生命の科学 VOL42 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


加害者の有志に。。


お願いですから私が娯楽に使用している
プレステ2を壊そうと狙ったり
入れたソフトに傷をつけたりする事は止めてください。


(言っておきますが市販の最新の機器はプレステ3です)


貧乏人の私が数年前にプレステ2の具合が悪くなったときに
義理の弟がプレゼントしてくれたもので


映画を借りてみるにも娯楽のゲームをするにも
妻との運動のDVDを見るにも重宝しているものです。


加害行為を繰り広げてお金も稼いでいる人間達にとっては
壊れたもの家電であれ買い換えればよいと言う意識が
あるかも知れませんが、


仕事も見つからない貧乏人には
そうは行きません。


証拠があるとか無いとか言うのは
既存の法律での物的証拠の話であって


状況証拠であればいくらでもありますし


物品を押収できれば
もしくは技術と設備を整えれば
実演して証拠とすることもできるはずです。


それ以外でも家電をも様々な方法で使用しては
加害行為に使用していること
日本中の人間に知られ渡ると大変だと思いますよ?

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ご協力者の自動車がやってくるたびの
身体への低周波の振動が激しくなっています。


我慢の限界が過ぎたら
協力者達をまとめて紹介することも考えています。


頻繁に身近によってくる人間たちですし
タイミングもとても良いので
加害者の特定はとても容易なのです。


証拠が無いだけの話です。


今は神経もかなりやられていて
その上で思考能力も閃きがまるで無い状態です。


後頭部への照射も続いていますし
左右の脳のバランスの働きがとにかく悪いのです。


その上に脳の苛つきも強いですし
本来記事を書ける状態ではないのですが


この書置きの記事を公開後
別の記事を書き始める予定です。


それと被害が酷くなるようでしたら
別に用意してある特別な記事を公開する事に
なるかもしれません。


直接の工作員はそれを願っているのか
脳への関与も止めません。


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北国育ちの私は年に一度は雪を見たいと願っています。


今年もそれは叶いましたが
正直言えばもっと真っ白な世界に変貌してほしいと
願ってもしまいます。

(溶け出すと汚くなるのだけは困り者ですが)


北国である私の田舎の稚内とはまた別の意味で
本州で見る雪はきれいだと思います。


北海道の私の田舎では背の高い樹木が少ないために
雪が降っても白と緑のコントラストを
感じることは無いからです。


冬場の樹木の緑の葉と赤い身のコントラストが
とても綺麗だと依然触れましたが


そこに真っ白な雪と言うのも
きっと映えるのだと想像していました。


汚いものや人工物を全て見えなくしてくれると言う意味で

雪の時は世界が一変して見える事もあるかと思います。


そして雪が大量に降ると
音もそれに吸収されるので
外もとても静かに感じることが多いです。


そんな時にこそ雪を見ながら
原因と結果でも考える余裕があれば良いのですが
今の私は記事を書いて生きているのがやっとで


逆撫でされる事の多い自分の神経を宥めては
心の暴走を止めるのが精一杯でもあります。


でも皆は特別な機会こそ是非
精神を持って自然を見つめて
そこから何かを学んでほしいと思います。


広報しながらも自らが生命の科学の劣等性として
皆に取り残されないように私も勤めたいと思います。

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【心は現象に頼っている】


ひとたび心が、その生活中に多くの不快事を引き起こした
自らの弱さに気づくならば、


最初は苦痛と感じても
直ちに意識による指導に自分を委ねなければなりません。


その時の障害は次のようにやろうとする場合に起こります。


すなわち、心が例え自分のわがままな行路において
多くの過失や不安に出会ったとしても、


自分がもがもの顔に振舞っていた間に固辞していた自分の正体と
権威とを失ったと言う恐怖の念が起こる場合です。


なぜなら、心は知識をもたないために、


過失を繰り返していた当時の
乏しい知識と同じような知識しか持たない心は
さまざまな結果に(現象に)頼っていたからです。


そして過失を修正すること無しに
自分の地位の改善を望みながら言い訳をするのです。


これは自分の子供は何も悪いことをしては居ないと思いがちで、
子供を矯正しようとしない母親と同じようなものです。


結局子供は母親と共に苦しむことになります。


子供の内部で目立っていた弱点を正すことが
母親に出来なかったからです。


これは子供の弱点を認めるのを恐れた母親の責任です。


そして矯正するどころか弱点に弱点を付け加えます。


ついに母親は真実に直面しなければならない時がきますが
もはやそれを避けることは出来ず、矯正は最初の段階よりも
遥かに困難に成ってきます。


「自分の命が助かりたいと願うものはそれを失うことになる」


のだとイエスは言っているではありませんか。


此れはエゴが自身を意識に譲り渡すことによって起こる恐怖を
意味するのではないでしょうか。


これはまたわれわれが神と呼んでいる創造主を
信じないことでもあります。


イエスは次のようにも言っています。


「自分の生命を捨てる者は永遠の生命を得るだろう」


この意味は、エゴの意志を意識の意志に委ねるものは
永遠の命に預かると言うことです。


意識は永遠であり、万物を支えているからです。


人間が自己の心中にあると感じて捜し求めている幸福は
人間が自己の意思を意識の意志と融合させてこそ見つかるのです。


これは水中で他の水と融合する水滴が
海洋の広さを知りえるのと同様です。


人間がこの事に気がつくならば
初めて自己の真の正体を知ることになります。


そうなればもやは自己の現実の影の中に生きることも
風が吹くたびにそれにゆさぶられることもなくなるでしょう。


そして放蕩息子が家に帰るとき、点には歓喜の声が上がるでしょう。


しかしこれには各人の側に絶大な決意と不動の信念とを
必要とします。


人間は自己の利己的な自尊心を捨て去り
自分に齎す全ての物に直面しなければならないからです。

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久しぶりに、原因と結果の法則の基礎ともいえる
心と精神(意識)の話です。


少し復習をかねて書いて見たいと思います。


ここではアダムスキーは覚醒についても語っていると思います。


私達が一番最初に理解すべきは
神の意識を認識して心に捉われるのではなくて
精神を使用する努力をする事でした。


私達は自分達が心にばかり捉われているがために
その心のエゴとして、目や耳といった感覚器官の作り上げた
価値観に執着していると言うこと。


更にはその感覚器官が捕らえているのは
全てが結果(現象)であると言うことに触れています。


その視線を持って見つめた時に
私達は世の物事の半分も正しくは理解できない事に
気がついていません。


結果としての現象からその原因を導く意識である
”精神”の使用があって始めて私達は多くの
目に見えない真実を知る事になります。


そして意識を持ってこの社会を見つめた時に
私達は地球の実態とその法則に気がつき
そこから覚醒する事になるのだと思います。


心を使用して生きている私達は
自分の事が可愛くて仕方が無い存在であることに
気がついていないのだと思います。


何をするにも、どんな行動を起こすにしても
そこでは無意識に自分の心の快適さを求めているのです。


そのために心が不愉快な思いをする行為を
激しく嫌う傾向もあります。


そして快適さを望む心に従えば
人は楽な道ばかりを進むことにも繋がるのです。


例えば何か上手くいかない事があれば
それを他人の所為にしてまで自らの責任を放棄する事もあります。


その事でプライドも傷つく必要もなくなりますし
心は心地良い状態を保つ事も出来るのです。


心の判断はいつも個人的な価値観が
判断の尺度となっているのです。


そしてその行動や答えは常に正しいわけではありません。


一方、神の予定している行動や意識は
全てが精神に集約されています。


そこから正しい答えを引き出してくる事が出来れば
私達は誤りを無くす事も過ちを正すことも出来るのです。


しかし心のプライドは
それを認めようとはしないのだと思います。


自分こそが尊重されるべきだと自己主張している心は
常に暴れては精神の存在を隠し続けているのです。


私達は出来るだけその心を抑える努力をすることで
精神の存在を意識するようにすれば、


そしてそこに行動の指針を見つけるようになることが出来れば
自らの行動を改善することも
新しい知識を発見することも出来るようになる。


そしてそれを実践していくのが神の法則に従った生き方であり
私達の生まれてきた目的は、
それを通じて精神を進化させ続ける事だと思います。


そして私達が従う事になる神の法こそが
宇宙の法則であるということ。


私達はその生き方を練習するためにも
スペースブラザーズ直伝の生命の科学を学んでいるのです。


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ここでのアダムスキーの話から
私達の心には二通りの良くない作用があるという事が判ります。


一つ目には心が結果ばかりを見つめるために
物事の改善を図る事や、物事の本質を
捉えることが苦手であると言うこと。


もう一つは、心のプライドは自らを主張してばかりで
反省をすると言う意識を持たないと言うことです。


前講で学んだように、私達は誤りを感じたら
それを精神から学び改善しなければなりませんでした。


それを怠ると誤った事を正しいと認識したままの状態は
別の機会に更なる過ちを引き起こすことへと
繋がっていくことになり


更には正しい事との整合性もつかなくなり
混乱をも引き起こすと言うことでした。


私はジグゾーパズルに例えて説明したのですが、


誤ったピースをはめ込んだことで
その周辺には正しいピースをはめ込むことが出来なくなり
結果そこに混乱が生じるのです。


アダムスキーは誤った状態を
電話の回線が途切れた状態に例えていました。


その状態は精神から私達がかけ離れた状態を
例えたものです。


精神を全く感じる事なく暴走している人間であれば
それは通信回線がまるで反応していない状態に
例えることが出来るわけです。


そのとき流れて来ている音声は神の意識であり精神です。


心が暴走している時はその通信が遮断されることになるのです。


暴走を繰り返すことで私達は
誤った価値観をどんどんと膨らますきっかけを
作り上げることにもなります。


メモリの誤っている定規で測った物は
正しい長さを示しません。


誤った価値観で判断した事象は
正しく認識する事は出来ていないはずです。


そこで出来上がった価値観は誤りを多分に含む物となります。


でも私達にしてみれば、
それを正しいと信じ込んでいるのですから


その価値観で判断した事を、
知識として持ってしまうことになります。


そして誤りの心のジャングルは
どんどんと深く広がっていく事に成ると言う事でもありました。


ここではアダムスキーが母親の子供の教育に例えていて
とても判り易いと思います。


心(母親)は自分の価値観(子供)を正しいと信じていて
それを矯正しないで放置しておけば


価値観(子供)はどんどん誤った成長を
続けていくことになります。


ジグゾーパズルの誤った破片を入れたときと同様に
そんな状態を大量に放置しておけば


価値観(子供)は誤りを誤りと認識することなく
その尺度で測った行動で更なる誤りを作り続ける事にもなります。


そうなると訂正は難しい。


私達は何もかもを正当化して生きる事で
自分のプライドを増徴させ心を暴走させることに
成るのだと思います。


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ここでアダムスキーが放蕩息子の話について
触れています。


聖書中の放蕩息子の例えは
以前記事にしてありますので
読んでない方は是非読んで見てください。


ここでは簡単に紹介しますが奥深い話です。

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11092572275.html


要約すると、親の財産を半分受け取って家を出て
放蕩三昧を繰り広げた息子が
食事もままならない状態になった時に


自分の生き方が誤っていた事に気がつき
プライドを捨てて親元で召使としてでも
働かせて貰おうと思い立ち親の元に帰って行ったと言う話です。


その時父親は息子の帰還を祝宴をするほど喜んだと言う事です。


「出て行ってしまった息子が戻ってきた、
死んでいた息子が生き返った。」


父親はそう口にしては喜んだ。


そしてそれは心に捉われ物質社会に捉われて
神の意志から遠ざかっていた人間が


再び精神を意識することで神の元へと戻ってきた事を
神が心から祝福したと言う事の例えでもありました。


心の暴走を止めてプライドを捨てて
そして精神の存在を意識するようになる。


つまり放蕩息子は覚醒したのです。


神は心に捉われていて、
死んでいるも同然だった息子が精神を感じるようになった事で
本当の生を受けたと喜んだ。


私達の覚醒を神は放蕩息子の帰還として
心から祝福してくれるであろう。。


そんな神の意志を例えた聖書のイエスの引用を
是非もう一度かみ締めて読んでみてほしいと思います。


私達覚醒者が捨て去らねばならないものは
少なくありません。


プライドに恐怖心、妬みに敵意に嫌悪感
差別意識にその他諸々の負の感情です。


それを捨てると言うことは
長年培ってきた価値観を捨て去ると言うことですし


それが心の心地よいと感じるものであれば
尚更捨てることは難しいと思います。


でもそれを一朝一夕で実行しろと
言われているわけではありません。


日々自分の心をたしなめる事を繰り返し
そして日々の地道な成長であっても


それを繰り返す中で
私達の心は間違いなく精神へと導かれていくことになる。


そして気がつくと
平和や慈愛、勇気や理解、同情、謙虚と言った
宇宙的意識を纏った自分が出来上がっていくのだと思います。


今の社会環境ではとても難しいことだと思いますが
負の誘惑や心の暴走に負けないで
共に精進していきたいです。

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P.S.


アダムスキーがここでイエスの言葉を取り上げています。


「自分の命が助かりたいと願うものはそれを失うことになる」


「自分の生命を捨てる者は永遠の生命を得るだろう」


と言う内容です。


ここでは心の意識を捨てて
精神の指導に任せるものは永遠の命を持つことになると
解釈していますが


別の著書ではイエスの
「十字架を背負って私について来る物は。。。」


の教えと同様に解釈していました。


私はどちらも正しいしどちらに解釈しても
問題は無いと思います。


自分の命が助かりたいと願う人間は心の価値観に囚われていて
転生の事も自分の生きる目的も理解できていないのですから
永遠の命に進むことはできない。。。


そして精神を感じ生きる目的を理解した人間は
命に拘ることもなく宇宙の法則を理解しているのですから
次の転生では記憶を持った転生が期待できる。


そう解釈すれば良いのだと思います。


こちらは単に「心を捨て去り精神を感じよ」


という意味だけではなくて


「真の生へと進みたければ
決して圧力や迫害に屈することなく私の教えを実践しろ」


と言う強い意識を求めた
イエスの言葉とも解釈できます。


私は精神状態も脳の回転もぼろぼろで
このような記事やコメント書くような状態ではありませんが


そんな時でも辛うじて自分の心を抑える努力をしては
誤った価値観を記事にしないよう勤めてはいます。


そしてそんな状況の中でも
真理のためには絶対に屈しないと言う
強い意志を持ち続けることもできます。


これは私が単に頑固だと言うだけでなくて
私が持っている宇宙の法則への信頼、


アダムスキーとブラザーズが紹介してくれた
生命の科学の内容の正当性への確信が強い事も
無関係ではないと思います。


そして何よりもこんな私の意識を強くしてくれるのは
私達が信頼すべき創造主を
正しく認識しているからだと思います。


正しい神の法則を学ぶ努力をし続けている自分は
神が人間に求めている事を実践しようと努力している


真の神の教えともいえる内容を広報してもいる。


地球上の全員に無視されたとしても
神は絶対に自分の事を見ていてくれるはずだ。。。


そのぐらいの強い思い込みも
自分では持つようにしています。


でもこれは盲信では無いと思います。


そしてアダムスキーも触れていましたよね。


時には過信というぐらいの神への強い信頼が
啓示(宇宙的感覚との一体化)には必要であると。。


何かにめげそうな時や
くじけそうな時ほどこのことを強く意識して
地球の法則には負けないで頑張ってほしいです。

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先日の硬貨のパズル第三問目の答えは
週明けにします。


週末などに時間があれば
頭の体操にでも利用してみてください。


結構な難問だと思います。


私は大学時代に好んで読んでいた本が
「頭の体操」という
多胡さんのパズル集でした。


閃きが足りない方や右脳を鍛えたい方は
あのような本を読んで見るのも
良いかもしれません。


バランスの良い思考能力を持つことを
是非心がけてください。


覚醒者の多くはおそらくは
思考にあたり左右の脳をバランス良く
使用している人間だと思います。


そしてそんな思考をしている人間は
騙されにくいと言う実態もあるのです。。。。


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