サンフェデーレ、香部屋 胸像の謎 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今日、在ミラノの日本人会の催し物で、ミラノの街中の散策とカトリックのイエズス会の教会であるサンフェデーレ教会を見学するツアーがあり、参加した友人から画像が送られてきた。

 

サンフェデーレはスカラ座の目と鼻の先の場所にあり、かのマンゾーニも通っていた教会である。

 

ミサのための聖具などが置かれているサグレステイアの香部屋には日本人の胸像が3体あるとガイドが言っていたが、名前は言っていなかったと友人がいう。

 

天正遣欧使節団で4人が1585年3月、バチカンで当時の教皇、グレゴリオ13世に謁見しているが、ミラノにも来ている。その4人のうち1人は帰国後棄教しているはずだから、残りの3人じゃないの?と言った。

 

 

 

 

 

調べてみたら、よくあることだが自分のブログにヒット。爆

 

> 天正遣欧少年使節団は、イエズス会員•司祭であり当時イエズス会東インド管区の巡察師として活躍しておられたヴァリニャーノ神父の発案で、九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として4名の少年がローマへ派遣された。当時13-14歳くらいであっただろうと言われる、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノが派遣され、1585年3月にヴァチカンで当時の教皇であったグレゴリオ13世との謁見後、5月にミラノも訪問している。日本を出たのは、1582年でミラノに到着するまでなんと3年もかかっている!

 
(上記は2019年のブログで2016年には私も今日同様行われた日本人会のツアーでサンフェデーレを訪れている)
 
>(ブログの続き)しかし、前回のツアーでは、司祭服や聖具が置かれているSagrestiaと呼ばれる「香部屋」の高い棚の上に胸像が8体あるのだが、イエズス会創始者のロヨラのイグナチオそして、聖フランシスコ•ザビエル。ルイジ•ゴンザーガ、フランチェスコ•ボルジア(イエズス会の福者)だが、日本人は3体と言われた。使節団は4名だったが、帰国して神学校に入り司祭に叙階したのは3名のみ。伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンが叙階し、ジュリアンが棄教を迫られ、逆さ吊りの刑にあい殉教している。千々石ミゲルは、棄教したばかりかキリシタンを弾圧する側に回ってしまった。では、残り一体は誰なのだろう?今回、ガイドさんに問い合わせたが、わからず。香部屋の責任者に問い合わせてくれたら、こちらの文書を見せてくれた。
 

 

8体の胸像は6世紀前半に尊者または福者となったイエズス会のものだということ。上記同様、ロヨラのイグナチオ。フランシスコ•ザビエル。フランシスコ•ボルジア。ルイジ•ゴンザガ。その他、日本の殉教者とある。つまり4名。千々石ミゲルが棄教したのは(棄教していなかった、という説もある)1601年なので、イタリアのイエズス会には記録されていなかったのかもしれない。
 
そしてこちらは、1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。(京都大学図書館蔵)右上から伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父。
 

 

当時胸像を作った芸術家や絵描たちはアジアの人間をよく知らないから、ヨーロピアンと変わらない様相で表現している。やはり3体ではなく4体、天正遣欧少年使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名だったのでないか?と確信。

 

ミラノのガイドブックにはなかなかそこまで書かれているものはないが、カトリック信者のミラノ巡礼の際は、是非是非見学していただきたいものである。