1972年1月9日 行方正時の「敗北死」 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

(行方は誰からも注目されず、ひっそりと死んでいった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 行方正時 顔写真


行方正時(享年22歳)

【死亡日】 1972年1月9日
【所属】 赤軍派
【学歴】 岡山大学
【レッテル】 「卑怯者」「不適格者」
【総括理由】 常に安全地帯にいる、女性にカッコつける、非軍人的、開き直る
【総括態度】 (放置されていたため何もいわれなかった)
【死因】 凍死 or 衰弱死


行方の死亡に至る経緯は以下の通りである。遠山美枝子に付随する形で、批判、暴行が行われた。


1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)

1971年12月29日~31日 赤軍派メンバーが榛名ベースへ出発

1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要

1972年1月3日 中央委員会(CC)の発足と行方への総括要求

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び



■「行方は眠ったまま死んでいた」(大槻節子)

 9日の朝、起きると、大槻さんが、私に、「行方が午前1時ごろ死んだ。眠ったまま死んでいた」と報告した。私は、森氏に行方氏が死んだことを報告した。森氏は少しも驚かず、「床下に下ろしておけ」といった。

(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「誰にも注目されることも無く、ただ、ひっそりと死んでいった」(坂東国男)

 森氏は、行方氏の「敗北死」について総括しようとさえしなかった。

(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 行方氏の死をめぐっては、もはや会議は開かれなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 朝、彼の死が全員に知らされたが、驚くものは一人もいなかった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 行方氏の場合は、誰にも注目されることも無く、ただ、ひっそりと死んで行きました。そして、敗北死というレッテルさえはられることなく、一切、人格と共に、その人生を葬り去ったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■「敗北してゆく者として冷酷無残に対した」(森恒夫)
 行方に対する森の視点は、最初から最後まで「不適格者」であった。


 敗北してゆく者として冷酷無残に対した事は、・・(中略)・・なかんずく、私自身の・・(中略)・・指導者としての資格を持っていなかったことを示しているし、・・(中略)・・私の指導の放棄として厳しく問われなければならないと考えている。

 その上で、選抜後の不適格メンバーとしての彼を一定期間予備隊に編入して都市-山岳訓練の反復を経て持久的に軍に編入する道をとるべきであった事を付け加えておきたい。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は、4ページにも渡って、えんえんと行方の批判をなぞったあと、総括としては、指導方法の誤り、ということでケリをつけている。「厳しく問われなければならない」のは、そういう問題だろうか。


■「不適格者」とみなした者を葬り去った
 行方の死は、会議が開かれなかったため、 「敗北死」 と規定されなかったが、森の流儀に習えば、「敗北死」であったことは間違いない。


 行方が死亡したのは夜中の1時ごろであるが、見張りの大槻は誰も起こさなかった。そして朝になって、皆に知らせても、だれも驚かず、森も総括を行わなかった。行方の死は予定調和だったのである。もはや人間性を喪失していた。


 赤軍派の進藤、遠山、行方の3名は、共同軍事訓練から参加したが、森は最初から2軍扱いしていた。榛名ベースに呼び寄せられてからは、一貫して彼らを不適格者として断罪し、死に追いやった。


 不適格者なら、はじめから呼び寄せなければよさそうなものだが、このあたりは、森配下の頭数が足りなかったという事情があったのかもしれない。


 赤軍派3名への暴力的総括は、森が革命左派の死者との数合わせのために処刑したという説や、赤軍派の弱い部分を取り除いたという説がある。


 いずれにせよ、行方の死亡経緯からすれば、森に、総括させようという意思も期待もなかった。まさに、「不適格者」とみなした者を葬り去ったのである。