルネス:象徴物・シンボルの瞑想

  象徴物・シンボルとは、自分の心を静めて安定させる効果を持つ対象。
  宗教では、それを崇拝対象とする場合が多いが、そうしなくても良い。
  この段階の念の一種が「念仏」であり、仏を念じるという意味。

2.一切を肯定するマインドフルネス
  
  例えば、万物を仏の現れと見るマインドフルネス。大乗仏教の究極の悟りに関連。
  宇宙万物を仏の表れと見る曼荼羅観想法なども。

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 普通、我々は、自分の思考と感情を自分自身だと思っています。

 

 しかし、対象に対する是非の判断をせずに注意を向けていると、自分の思考や感情に距離を置いて、それを冷静に観察する「もう一人の自分」、いわば「超自分」を培うことに繋がります。これは、心理学では、「メタ認知」などと言うことがあります。

 これができてくると、鬱症状が解消するという研究結果があるそうです。それはなぜでしょうか。

 

 これにもいろいろな説明・解釈が可能だと思いますが、いくつかの分かりやすい説明をするならば、以下のようになります。

 まず、自分の思考や感情が否定的であっても、それと距離を置くことができれば、その影響をやわらげることができます。多少誇張した喩えを使って表現すれば、自分自身が苦しんでいるのではなく、自分の近い友人(=自分の思考と感情)が苦しんでいる状態になると言えばよいでしょうか。

 次に、自分の思考や感情に没入していると、その奴隷になって、その思考の間違い・不合理に気づけません。逆に、自分の思考や感情を冷静に客観的に見ることができれば、それに気づくことができ、修正しやすくなります。

 

 再びたとえを使えば、間違った思い込みを持っているために、自分にも迷惑をかける身近な友達に対して、その間違いを気づかせ、苦しむ必要がないことを諭し、共に幸福になることができると表現できるでしょうか。

 こうして、是非の判断をしないことによって、1.自分に存在している可能性がある条件反射的な不合理な見方を棚上げし、さらに、2.自分の思考・感情に距離を置いて客観的に見る状態を作り出す

ことになります。その結果として、物事を以前よりも適切に見ることができるようになります。


 ここで、自分の思考や感情と距離を置くということを言い換えると、思考や感情は、自分の本質ではないという感覚を得るとも表現できるしょう。実際に瞑想をしていると、生じては消えていく様々な思考や感情に対して、一歩は離れた所から、冷静に見ている自分がいる状態になります。

 

 これは、仏教の教えそのものです。釈尊が説いた、「心は無我である」と言う教えです。この「無我」とは、私や私の物ではない、といった意味の言葉です(厳密には、体も心も無我である(五蘊無我)という教えですが)。

 また、思考や感情を客観的に見ている超自分・メタ認知という概念は、ヨーガの思想が説く、「真我」の概念に良く似ています。真我とは、自己の本質・本当の自分といった意味です(なお、これに加えて、真我には、永久不変の存在という意味があります)。

 そして、繰り返しになりますが、仏教こそが、間違った見方(=無智)が、間違った感情を生じさせていると説く思想です。厳密には、無智が、様々な煩悩という有害な感情を生じさせて、それが人の苦しみの原因であると説きます。

 これは、認知行動療法における認知と感情の間の因果関係と基本的に同じ思想です。ただし、仏教の方が、その範囲が圧倒的に広いということです。というのは、仏教は、全ての苦しみが、煩悩によって生じ、その煩悩の根源が、間違った見方(無智)であると説くからです。

 そこで、仏教の思想を認知行動療法の表現で表すならば、

1.精神病の人だけでなく、健常者の場合も、苦しみは、間違った見方によって生じる

  様々な「煩悩」という負の感情が原因であり、

2.その意味で、全ての人は、広い意味で、心の病を抱えた存在で、

  それを解消する仏道修行は、言わば、「スーパー認知行動療法」である

 といったように表現できるかもしれません。

 

 第4回に続く

 

※参考:仏教が説く、煩悩を生じさせる根源となっている間違った見方(無智)とは何か

 

 これには、色々な表現がありますが、そのいくつかを以下に紹介します。

1.悟りの状態(覚醒の状態)を見失っていること、気づいていないこと。

 

  これは、根本無智と表現されることがあります。

2.実際には繋がっている自己と他者(の幸福)を別の物だと区別をしていること、

 

  これは、1の状態(=覚醒状態を失う)と同時に生じるとされています。

3.仏教用語で表現すると、縁起や空の道理を理解していないこと。

  縁起には色々な解釈がありますが、代表的なものは、この世界の万物は、
  相互に依存しあって存在していること(何物も独立しては存在していない)。

 

  空とは、万物が相互依存であるから、他が変化すれば、自己も変化し、
  固定した実体を持たない、という意味です。縁起と空は繋がった概念です。

 こうして、自と他(の幸福)を区別する間違った見方のために、自分だけを過剰に愛する状態=自我執着に陥って、様々なエゴ・煩悩が生じ、そのために苦しむというのが、仏教の見解、仏教の心理学です。

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 次に、二つ目のポイントです。なぜ、マインドフルネスでは、是非の判断をしないのか。普通、人は、何かの対象に意識を向けると、多くの場合、好き嫌いの感情が生じますね。すなわち、是非・良し悪しの判断です。特にストレスになるのは、嫌悪の感情が生じる場合です。

 これに対して、「それは当たり前で、何が悪いのか」と言う方もいるかもしれません。この疑問に関しても、色々な説明(色々な理由)があります。

 例えば、マインドフルネスの由来である禅の思想から説明することもできます。禅仏教は、そもそも仏教の修行として、好き嫌いを越えた、落ちついた平等な心を培うという趣旨があるからです。しかし、そうした宗教的な目的ではなく、日常のストレス・苦しみを解消するという、心理学的な根拠もあるのです。

 それを理解するためには、マインドフルネス瞑想の源に、マインドフルネス認知療法、そして、その元になっている認知行動療法の理論を理解すると、よく分かります。

 この理論では、鬱病などに見られる抑鬱・不安といった負の感情は、必ずしも、その人の置かれた環境や生活条件だけに問題があるのではなく、不合理な物の見方(=認知)に基づいていると考えます。

 具体的には、ある対象に対して、特定の不合理な見方と、それによる特定の負の感情が、習慣となっていて、条件反射のように自動化しているのです。

 

 本来は、その対象に対して、別の合理的な見方があって、その見方をすれば、負の感情は生じないのに、特定の不合理な見方が習慣となっているために、その対象を見ると、常に負の感情が条件反射的に生じるということです。

 よって、認知行動療法の主旨は、この不合理な見方と、それが作り出す条件反射的な負の感情の存在に、本人が気づいて、それを修正することです。

 

 そして、物の見方と感情の間に強い因果関係があることは、認知行動療法の基本ですが、仏教の思想(仏教の心理学)こそが、正にこの視点に基づいています。

 そこで、最初に戻ると、マインドフルネスでは、対象に対する是非の判断をしないのですが、これは、この条件反射的に習慣化・自動化された物の見方と感情の連鎖をいったん棚上げすることに繋がるということが、お分かりいただけると思います。

 さらに、もう一つ重要なことがあります。それは、自分の思考と感情に距離を置くことです。

 

第三回に続く

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 今はやりのマインドフルネス瞑想。宗教的な目的はなく、ストレス解消・能力の向上・心身の健康に役に立つとされています。

 

 マインドフルネスが、仏教の「念」(パーリ語でサティ)の英語訳であり、念の瞑想に由来することは、よく知られています。その創始者である米国の学者が、日本の禅に感銘を受けたのが、そもそもの始まりになっているのです。

 マインドフルネス瞑想は、米国を中心に、体の痛みを和らげるため(マインドフルネスストレス低減法)や、鬱病などに対する心理療法(マインドフルネス認知療法)として開発されました。

 

 その後、病気の人に限らず、一般の人のためのストレス解消・能力向上・健康法に役立つ瞑想法としても広まりました。

 そこで、自分の仏教・ヨーガの瞑想体験から、現在のマインドフルネス瞑想の主張・流れに対して、共感・同意できることや、誤解されやすいと思うこと、そして、その限界・仏教の瞑想との違いを感じることを書きたいと思います。

 まずは、基本的なことから。すなわち、マインドフルネスとは何か。

 日本人には、これが日本語ではないことが、その理解の上で、最初のポイントになると思います。英語圏の人にも、普通の英語の意味でのmindfulnessとは、異なった特別な意味があります。

 それは、

「今この瞬間の(何らかの)現象に対して、その是非・良し悪しを判断せずに、(意図して・意識して)注意を向けること(気づいていること)」

 というものです。これは、マインドフルネスの始祖ともいうべき米国の学者の定義です。

 そして、具体的に、どのようにこのマインドフルネスの瞑想を進めるかは、色々な考え方・やり方があるでしょうが、本文末の参考資料には、その一例があります。

 

 だいたい、呼吸・身体・歩行の動作などに対して、マインドフルネス状態で注意を向けて観察することが多いと思います。仏典でも、そうした対象に念を行うことが説かれています。そして、最終的には、思考や感情といった内的・精神的な要素にも行なっています。

 ではいったいなぜ、①今この瞬間の対象に、②是非・良し悪しの判断せずに、意識を向けるということをするのか。

 これには、色々な説明が可能です。分かりやすい点から説明するならば、例えば、まず、人の意識は、過去や未来に流されて、今この瞬間に向けられることは余り多くないと思います。人によっては、90パーセントは未来や過去に意識を向けていると主張しています。

 誰しも、未来には不安があります。「悪いことが起こるのでは」と思いを抱いています。また、今に不満があって、今より良くなる希望を抱くものですが、だからこそ「そうならないのでは」と思いも生じます。

 

 過去に関しては、後悔や他への怒り・恨みもあります。今現在の自分に不満のある人は、その原因となった過去に思いが及び、「自分は、こうしていれば良かった」とか、他人に関しては「ひどいことをされた」、「こうしてくれなかった」などという思いがあります。

 こう考える、今この瞬間に意識を向ける意味が分かってくるのではないでしょうか。今現在に意識を向けている間は、未来や過去に関する過剰な思考や感情が自ずと抑制されます。それによるエネルギーの消耗を避け、結果として雑念も減ることになるでしょう。

 

 なお、これは禅仏教が説く、「今ここの悟り」と通じるものと考えられます。

 

 第二回に続く

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