世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」池澤夏樹編を聞く! | とんとん・にっき

世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」池澤夏樹編を聞く!

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またまた世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」に行ってきました。今回の講師は池澤夏樹、タイトルは「雑種文化と国際性」、僕はほとんど知らない人です。チラシの裏にあるプロフィールを下に載せておきます。


池澤夏樹。小説家、詩人。1945年北海道生まれ。父は作家の福永武彦。1975年から3年間ギリシャに暮らし、以後沖縄、フランスなど各地に居住。1987年の「スティル・ライフ」で中央公論新人賞と芥川賞、1993年「マシアス・ギリの失脚」で谷崎潤一郎賞ほか、受賞作多数。2007年より個人編集による「世界文学全集」を刊行。とあります。


「世界文学全集」ををまったく一人で編集するなんて、凄い人だな、たぶんとんでもない人なんだろう、とは思っていました。ほとんど芥川賞の受賞作には目を通していると思っていたのですが、池沢の芥川賞受賞作「スティル・ライフ」は、まったく知りませんでした。1987年といえば23年前、芥川賞は目を通していると自負していましたが、実は所々ほころびが目に付き始めた、というところです。ふと気がついたのが、池澤夏樹は芥川賞の選考委員だということ、そういえば、芥川賞の選評はもう何年もの長い間、毎回読んでいました。当然、池澤夏樹の選評も読んでいたわけです。最近の選評では、赤染晶子の「乙女の密告」について、今回の選評では一番長く書いていますが、以下のように書いていました。


赤染晶子さんの「乙女の密告」は重い主題を中心に埋め込んで、しかし一見したところまこと軽やかに組み立てられた小説である。最後のページに驚愕の種明かしが待っているところはまるでミステリだが・・・かくも重い主題をかくも軽い枠に盛り込んだ作者の伎倆は尋常ではない。タイトル一つ取っても、「乙女」という軽い非現実的な言葉に「密告」という重い言葉をつないで訴えかけ、しかも内容を見事に要約している。このような力ある知的な作家の誕生を喜びたい。


もう一つ驚いたことは、池澤夏樹が福永武彦の息子だったということです。加藤周一は、1943年に東京帝国大学医学部卒業しましたが、学生時代から文学に関心を寄せていて、在学中に中村真一郎・福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成していました。福永武彦の小説は昔、いくつか読みました。大江健三郎=江藤淳編集の「われらの文学」にも「福永武彦」は「遠藤周作」とともに「われらの文学10」(昭和42年1月15日発行)の一冊に収まっていました。そこでは「草の花」「告別」「河」の3作品が載っていました。また、新潮社の「純文学書き下ろし特別作品」とかいう、ハードカバーのケース入りのシリーズの中に、福永武彦の「海市」がありました。「昭和43年1月15日発行、昭和46年2月20日13刷」とありますから、純文学としてはめちゃくちゃ売れていたんですね。いま調べてみたら、なんたることか偶然にも池澤夏樹の「マシアス・ギリの失脚」が「純文学書き下ろし特別作品」に入っていました。親子で入っていたということで、これにも驚きました。


まず例の如く、館長の菅野昭正の挨拶から始まりました。加藤周一は日本文化について、どういう特質があったのかなど、様々な箇所で書いています。加藤がフランスへ行くときには「お富さん」が流行っていた。神戸の港に帰ってきたときには別の歌が流行っていた。どちらも捨てることはできない、「アウフヘーベン」しなければ、というようなことを短い文章で書いていました。西洋化は目的ではない、比較対照して活かして行ければよいと、「日本文化の雑種性」で、加藤は理路整然とした文章で書いていました。池沢夏樹は加藤より30歳も下です。親と子ほども違います。若い世代から見て、加藤のどこにアキレス腱があったのか、そういう特色を持った文化論を話してもらうのに一番ふさわしい方だと思います。


ここから池沢夏樹が加藤周一の著作を数冊抱えての登壇です。若い世代と言っても見ての通り高齢者です。若いというのは相対的ですと笑わせます。今日の話は「雑種文化と国際性」です。最近、熊本へ行く機会がありました。ここは蘆花公園、蘇峰も蘆花も熊本でした。熊本は水俣のことを書いた石牟礼道子さんがいます。加藤周一は「日本文化の雑種性」を、イギリス、フランスを見て帰ってすぐ、1955年、36歳で書きました。これは自分の方針の表明みたいなものでした。要約すれば、イギリスもフランスも自国主義・純粋主義、好奇心はあるが原理的なものは外へは求めなかった。出版では英米のマーケットは狭い。それに対して、日本はずいぶん違います。国民主義的にやっていたのはイギリス・フランス、ただし、ドイツは違います。フランスやイギリスに遅れていう意識がありました。ロシアはもっと離れていました。19世紀の貴族社会はフランスがたくさん出てきます。「世界文学」という概念で考えるとドイツはゲーテだった。加藤流に言えば「雑種文化」だった。加藤が日本文化を雑種と言ったのは、その後の加藤の道筋をつくりました。国の中で賄おうとするなら中国や、あるいはインドを考える必要がある。日本が国民主義的な文化がつくれなかった、つくる必要がなかったと、加藤は考えました。


西洋文化を取り入れて、その結果、軍国主義になり、その結果、敗戦となった。「和魂洋才」という言葉があるが、実際には不可能でした。どこでどう間違えたか、検証する必要があると、1955年に加藤は考えていました。「羊の歌」、学生時代加藤は、日本精神主義では負けると言った。そういうことを言うやつがいるから負けるんだ、敗北主義だ、と言われます。それに対して加藤は言い返します。同じころ、京都で西洋哲学に日本精神を継ぎ足すと考えていたが、精神的な日本主義では出来ない、われわれはイギリスやフランスではないと加藤は言った。池澤の考えでは、出発として日本は、大陸から離れた島国である。日本、朝鮮、ベトナムはサテライト、衛星国である。海があり、いい距離があった。他民族の侵略から守られていた。「元寇」はたまたま台風が来たが、これを神風と言って、後々問題になりました。ある詩人は「蝶々が一匹ダッタン海峡を渡ってきた」といいました。実体は蝶々一匹、文化的な力関係が現れていました(徳川家が大陸から一番遠いところへ江戸幕府を開いたのもそうかもしれない:これは池沢説)。地理的条件から出発して、持ってきたものをまるで違うものに育て上げる、それが大事である。



日本で独自に発達したのはなにか、加藤は厳密に考えました。「日本文学史序説」、これは加藤の最高の仕事でした。道元は、中国語を日本語に移しました。9世紀の空海と13世紀の道元を「最初の転換期」として比較しています。加藤が「序説」を書くに至った経緯は、これ以上いると日本語を忘れ、フランス語に傾く。フランスでフランス人とやり合うのは難しい。本を書くなら日本語の方が断然有利。よーるっぱの二重市民にはなりたくない。そのために日本に戻ってくる、という理由です(この辺は鶴見俊輔と非常に似ている)。なぜ海外に、という問いに日本は雑種文化で、では堂他の国とつきあうのがよいのか。どうしてあの戦争があったのか。その時代の日本の進路を決めること、加藤はまず挙げるのは「孤立の恐怖」です。誰かとつきあっていたい。しかし日本は孤立して、開き直り、日本はそうなった。孤立を破ろうとする、日本人は(翻訳が発達し)外国についての知識が豊かだが、外国人とはつきあわない。日本はずっと中国を模倣してきました。明治以降はイギリスもフランスもあります。勉強して帰ってくる。行った先が一番、とりあえず近代化が成功しました。ところが「一辺倒」の姿勢は変えられません。当時の総理大臣岸信介は「アメリカのいうことを聴いていれば間違いない」と言ったという。


私(池沢)は世界をめぐる旅へ出ました。まず大英博物館へ行って、行きたいところを探します。メソポタミアへ行きたい。しかしその頃はビザが下りない。ところがビザが下りた。行ってみると、イラクは明るくて陽気で食べ物が美味しい。戦争間近で、フセインは悪いとメディアは言うだけ。それでイラクがわかる小さな本を出した。ブッシュは辞めるときに「イラクの大量破壊兵器があるといった情報は間違っていた」と言い、戦争については反省していない。大量破壊兵器はイラクにないと、私たちがあれほど言っていたのに、小泉も同じでした。日本で生まれ育って日本が一番いい、ではなく、何を以て日本文化を誇ることができるのか。その遺産は「理想主義」です。そして加藤周一が「九条の会」をつくりました。道元の禅は、国とか民族を超えています。加藤周一は、医者で結成学の専門家、1945年原爆のリサーチをしています。患者を臨床で数多く診ています。医者としては「この患者はあと半年」だが、人間としてはまた別、検証を自分に対して行います。

一般論として、知識人とは外国語を読めること、ラテン語ですね、思想の道具としてです。東アジアでは中国語、つまり漢文・漢語ですが、中国へ渡らなければ憶えられない。新井白石は、儒者として、官僚として、開けていた人と、理想的に書いています。水村美苗は「日本語が亡びるとき」に、こちらが日本語で書いていることは外国語にはならないと書いています。なぜなら日本はマーケットが大きいからです。加藤周一は日本語で書いても、他の言語でチェックしながら書いたという。日本文化はとか、俳句はとか、外国人にはわからない、とそういってるうちは外へは出られません。日本文化にある価値は、世界に通用するはず。ドイツ人はゲーテは日本人にはわからない、とは言いいません。だからあの本はいくつもの外国語に訳されています。日本文化の図ぐれたところ、文学、建築、絵画など、表象芸術についてです。日本人の時間については源氏物語を読むのが一番だとも言っています。日本を論ずるのに加藤は、なぜあれほどまでに海外へ出たのか。


僕(池沢)はギリシャに3年住んでいました。新聞は大使館へ行って月遅れで読んでいました。だからキャンディーズを知らない、と笑わせます。浦島太郎現象です。加藤は、自分は周辺的存在で、長い外国暮らしが、日本において影響力を減らして、社会のコミットして政治を変えるとかから一歩離れて、そういう位置に自分を置きました。私ははみ出しもの、池沢はこれはよくわかると言います。加藤と違うのは、外で遊んでいただけと、謙遜します。受験は全部失敗して、外へ出ざるを得なかった。先進国を学ぶより、相でない国で遊び回るのが好きだったというだけです。一番は「普遍性」です。加藤は研究社で教えることもできます。ドイツ語もフランス語もできます。エール大学では、24時間利用できるので、たくさんの日本語関連の書物を読みました。そこで「日本文学史序説」の源氏物語を書きました。日本にいないと言うことを加藤はポジティブでした。日本にいて、日本から一歩も出ないで書いていたのは林達夫でした。しかし歌舞伎論を書くのを止めて、外国文学へ進みました。


最後に考えると、加藤はあの時期だから書けたのではないかと思います。我々が今書いても何にもならない。明らかなことは、我々は加藤周一のいない世界を生きていかなければならない、参照しながら前へ進む以外にない、と言うことです。何を吸収し、外へ出て行くのか。加藤の生きていない時代に世界文化を作り上げていく必要がありますと、池沢は結びました。最後に館長が立ち、加藤がチェコにいたときに日本では学園紛争が起こっていました。ある時、学園紛争の時代に日本にいなかったので、その話をしてくれと言われました。世界的に反乱と言っても、日本ではどう行われていたのか知りたかったようです。加藤周一とはそういう人でしたと言います。すると池沢は、その頃加藤はベルリン自由大学で学生空突き上げを喰っていたと証言。


連続講座「知の巨匠―加藤周一ウィーク」

2010年9月18日~9月26日

敗戦直後に本格的な文筆活動を開始されてから60数年、加藤周一氏は不偏不党、たゆみなく精神の自由に徹した発言をつらぬいてこられました。激しく揺れ動く世界の動向の理非を問い、そのなかで現在・未来にわたって日本のあるべき姿について、独自の思考を磨いてこられました。また古今東西の文学、演劇、美術、音楽の最良のものに親炙して、人類の創りあげてきた文化の蓄積を探るとともに、日本文化の産みだしてきた洗練された伝統を精緻に分析してこられました。闊達に視野をひろげながら個々の対象をこまやかに見つめ、つねに普遍性を失わぬ精確な言葉で語られた業績から何を学ぶべきか、何を継承すべきか。数多くの方々とともにそれを考える機会とするため、世田谷文学館では連続講座「知の巨匠―加藤周一ウィーク」を開催いたします。世田谷文学館館長 菅野昭正


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