ディパーテッド | 空想俳人日記

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ネズミ算 生くる術の 社会学 



 大ヒット香港ノワール「インファナル・アフェア」のリメイク版だとか、監督は「グッドフェローズ」「アビエイター」のマーティン・スコセッシだとか、ハリウッドの豪華キャスト、主演はレオナルド・ディカプリオとマット・デイモン、共演にジャック・ニコルソン、だとか、先入観はいろいろありまして、しかもアカデミーの話まで出てきておりますが、実際に観てみると、私が一番に関心を抱いたのは、そんなことよりも、州警察のお抱え精神内科医師(でしたっけ?)なるマドリンを演じたベラ・ファーミガでありました。
 話は、警察に潜入したマフィアの男コリン・サリバンを演じるマット・デイモンと、マフィアに潜入した警察の男ビリー・コスティガンを演じるレオナルド・ディカプリオ、そんな対照的な二人を待ち受ける皮肉な運命。まあ、個人的には、マフィアの大将フランク・コステロを演じるジャック・ニコルソンこそ、この映画を引き締めた一番の真の主演男優ではないかと思っておりますが。
 しかし、しかしですよ、それ以上に、ベラ・ファーミガ(この女優、よく知りませんが)が演じたマドリンは、対照的な二人の運命を繋ぐとともに、その心の支え役なんですよねえ。もし私たちが、二大男優(ディカプリオとデイモン)を絶えず比較したくなった時、観客として何処から二人の心に潜入すればいいか、そう思った時、マドリンが大きな存在になるわけですよ。けっして物語りの進行に大きな役割を担っているわけではないのですが、監督マーティン・スコセッシの計らいでしょうか、二人の男の心の中の葛藤を私たち観客に感じさせるのに、彼女がいつのまにか重要な配役になっているのですね。
 ちょっと浅はかな言い方をしますれば・・・。彼女、結婚までには行き着きませんが、同棲しようとする相手、しかもおなかの中には彼の赤ちゃんが、その相手は、警察に潜入したマフィアの男コリン・サリバンを演じるマット・デイモンです。でも、あとからですが、心が余りにも繊細でついつい惹かれる相手、しかも、映像的には彼とのきわどいシーンもいいじゃないの、そんな相手はマフィアに潜入した警察の男ビリー・コスティガンを演じるレオナルド・ディカプリオ。「ディカプリオくん、ずるいじゃないか。キミばかり、彼女との肉体が接する演技があって」とデイモンくん。すると、「いやいや、デイモンくん。キミのほうのが、彼女に息子を孕ませているんだから、キミの勝ちだよ」とディカプリオくん。そこに、「何を言っとるんじゃ。わしは、どんな関係も関わっておらんぞ。若いからって調子に乗んなさるなよ、わしは、おまんらにホンマは負けへんのじゃからな」のニコルソン様。この三角プラスα関係。
 すんません、ちょっと軽薄短小になりましたな。そう言えば、軽薄短小と言えば、この映画、軽薄短小なるツール、携帯電話が大いなる話の筋に重要な道具として使われていましたね。私は個人的には携帯電話、嫌いなんだけど。これ、どうでもいいですね。
 題名を「ディパーテッド」とした通り、そして、「男は、死ぬまで正体を明かせない。」などと言うキャッチフレーズがある通り、「死人に口なし」みたいに死人を増産する物語でもあります。ふと、マーティン・スコセッシ監督の最高傑作(今でも、これが最高だと思っておりますが)「タクシー・ドライバー」を思い出しました。今回の映画に、その時の主演だったロバート・デ・ニーロが出ていたら、なあんて、ふと思ってしまいました。
 あんまり話が深く掘り下がっていきませんね。ちょっとだけ。で、さきほどのベラ・ファーミガが演じたマドリン、二人の男の心の奥底を一番良く知っている存在。前段の男どもの、いくつかの作家が述べたであろう箴言や名言の類が連発されますが(ホーソンとかフロイトとか、ほんとに言っているかどうかは知りませんが)、男とは、あたかもその場を取り繕い、お茶を濁すように、しかも人の言葉で自らを正当化するように、そんな言葉を連発します。でも、本当の自分は果たして何処にあるのでしょう。警察に潜入したマフィアの男とマフィアに潜入した警察の男、それだけの入れ替わりだけの人生ではないでしょう。
 例えば、ビリー・コスティガンは、まだ仕事としての潜入。しかし、コリン・サリバンの場合、イントロであるように、いつのまにかフランク・コステロは小さい時から父親的存在でもあります。しかし、もうひとつの側面、ビリー・コスティガンには、州警察に新人で入るや否や、自らのそれまでの素性をもとに警察側は彼にその任務を負わせることを適任とします。この二人のすべてを初めから理解しているわけではないにしろ、私たちはベラ・ファーミガが登場する度に、こうした因果も含めて二人の心の奥底を覗き理解しようという気持ちが働きます。
 そして、もし、これが何もマフィアと治安側の警察の話でなければ。この二人の立場を、えいやあ、一刀両断的に最初に定義する(その台詞はここでは割愛しますが)のが、フランク・コステロを演じるジャック・ニコルソンだったのです。社会は、私たちにどんな役割を与え、どんな生き方をさせたがるのか、それにどう応えねば社会に認められないのか、名優ジャック・ニコルソンが教えてくれてます。
 例え、それがネズミのような生き方だとしても生きる手立てはそれしかない、あたかも社会生活とはそういうものなり、そうは思いながらも、人間はネズミになりきれず、同じ穴のネズミによって、バッタバッタと死人となります。死人になれば人間もネズミもなんら変わらない。しかし、ネズミは後から後から沸いてくる、そんな印象を残す映画でしたね。 ところで、いやはや、ラストのドボルザークの「新世界」、日本では「遠き山に日は落ちて」が、アイルランド調のちょっと叙情性を欠くメロディになりながらも、逆に死体たちへの虚しい鎮魂への感情をそそります。
 私如きドブネズミからすれば、かつての大統領がジョン・レノンであってもいいと思うくらい、音楽も懐かしい曲いっぱいがよろし。特に私は、あのピンク・フロイドの超大作「ザ・ウォール」の中でも秀逸なメロディ「Comfortably Numb」にはビリビリ来ました。
 でも、ディカプリオくん、私にゃ、あなたの名演技は、今回よりも以前、同じスコセッシ監督と組みなされた「アビエイター」のがよかったですよ。それと、デイモンくんは、ギリアム監督の「ブラザーズ・グリム」の方がおもしろかったかな。ニコルソン様は、もう文句ないですね、あのキューブリック監督の「シャイニング」以降は文句言うと笑顔で殺されそうで。とかなんとか言いながら、この「ディパーテッド」、やっぱベラ・ファーミガに何かあげたい。ホワイト・デーにクッキー、あげよかな。