江國香織の「がらくた」を読んだ! | とんとん・にっき

江國香織の「がらくた」を読んだ!


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物語の始まりは、原作:トーマス・マン、監督・制作・脚本:ルキノ・ビスコンティの、作曲家マーラーをモデルにした「ヴェニスに死す」を思わせます。海外の高級リゾート地の、ホテル専用のプライベートビーチ、美少年が美少女に置き換えらています。が、しかし、そう簡単には期待した展開には至りません。江國香織の最新作「がらくた」、彼女にとっての長編は、2004年10月発行のあの「間宮兄弟」以来3年ぶりだとか。でもこの作品のタイトル「がらくた」、「間宮兄弟」もそうでしたが、なんのてらいもないタイトルです。いつもは例えば「号泣する準備はできていた」、「いつか記憶からこぼれおちるとしても」、「雨はコーラがのめない」、「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」、「薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木」、等々、凝ったタイトルが多いというのに、なぜか不思議です。江國香織、永遠の独身かと思っていたら、銀行員と結婚してる?ちょっと、ショックです。

「まだ小説がどういう形になるかわからないときに、書きたいと思ったことが3つありました。1つは“人の背景にあるもの”です。(中略)すれ違っただけの人の背景にあるものを想像してしまったときに、小説を書きたいと思ったんです。2つめは“女同士の関係”です。これは主人公の柊子とミミに表れているんですけど、年齢がすごく違う。しかも、ミミは単に処女というだけではなく恋愛の経験値が低く、柊子はいろんな経験をした女。この対照的なふたりが男性へ取り組むときの違い、それと憧れや嫉妬といった、お互いを意識する心の動きというものを書いてみたかったんです。3つめは“恋愛の心理”です。これは私がある種の恋愛小説を書くときにいつも考えてしまうことなんですけど、登場人物がどんなに激しく恋に落ちても、どんなに幸福でも、良くも悪くも関係は必ず変わっていく。でも、それを“変えたくない”と思う。その心理を、今度はわりとストレートに書きたいと思いました」。(江國香織)


熱愛する夫を東京に残し、もうすぐ75歳になる母親、桐子と高級リゾート地で休暇を楽しむ翻訳の仕事をしている柊子は45歳、そこで出会ったのは、父親とそのリゾート地に来ていた美少女、まだ高校生の美海(ミミ)15歳。章ごとに柊子と美海が語り手になり、物語はスリリングに進みます。美海の父親は建築家で、葉山でサーフショップも開いています。ミミの母親とはだいぶ前に離婚しており、ミミは普段は母親と暮らしています。柊子の夫はテレビのプロデューサー。母親の桐子は生まれてから一度も家の外で働いたことのない女性、「本ばかり読んできた」と言います。こうした背景は江國香織特有の「セレブ臭」、そしてお決まりの「不倫」、「ああまたかよ」と「既視感」が漂います。しっかりとスタイルが決まっているというか、期待する「大化け」はまったくありません。帰国後、ミミは柊子の母親、桐子の家を訪れ、不思議な関係がぎこちなく始まります。


年齢の離れた女性3人、柊子とミミ、そして柊子の母親、桐子、不思議な関係です。男性ははミミの父親、そして柊子の夫。この5人がそれぞれ勝手な方向へ動き出します。柊子は、「うちのパパはあなたに興味津々よ」とミミに焚き付けられて、彼女の父親といとも簡単に寝てしまいます。パパはいつも新しいガールフレンドを見つける、その関係は長くは続かない、どろどろになったりもしない、なぜなら大人同士だからとか、言われたりして。「いまごろ夫も、誰かを味わっているだろうか」と自分に言い聞かせながら。なぜか「私が情事から学んだことだった」という脈絡のないフレーズが、全編の何カ所かに出てきます。


「がらくた」は、広辞苑によると(などと大げさに言わないまでも)、「(ガラは物の触れて鳴る音。クタはアクタの約)ねうちのない、雑多な品物」のことです。この「がらくた」という言葉、美海と美海のママがさやかさん、亘君の「おふくろ」で美海のパパとママの仲人、の家を尋ねたときに、たった一度だけ出てきます。亡くしたご主人を忘れられないさやかさんが「どうしても物が捨てられなくて」といい、美海のママが「思い出の品ですものね」と口を挟むと、さやかさんは「がらくたばっかりよ」と淋しげに微笑んで、かつ誇らしげに答えます。さて、この「がらくた」にどういう意味が込められているのか?





「私の時間と私の肉体、嘘いつわりのない言葉、そして好意と敬意」。それだけで十分なはずなのに、二人のは足りなかったのだ。「私たちは果てしなく貪欲になった。昼も夜も身体を重ね、昼も夜も言葉を重ね、一緒に暮らしていてもまだ飽きたらず、束縛を望み、所有を望み、嫉妬を望み口論を望んだ。なにもかも欲しかったのだ。私は彼の存在を望み、不在による空虚さをも望んだ。彼だけが私に与えられる甘美さを望むのとおなじくらいに、彼だけが私に与えられる苦痛をも望んだ」。お互いに熱愛していると言いながら、夫は複数の女性との関係を続けています。柊子も自由にやればいいと言われて、時には行きずりの情事を行っています。


「悲しんでくれる人がいなかったら、私は誰とでも寝ると思うわ」と柊子が言うと、「もしそうなら、きみは実際、誰とでも寝るべきなんだよ」と夫は冷静に(自分に都合がいいように)言います。「このひとは私といても快適ではないのだ。快適でないのが、このひとの寄る辺なのだ」と、柊子は忽然と理解してしまいます。「俺が一緒にいたいのは柊子だけなんだから」と、他に愛人がいながら、夫からは歯の浮くようなことを言われたりします。柊子は、夫との関係を「微妙なバランスを与えられた針金作品」に喩えます。


亘君との関係を「簡潔にして曖昧なこの関係を、私は失いたくない。たとえそれが、永遠に続くわけではないもの、保存できないもの――ちょうど、薔薇にのった水玉みたいに――だとしても」と美海は思います。「果物は、ほうっておけば痛んだり腐ったりするでしょう?でもジャムにすればとっておける。味も香りの濃くなるし、色も濃くなってきれいだしね」と柊子は言います。美海は「私は、果物は生のままが好きだ。そう思ったけれど、言わずにおいた」と、こちらも負けてはいません。「とっておけるもの」「とっておくこと」、柊子もさやかも、同じようなことを美海に言います。「とっておくほどたいしたものじゃない。全部ががらくたと言えばがらくたなのです」と、江國香織は言います。


会うなり柊子の夫、原さんはミミの服装を「いいね。とてもよく似合うよ」とほめまくります。柊子からミミにプレゼントされた「カウチンセーター」です。夫はそれを見るなり「野暮ったいな」と言ったはずなのに。そして「ミミちゃんにすいこまれる」と原さんは言います。「不行き届きな真似をしてほしいの」とミミに誘われ、2時間後、二人はホテルのベットの上に。性交は、想像していたようなものではなかったと言いながら、ミミは自分の身体が2時間前とは別のものになった気がして、はじめて原さんとできてよかったと思います。そして(勝ち誇ったように?)「たのしみだな、次ぎに柊子さんと会うのが」と原さんに言います。「退屈したら、電話を」という原さんに、「かけると思う?絶対かけない」、そして「柊子さんとはちがうもの」とミミは自分でこたえます。


物語の前半、柊子と母親の会話。「嫉妬?だってまだ子供じゃないの、ばかばかしい」「だからこそでしょ。子供と大人の中間で、あんたが失った物と手に入れたものを両方持っていて。いましかないっていう種類の生命力があるから」。怖いですね、若い女の子は。大人は完全に振り回されています。加藤典洋は朝日新聞の「文芸時評」で次のように述べています。「ここでは、これまでの繊細きわまりない江國の作品が、がしゃんと音を立て、瓦解しているのではないか。これまでどんなハンマーでも壊れないほど堅固だったガラスの世界が、一人の『飢えた』若い人間の闖入で崩れ、『がらくた』と化しているのではないだろうか」と。続けて加藤は言う。これがきつい!「『がらくた』とはどういう意味か、読んでいるうちに気になってくるが、これまで、自分の書いてきた小説はみな『がらくた』のようなものだ、と『飢えた』作者が誰にもわからないように呟いていると、筆者は感じた」。


江國香織インタビュー


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