恵みの時 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

数ヶ月ぶりにミラノから50キロ離れたレッコ湖近くにあるミラノ外国宣教会の老人ホームを訪問してきた。
 
午後の面会予約であったのでお昼ごろ到着する電車に乗り、昼食を終えてからホームへ向かった。
 

 

 

レッコの街はすでにクリスマスのデコレーションが施されていた。

 

 
ミラノへ50キロ、と書かれている。

 

 

お天気であるが、風が強くて寒かった。

 

 
中心地から5分ほど歩くとこんなに人がまばら(ほぼいない?!)な場所になる。

 

道路より一段低い湖畔へ降りてみた。ウインドサーフィンを楽しむ人がいたが、想像以上に速いスピードで驚いた。

 

 

ところで、ホームには30人ほどの病気や高齢のため引退された司祭が在籍しており、現在そちらには、以前日本宣教に出ていたイタリア人司祭が3名おられる。そのうちのお一人が29日に83歳のお誕生日を迎えられるので一目お会いしておきたかった。
 
1人の司祭は認知症が進んでおり、最後にお会いしたのが4年前。司祭同士でも話す事もなくなったと言う。比較的元気な司祭は、誰とも話すことがない日もあるという。ヘルパーも人手不足のようだ。電話は聞こえづらいというので、ビデオ電話にすると会話が出来るが、祈りの日々です、と仰っておられた。
 
お会いするといつも質問攻めにしてしまうので、今日はあなた方の事を話して下さい、と言われ、在伊歴や洗礼に至るまでの話や家族の話などをそれぞれが色々と話した。
 
友人たちも在伊歴は長いが、一人の友人が、教会で佇む事は好きだが、洗礼は受けていない、と言うと「なぜ?」と聞かれた。「なかなか日本人は信仰に対しては構えると言うか難しいですよね」、と言うような事を言うと再び「なぜ?」と聞かれた。
 
私が、「やはり自分の罪深さを思い知るとなかなか神の前には立てないと思ってしまうのではないでしょうか?」と言うと「罪深いからこそ神が必要なのです」と仰られた。(ごもっとも!)
 
とは言え、それを召命、つまり神の恵みによって神に呼び出されることだとはそうそう簡単には気づけない。
 
私の場合、やたら何も考えず長い間、趣味で勉強していたが、それが洗礼、信仰と繋がるとは全く思ってもいなかった。急にある司祭に声をかけられ本来なら最低でも2年はカテキズモと呼ばれるカトリック要理を学ばなければならないが、その後代母となったシスターも「まあいいでしょう」と簡単に言われ、入門式を飛び越え、いきなり志願式に飛び込む形でで3ヶ月後には洗礼を受けていた。背中を押された感じであった。何事も「時」というものがあるのだろう。
 
こちらは上記司祭が以前所属していた教会のHPで紹介していた祈り。
 
ある日わたしの嫌なところをとってくださるように、神に願いました。
神は言われた。
「嫌なところをとるのは、わたしの仕事ではありません。それはあなた自身でとるべきものでしょう。」
 
神に、忍耐を願いました。神は言われた。
「忍耐は困難の祈りです。時間をかけて学ぶべきものでしょう。」
 
神に、幸せを願いました。神は言われた。
「わたしはあなたを祝福しますが、幸せはあなた自身でつかむべきものでしょう。」
 
神に、苦しみから解放してくださるように願いました。神は言われた。
「苦しみは宝物です。この世の愛着から離れさせ、わたしに近づかせるものでしょう。」
 
神に、わたしの心を強めるように願いました。神は言われた。
「それは自然に成長すべきものですが、あなたがたくさんの実を結ぶことができるように、わたしはあなたを剪定しましょう。」
 
神に、わたしの命を喜ばせるように、すべてのものを願いました。神は言われた。
「すべてのものが喜ぶような命を、あなたに与えましょう。」
 
神に、わたしがイエスのように人も神も愛することができるように願った時、神は、
「ああ、やっとわたしの気持ちをわかってくれた」とお答えになったのです。
 
 
年を取り、病気をしたりして、人ははじめて人々との出会いの素晴らしさを味わい、自分は一人で何でもできるという驕りから治るための、恵みの時となるのかもしれない。
 

私たち人間はもろい。けれどもろいからこそ神に向かって立ち上がらせ、純化し、聖化する、「精錬する者の火、洗う者の灰汁」(マラキ3:2)となりうるのだろう。

 

苦しみを恐れてはならない。主が私たちと共に十字架を担いでくださる。

 
ホームを訪問するたびに、毎回何か寂しさを感じてしまうが、今回は司祭たちの、神と教会への誠実な愛、いのちの福音を静かに告げるその生き方に改めて感謝の念が湧いた。