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(C) 2009業田良家/小学館/『空気人形』製作委員会
「誰も知らない」「歩いても 歩いても」の是枝裕和監督から新作が届けられた。
「空気人形」は、オリジナル作品にこだわり続けてきた是枝監督が
業田良家の同名コミックに感銘を受け、長い年月を経て実写化した作品である。
20ページほどで完結する短編に独自の解釈を加えて膨らませ
官能的かつ大人向けのファンタジーとして完成した「空気人形」は
まさに是枝監督によって「命を吹き込まれた」作品となっている。
小さな町の古びたアパートに、ひとりの男が帰って来た。
「ただいま」
男が声をかけた先に居るのは、1体の空気人形。
性欲処理の代用品として購入された空気人形に、ある朝、心が芽生えた。
ゆっくりと起き上がり、窓から射し込む光と雫を見つめて呟く。
「キ…レ…イ」
町に出た空気人形は、レンタルビデオ店でひとりの若い男に出会う。
なんだろう、空っぽのはずの胸がドキドキする。
恋を知り、嘘を知り、切なさを知った空気人形が辿り着く先とは。
心を持った空気人形という難役に挑むのは、
「ほえる犬は噛まない」「子猫をお願い」「グエムル 漢江の怪物」など
韓国映画界で活躍するペ・ドゥナ。
空気人形が恋する青年・純一は是枝作品の常連であるARATA。
空気人形の持ち主である男・秀雄は独特の世界観と間を持った芸人、板尾創路。
その他にも、オダギリジョー、岩松了、富司純子、星野真里、余貴美子など
個性的なキャストが脇を固めている。
撮影監督には、ウォン・カーウァイ監督の「花様年華」やジェイ・チョウ主演の
「言えない秘密」など、アジア映画界で絶大な信頼を得ているリー・ピンピン。
静かでポップな音楽を担当したのは、world's end girlfriend。
「素人童貞」という言葉がある。
風俗店などで初体験は済ませているものの、恋愛関係になった相手との
セックスはまだ済ませていない状態を指す。
「愛のないセックスはカウントしない」という、ピュアな幻想が生んだ造語だ。
しかし、単に性欲処理が目的ならば、そこに愛など必要ない。
もっと言えば、生身の人間である必要すらない。
性欲を駆り立てるに足るだけの容姿と、必要な機能さえ備わっていればそれでいい。
性欲処理の代用品に求められるもの、それは、持ち主の一方通行な愛情を受け入れることだけ。
遊び飽きて別のモデルに買い替えられるまでの、束の間の消耗品。
そんな空気人形が心を持ってしまったのは何故なのか。
板尾演じる空気人形の持ち主は、原作ではラストシーンにひとコマだけ登場する。
しかも、破れた空気人形を何の躊躇も無くゴミ捨て場に捨ててしまう
ドライな男として描かれているのだが、
映画版では、過去に付き合った女性との恋愛がトラウマになっていること、
誕生日(購入した日)にはバースデーケーキを買い、記念写真を撮影すること、
少しだけ高級なシャンプーを使って髪を洗っていること、
ベッドの中では、天井のプラネタリウムを眺めながら星の話をしていることなど、
生身の女性から遠ざかった理由や、空気人形を大切にしている様子が追加されている。
公園のベンチでペアのマフラーを巻き、肩を抱き寄せる姿は、本物のカップルと何ら変わりはない。
原作では「ある日突然」以外の理由が見つけられなかった「空気人形が心を持った理由」が、
映画版では「この男のためなのでは?」とすら思えてくる。
自分で作った人形を、本当の息子のように愛し続けたゼペットの願いを
ブルー・フェアリーが叶えたように、献身的な男の姿を見て、きっと誰かが心を与えたのだ、と。
しかし、ゼペットと違い、男はそれ(心を持つこと)を望んではいなかった。
ここが、映画版「空気人形」の哀しさのスタート地点になっている。
空気人形が街に出てからの物語は、体の中が空っぽの空気人形と、
心の中が空っぽの人間達の姿が淡々と続く。
食べ物を口に出来ない空気人形と、食べても食べても不安が消えない女、
時間という川の流れ(老い)に乗れない空気人形と、川の流れに逆らおうとする女、
同じ場所をぐるぐると回り続ける老婦人、ひとりの食卓でふいに寂しさがこみ上げる男、
心を持った空気人形が出会った人々は、心を持ちながら、心が満たされていない人達ばかり。
空気人形が恋をする純一もまた、心にぽっかりと穴が空いている。
しかし、生まれたばかりの空気人形は、心を埋める術を知らない。
是枝監督が映画化を思い立つきっかけにもなった、
破れた空気人形の傷口をセロハンテープで塞ぎ、息を吹き込む官能的なシーンは、
原作と同じく最も印象的なシーンであると同時に、
純一の心を埋める術を、空気人形が見つけた瞬間でもある。
ひと息ごとに体が大きく揺れ、手足にしなやかさが戻って来る。
体の中が純一の息で満たされた空気人形がどれほどの幸福感に包まれたのかは
ペ・ドゥナの恍惚とした表情を見れば明らかだ。
純一を幸福にする術をようやく見つけた、空気人形の純粋過ぎる想いは、
原作からは想像もつかない結末を迎えることになるのだが、
この行為をどう受け止めるかで、観客の感想は大きく分かれることになろう。
「空気人形」を含む業田良家の原作「ゴーダ哲学堂」は、
「こういうことが起きている」という事柄を、物語中の誰かに肩入れすることなく描いている。
「空気人形」の結末も、実にあっけないものだ。(だからこそ凄い、という意味でもある)
しかし、是枝監督は「誰も知らない」や「DISTANCE」でそうしたように
空気人形の不幸に手を差し伸べた。
同じ結末を迎えるにしても、もう少し幸せな人生にしてあげたい。
持ち主の男を心ある人間として描いたのも、空気人形の産みの親を登場させたのも、
空気人形の一生が無意味なものでは無かったことにするための
是枝監督の優しさだったのではないかと私は思う。
絞り込まれた台詞と、風に舞う一枚の葉のようなカメラワークで
まとめられたリー・ピンピンの美しい映像、
world's end girlfriendの音楽が絡まり、映像作品としても文句無し。
ペ・ドゥナは最高のハマり役。
私的には今秋のイチ押しだが、日本人ならば皆どこかに共感が持てるであろう
「歩いても 歩いても」のような万人向けの作品ではないので、そこだけはご注意を。
当記事や予告編で興味の湧いた方ならば、強烈にお勧め。
最後に、劇中でも使用されている吉野弘の詩を紹介しておこう。
生命は
自分自身だけでは完結できないようにつくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばかまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかも知れない
吉野弘 「生命は」より
▼関連作品
■CD:「空気人形 O.S.T. / world's end girlfriend」
サントラは映画の公開に合わせて9月25日発売。これは買い。
■DVD:「ゴーダ哲学堂」
■DVD:「歩いても 歩いても」
【紹介記事】2009年1月第4週発売の新作(「歩いても 歩いても」の紹介あり)
業田良家の原作「空気人形」を収録した短編集と、
是枝監督の直近作である「歩いても 歩いても」。
■DVD:「自虐の詩 プレミアム・エディション」
■COMIC:「自虐の詩 上巻」
■COMIC:「自虐の詩 下巻」
業田良家の原作で先に映画化されているのが「自虐の詩」。
四コマというスタイルをとりながら人生を語る、業田良家の代表作。
映画版は、原作に忠実と言えば聞こえはいいが、見た目を似せただけで
中身はハリボテという、まんま「20世紀少年」と同じ手法。
と思ったら、監督も同じ堤幸彦。正直、別の監督で撮り直して欲しい。