世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」姜尚中編を聞く! | とんとん・にっき

世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」姜尚中編を聞く!

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世田谷文学館で開催されている「知の巨匠加藤周一ウィーク」、第2回目の今回は姜尚中の「戦争の世紀を超えて―加藤周一が目指したもの」です。


会場の世田谷文学館へは、東急世田谷線で下高井戸まで行って、京王線に乗り換えて芦花公園まで行きます。ひとつ手前の八幡山の駅に着くと、「先ほど**駅で人身事故が発生しましたので、しばらく当駅に停車します」という車内アナウンスがありました。僕は早めに着くようにと余裕を持って出かけたので、安心していました。が、あんまり長いと困るなと思っていると、10分ぐらいで発車したのでことなきを得ました。世田谷文学館へ着いて、会場へ入場すると、係の人から「今、京王線が遅延しているとの情報が入り、講演開始時間を少し遅らせていただきます」と言いました。どの位遅れるのか心配していましたが、やっと15分遅れで、講演が開始されました。


姜尚中とはどんな人か、チラシの裏には、以下のようにあります。

姜尚中。東京大学大学院教授。1950年熊本県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。主な著書に「オリエンタリズムの彼方へ―近代文化批判」、「マックス・ウェーバーと近代」、「悩む力」など。2010年、発の自伝的小説「母―オモニ」を発表。


74年の「民青学連事件」、詩人であった金芝河らが改憲支持の声明を発表、7人が死刑判決を受けます。姜尚中たちは、この判決に抗議して数寄屋橋でハンガーストライキを行います。金石範や李恢成、大江健三郎ら著名人も参加しました。最近読んだ大江健三郎の「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」という本の中で、このハンガーストライキの様子が出てきます。テントのすぐ脇で、通行人に学生ヴォランティアがマイクで語りかけます。「詩人が、ただ詩を書いただけで、死刑やら無期やらと弾圧される!こんな不当な、理不尽なことがありますか!」と。


上の文章は、姜尚中の「在日」を読んだ時に、このブログに書いた文章です。大江健三郎と若き日の姜尚中との出会いの瞬間です。当然ですが、その時は2人は会話を交わしてはいません。一方は大作家、一方はまだ学生でしたから。なんと驚いたことに、姜尚中の「在日」の第6章に「近くて遠く、遠くて近く」があります。この題名は加藤周一が「自選集」で取り上げ、前日大江健三郎がその部分を詳細に解説した「枕草子」の一節です。今回の姜尚中の講演は、ほとんどが加藤周一と丸山真男の思想の「近くて遠く、遠くて近く」でした。それはすなわち姜尚中自身に引き寄せた「知識人論」でした。それは、知識人は常にアマチュアである、ということです。これはエドワード・サイードの「知識人とは何か」の中にあるもので、大江健三郎もこの考えを取り上げています。姜尚中の「在日」の第1章についてこのブログに書いた文章を、以下に載せておきます。


第6章、「近くて遠く、遠くて近く」という節があります。姜尚中は、思考の一斑に大きな影響を与えたエドワード・サイードは、「知識人とは何か」の中で、知識人とはつねにアマチュアであると言い切っている、と述べています。ちょうど僕もこの本を読み終わったばかりで、興味深く思いました。アマチュアは悪く言うと、ただの素人。父や母は子の日本の社会で生きていく上でアマチュアであり、しかし、アマチュアには深い意味がある。アマチュアとしての「在日」とは、多数の日本人、「インサイダー」としての日本人の中にどっぷり浸からず、どこかで「アウトサイダー」的な面を保ち続けていることを意味していると、姜尚中は言います。アマチュアとしての「在日」とは、最も近くにあって遠く、最も遠くにあって近くに生きる存在である、としています。



まず、姜尚中は、1965年に家出して、蘆花公園の近く、烏山の読売新聞で新聞配達をしていたことが語られ、まったく周辺の環境は変わってしまったが、懐かしいと語り始めます。言うまでもなく、世田谷文学館は蘆花公園にあります。姜尚中の専門は政治思想史です。2003年1月に処女作「マックス・ウェーバーと近代」を出したことで、加藤周一と親しく付き合うようになったという。「知識人としての在り方」について、「ある時代を生きて、広く社会を見渡して、問題を考え、未来を考える」と、加藤周一は書いていました。加藤周一は、多面的な人で、ストックがたくさんあり、博覧強記、現代も過去も縦横無尽に行き来できた人だと言います。イラク戦争後、2~3回、対談もしました。六本木の国際文化会館で姜尚中が主宰して、ジャーナリストとの勉強会をやっていた。筑紫哲也も興味をもったらしく、参加していました。そこで加藤周一と筑紫哲也が「自衛権」をめぐって、言い争いになったという。姜は加藤の意見に近かったという。加藤の見識、スパッと判断できるのが素晴らしい、と。学者は「なまもの」を扱っているので、専門性は一切ないので、瞬時に的確に判断できる。


加藤のすごさはありとあらゆることに精通していることの他に、「チューニング」ができていると、姜は言う。「学者=知識人」ではない。加藤はいろんな大学で教えているが、大学という組織の中で一度も大学人ではなかった。丸山の「政治思想史」は素晴らしいが、丸山は大学人であり、大学の「知の官僚性」のなかで、必ずしも知識人とは繋がらない。丸山真男との違いはどこにあるのか。加藤は生涯「知の住人」ではなかった。一介の医学者で、大学の中で「コメンテーター」でした。丸山のタネ本はカール・マンハムです。イデオロギーの時代の「自由に浮遊する知識人」、または漱石の「高等遊民」。「官学アカデミズム」か「在野」か、加藤周一はそのどちらでもなかった。マックス・ウェーバーは典型的なアカデミシャン、そういう人と加藤は対極にあります。加藤の方法としてよく出てくるのがフランスのポール・ヴァレリーです。加藤はフランス、丸山はドイツです。


加藤を理解する大きな鍵は以下の3つの世界です。一つは「羊の歌」の文学的世界、もう一つは「日本とはなにか」、そして三つ目は「20世紀は何であったか」です。加藤は芸術や美を追究しました。日本人は世界に冠たる感受性に富んだ芸術を残しましたが、どうしてあの戦争を起こしたのか?なぜあれだけの教養主義のドイツで、ナチズムが起きたのか?その問題を突き詰めたのが加藤周一です。丸山の「日本政治史研究」と加藤の「雑種文化論」「日本文学史序説」。方法論的にも導き出された結論も同じようでした。しかし、丸山の「日本政治史研究」は没歴史性で、理念型としてあります。


加藤は美の問題、感受性の問題を取りあげます。ウェーバーは「ヒンズー教と仏教」のなかで、あのロシアを破った日本に並々ならぬ関心があったようです。「現世否定的な宗教が生まれつつある」という一文があります。アヘン戦争以後、「鎌倉仏教」についてウェーバーは注目していました。加藤も親鸞とパスカルを比較して、「鎌倉仏教」に言及していました。否定の契機、ある種超越的な思想ですが、「普遍的な契機はどうありうるのか?」というのが、加藤の一貫したテーマでした。美的な完成というものが、倫理的な判断の基準でした。


三番目の「20世紀とはなのか?」、岩波から出ている本の中で「価値は化学から導き出されるものではない」と書かれています。ベトナム反戦について、反対したのは政治学者ではなかった、国際政治学者が最も反戦的でない。専門家の立場で事実を集積させても、価値にはならない。これはウェーバーから学びました。いかにして価値への自由を、最後に一線を越えなければならない。姜尚中はアウシュビッツを見た時のことを語り出します。ガス室を設計したヘスという人、家族思いの敬虔なプロテスタントです。その同じ人が最も効率的なガス室を造ったのです。ナチズムと科学技術、応用の仕方が間違っていたと、加藤は言いました。平和と戦争の問題、科学技術と戦争の問題を、加藤は反語的に考えていました。


「我々が生きている世界はニュートン的世界、しかし死ねば非ニュートン的世界」と加藤は言った。20世紀をくぐり抜けて、最後にどこへ行こうとしていたのか?1968年プラハの春、もしかしたらある種のパラダイムシフトがあった、68年、そこに20世紀が抱え込んだ問題を、違う世界を創り出す契機があったのではないか?であるが故に「九条の会」に打ち込んだのだと思う。私は「羊の歌」を最初に読んで、涙が出ました。「亡命と知識人」は、知識人を考える上で大きいが、日本においては亡命はほとんどありません。加藤は、自由に生きることは亡命的で、つらいことだと言います。加藤周一が残したことは、今後とも色あせることはないと思います、と結びます。


世田谷文学館館長の菅野昭正は、「今日9月19日は、加藤周一の誕生日です」と挨拶に立ち、加藤は幾何学的な精神、つまり分析する精神と、繊細な事柄、つまり美の問題を合わせて考えることができる人だと語ります。そしていつも「僕は専門のない専門家だ」と言い、フランス文学者の私に「そんな狭い領域に閉じこもっていてはだめだよ」と言っていたと語ります。源氏物語とモンドリアンを比較することは、アカデミズムからは批判があるが、それが加藤周一だと言います。


以下は、京王線で芦花公園へ行く途中に電車の中で読んでいた車谷長吉の「文士の魂・文士の生魑魅(いきすだま)」(新潮文庫:平成22年8月1日発行)の中にある、加藤周一に関連した文章です。会場でこの「三題話」という本を読んでいる方がおられました。また、ロビーの仮設のミュージアム・ショップにも他の加藤周一の著作と同じように並べられていました。それにしても「著作集」や「自選集」も含めて、加藤周一の著作の多いこと、それでも飛ぶように売れていました。


加藤周一「三題噺」(筑摩書房)が上板されたのは、昭和40年7月10日である。その時、私は大学2年生だった。「詩仙堂志」「狂雲森春雨」「仲基後語」の3篇が収められ、それぞれ石川丈山、一休宗純、富永仲基を取り扱っている。この書を読んだ時、私はこの3人について何も知らなかった。また史伝を書きたいという志もなかった。けれども何かとてもよいものを読んだという印象が残った。当時、私は一途に文学とは「よきもの」だと信じていた。そう信じる一助になったのが、この書だった。・・・私はこの「三題噺」を再読する時、文学とは「よきもの」だという感慨に打たれるのである。加藤周一の志の高さだろう。いずれも「へたうま」の小説であるが、そういうことは問題ではない。


連続講座「知の巨匠―加藤周一ウィーク」

2010年9月18日~9月26日

敗戦直後に本格的な文筆活動を開始されてから60数年、加藤周一氏は不偏不党、たゆみなく精神の自由に徹した発言をつらぬいてこられました。激しく揺れ動く世界の動向の理非を問い、そのなかで現在・未来にわたって日本のあるべき姿について、独自の思考を磨いてこられました。また古今東西の文学、演劇、美術、音楽の最良のものに親炙して、人類の創りあげてきた文化の蓄積を探るとともに、日本文化の産みだしてきた洗練された伝統を精緻に分析してこられました。闊達に視野をひろげながら個々の対象をこまやかに見つめ、つねに普遍性を失わぬ精確な言葉で語られた業績から何を学ぶべきか、何を継承すべきか。数多くの方々とともにそれを考える機会とするため、世田谷文学館では連続講座「知の巨匠―加藤周一ウィーク」を開催いたします。世田谷文学館館長 菅野昭正


「世田谷文学館」ホームページ


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