インセプション | 空想俳人日記

インセプション

エッシャーの 世界がリアルな うつつかな



 時間が長いのと、長い割には小難しくて、かといって何が言いたいのかわからない、そんな前置きを何かで耳にしていた、というか目に留めてたので、まあいいかあ、そう思って見過ごそうとしていたのは確かですね。でも、帰省の際、ちょっと時間持て余したから、観ちゃった。で、観て、よかったあ。
 たぶん、ボクは、かなり好きかも知れない、これ。もともと、夢のまた夢とか、今の現実も覚めるまでは夢の中のこと、そんなんあるやんねえ。それを逆に逆手にとって、経営戦略に夢の中の夢の中の夢の中で(今回、3階層下の意識下だもんね)ライバル企業の中枢なる存在の意識を変えてしまえ、というのは、ちょっと無謀かもしれませんなあ、だけれど、そのプロセス、いたく面白い。
 主人公コブを演じたディカプリオ、「アビエイター 」や、「ディパーテッド 」は置いといて、特についこの間の「モンスターとして生きるか、善人として死ぬか、どちらかだ」という「シャッターアイランド 」なんかと比べたいけれど、その話は、あとでね。
 とにかく、この映画が好きなのは、みんなエッシャー的なのよね。特に、一人では無理だと判断して、仲間を募る中、学んだ教師から紹介されたエレン・ペイジ演じるアリアドネ、彼女の設計手腕が最高なのよね。 観た人は、ほら観たでしょ、当たり前か。三次元の世界の高さが折れ曲がってくる。空に地面が近づいてくる。そうなると、引力は、今いる足元だけじゃなくなる、のよね。
 さらには、鏡と鏡に挟まれて、永久反映が生まれる。そして、それが一時に割れると・・・。ね、面白いでしょ。

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 えっ? ううん、確かに、こういうこと自体が面白いと思えないと、この映画、何が言いたいの、という客層がガンガン増えちゃうかもしれへんね。いわゆる「しかしながら、だから何だ」という感じ?
 それと、ディカプリオが、実はご法度の自分の過去を空想して実現させること、そこに登場する、かつてカミサンだったけれど先立たれた、マリオン・コティヤール演じるモル。彼女との愛情の駆け引きを観て、文頭で言い出しそうになった、「シャッターアイランド 」を思い出す。
 最近のディカプリオ、心理モノが多い中、喪った伴侶の存在が大きいよね。今回の映画もそうだけれど、その「シャッターアイランド 」も、テディ・ダニエルズ役を演じた彼の喪った伴侶ミシェル・ウィリアムズ演じるドロレス・シャナル、彼女の存在が大きいんよね。 何故、これほど伴侶の大きさを描く映画が続くんだろう、ディカプリオ。
 そう言えば、彼のように伴侶を喪わなければ、アメリカでも日本でも、子育てを終えた段階で伴侶が不具合を起こすことが多いらしい。旦那は奥さんに子育て任せっきりだから驚くらしいけれど、奥さんの方は、子育てが終わって、自分自身が解き放たれると、どうやら第2期恋愛したい期に陥るらしい。しかも、そんな奥様の伴侶は、ある意味、見捨てられるから、別の相手を見つけたくなる。そんなんだから、奥様が今の伴侶を捨てて新たな恋愛対象を求めると共に、そんな奥様から見捨てられんとする殿方が、今度は新たな女性に対し恋愛感覚に陥る。そんな取替えっこ現象じゃないけど、あちこちで起きているわけらしいが。
 なんか、そういうことにも釘を刺しているのかなあ、とも思う。つうのも、第2期恋愛だとすれば、これまでの伴侶との長い生活で得られた良くも悪くも全て知る間柄に対し、心はらはらの恋愛感覚がお互いの良い面のみを膨らませて夢見心地させる。間柄とすれば新たな関係作りが始まるはずなのだから、長く付き合っている伴侶に対する良いも悪いもの部分はまだ見えてない。「いいなあ、あの人」「あの方と出会うべきだった」なあんて、そういう恋愛感情から始まるから、気持ちは良くても、お互いに心底知り合っているわけでもないんだね。人生は繰り返す。それが、あたかも一人の中で若返りを図るかのように。
 まあ昔と違って、人生まだまだ先があるのだから、第2期恋愛時代があってもやぶさかじゃなかろうて。でもね、ディカプリオ演じる「シャッターアイランド」にしても、この「インセプション」にしても、腐れ縁である伴侶が存在を失うことで、実は自分にとって大きな存在であることを描いていることは確かじゃなかろうかね。
 この「インセプション」、ラストで、それが真の現実なのか否か、伴侶も錯綜して死に至ったわけだが、彼もひょっとかして、この現実をどこまで信じているのかな。いな、信じることこそ、そこに現実があり、真理がある、のかな。
 私たち人間は、今を生きるしかないのかもしれない。しかも、今が真実なのか虚構であるのか、それは余り関係ないのかもしれない。今を大切にすること、それそのものが、今の目の前の自分とともに生きる存在を大切にすることに他ならないのかもしれない、のかもしれない、かもしれない。3階層のかもしれない。例え、新たな愛すべき相手が出来たとしても、それだって、どこまで現実のリアルな世界で共に生きられるか分からないわけだし。
 なんか、ちょっと偏った感想になってしもたかなあ。ああ、しまった。がんばっている謙さんを讃える文章、書くの、忘れてた。サイトー役の渡辺謙、サイコーでしたよ。ありゃりゃん、何これ。


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