加藤周一の「羊の歌」、「続 羊の歌」を読んだ! | とんとん・にっき

加藤周一の「羊の歌」、「続 羊の歌」を読んだ!


そもそも加藤周一とはどんな人なのかでさえ知らなかったので、加藤周一の著作に関してはほとんど持っていませんでした。去年、世田谷文学館で開催された「知の巨匠 加藤周一ウィーク」に参加して、おぼろげながらその生涯と全体像を知ることになったのですが、その時本棚を探してみたら、「日本の内と外」(文藝春秋:1969年)が一冊出てきました。それ以外では、朝日新聞に連載されていた「夕陽妄語」をときどき拾い読みしていたくらいで、加藤のことはほとんど何も知りませんでした。「知の巨匠 加藤周一ウィーク」に参加して、世田谷文学館のロビーで加藤の著作を販売していましたが、その時購入したのが岩波新書版の「羊の歌」と「続羊の歌」でした。講師の方々もこの本を引用していたりしていたこともあってか、まさに飛ぶように売れていました。上に書いた通り、新書でこんなに版を重ねている本って、他にはないでしょう、たぶん。いやはや、驚きました。


「羊の歌」は、1966年10月から翌年3月まで、「続羊の歌」は、67年7月から同年12月まで、「朝日ジャーナル」に連載したものを「新書版」にしたものです。「羊の歌」という題は、加藤が羊の年に生まれたからであり、またおだやかな性質の羊に通うところなくもないと思われたからであると、加藤は述べています。半生を顧みて想い出を綴る気になったのは、私の一身のいくらか現代日本人の平均に近いことに思い至ったことからだという。加藤は自分自身のことを、「あとがき」に次のように書いています。


中肉中背、富まず、貧ならず。言語と知識は、半ば和風に洋風をつき混ぜ、宗教は神仏のいずれも信ぜず、天下の政事については、みずから青雲の志をいだかず、道徳的価値については、相対主義をとる。人種的偏見はほとんどない。芸術は大いにこれをたのしむが、みずから画筆に親しみ、奏楽に興ずるに到らない。――こういう日本人が成りたったのは、どういう条件のもとにおいてだったか。私は例を私自身にとって、そのことを語ろうとした。


「しかし、ここには羊の歳に生まれ、戦争とファシズムの荒れ狂う中で、自立した精神を持ち、時制に埋没することなく生き続けた。決して平均でない力強い一個性の形成を見出すことができる」と、本のカバーに書かれています。


たまたまいま読んでいる、内橋克人編「大震災のなかで 私たちは何をすべきか」(岩波新書:2011年6月21日第1刷発行)のなかに、最初の部分ですが、大江健三郎がル・モンド紙の記者の問いに答えている、以下のような文章が載っていました。この国の現代史を、広島・長崎の原爆で死んだ人たち、ビギニ環礁で被爆した人たち、そして福島第一原発で被害にあった人たちから「私らは犠牲者に見つめられている」として、次のように言います。


ビギニの水爆実験の被爆者大石氏も、私らの同時代の最良の理論家だった加藤周一氏も、原子力発電所の廃止を主張しています。加藤氏は、原爆と、人間が制御できなくなった原子力発電所を同じものとみなします。まだ破局が起こらないうちの両者を、1000年前の古典、清少納言の「枕草子」を引用して、「遠くて近きもの」と呼びました。


いま、「知の巨匠 加藤周一」の大江健三郎の項、「いま『日本文学史序説』を再読する」を開いてみると、以下のようにあります。


「もし清少納言が今日の日本に生きていたら、『遠くて近きもの』としての原子力と原子力発電所を挙げるだろう」と加藤さんはいう。『核戦争のおこる確率は小さいが、おこれば巨大な災害をもたらす。原子力発電所に大きな事故のおこる確率は小さいがゼロではなく、もしおこればその災害の規模は予測し難い。一方で核兵器の体系に反対すれば、多宝で原子力発電政策の見直しを検討するのが当然では亡かろうか。東海村に事故がおこれば、『ヒロシマ』を思い出すのが当然であろう、と私は考える」、というのがその正確無比な結論です。


「羊の歌」の冒頭部分が、サルトルの自伝である「言葉」とよく似ていると指摘するのは、海老坂武です。「言葉」はその2年前の1964年に発表されて、サルトルはこの作品でノーベル賞を受けて、それを断ったというエピソードがあります。加藤は当然、サルトルの「言葉」を読んでいただろうと、海老坂は言います。「言葉」も「羊の歌」も、冒頭からおじいさんの話が出てきて、ジャン=ポール少年も周一少年もなかなか出てきません。「前世紀の末に、佐賀の資産家の一人息子が、明治政府の陸軍の騎兵将校になった」という書き出しから、「言葉」に似ている。「言葉」を日本語に直したら、こういう文体になるだろうと、海老坂は言います。加藤は当時まだ40代半ば過ぎで、自伝を書くにはちょっと早すぎます。


加藤は田舎で暮らしたことがない、という。父親は埼玉県の地主の次男で、第一高等学校から東京帝国大学の医学部に進み、大学病院の内科に勤務。大学の同窓には、山形から出てきて、言葉に訛のある斎藤茂吉がいたという。その後渋谷の金王町の仕事場兼住宅で開業します。父親の患者のなかに、辰野金吾がいて、その息子の辰野隆がいて、辰野家二代にわたっての「かかりつけ」の医者だったこと。辰野隆には、後年、顔を合わせる度に「君のお父さんは名医だ」とべらんめえ調で言われたという。第一高等学校に入って矢内原忠雄の講義を聞いたこと、翻訳を読み漁り、3日に一冊、年に百冊読むことを決心、実行します。また当時「小説の神様」と言われていた横光利一を講演に呼んでとっちめた話も面白い。


吉本隆明は加藤の雑種文化論に対して「さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない」と1958年のエッセイ「三種の詩器」で評したという話は、僕は始めて知りました。ウィキペディアに載っていた話ですが。


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