K-108 ブルータス胸像
K-108 ブルータス胸像 H.83×W.71×D,33m (フィレンツェ バルッジェロ美術館収蔵)
ご無沙汰しておりました。。(もう最近は毎回コレだね・・。ちなみに5月になって初めての記事だ・・)
巷では、ゴールデン・ウィークとやらがやってきたというウワサですが。。。よい子のところにしか来ないのかもしれません・・・。私のところは素通りでした。。。
さて、ルネッサンス&ミケランジェロにはまり込んでしまっているわけですが、
本日はブルータス。言わずと知れた美大入学試験問題の定番中の定番です。

フィレンツェ・バルッジェロ美術館の本物。。
ちょうど一年くらい前に”ブルータス”と名のつくものを連続して取り上げましたが、またあらためて書いてみます。その頃は、この作品が製作された背景なんかがいまひとつ不明瞭だったですが、今回あれこれ本を読んでいてだいぶ分かってきました。。
以前の記事はこちら・・・、
K-165 青年ブルータス胸像 (デキムス・ブルータスについて)
M-428 青年ブルータス半面 (マルクスとデキムスという二人のブルータスについて)
K-108 ブルータス胸像 (マルクス・ブルータスについて)
S-212 ブルータス首像 (ブルータスの収蔵されているバルッジェロ美術館について)
M-493 ブルータス半面 (あんまり内容無しの記事)
さて、ルネッサンスの巨匠ミケランジェロが、なぜローマ時代の政治家であった”ブルータス”の彫像をつくることになったのか??
ミケランジェロがブルータスの胸像を製作したのは、1540年頃、だいたい60歳前後の頃だったとされています。
ミケランジェロのそれまでの作品を辿ってみると、ごく初期の若い時代(古代ギリシャをテーマとした、バッカスなどを作っていますが・・)を除いては、そのテーマは一貫して”キリスト教”の世界観に忠実に沿ったものがほとんどです。ピエタ像、ダビデ像、モーゼ像、システィーナの天井画などは旧約、新約の違いこそあれ、キリスト教の範疇にあるものばかりです。
ベルギー・ブリュージュの聖母 (1503~6年 フランドルの織物商人ムースクロン兄弟からの注文で、ブリュージュのノートル・ダム聖堂内の一族の礼拝堂に設置された)
中世から脱却したとはいえ、ルネッサンスの時代はやはりキリスト教が根底にある社会です。パトロン達からの注文のほとんどはキリスト教に関連したものでしたし、ミケランジェロ自身も根本的には敬虔なキリスト教徒でした。
それがなぜ老境に入ろうかという年齢の時に、唐突に古代ローマ時代の政治家の彫像を作ることになったのか?シーザー暗殺事件が起こったのは紀元44年ですので、キリスト教とはまったく関係ないテーマです。
カエサル暗殺の図
古代ローマの政治体制は長らく共和制の体裁を維持し続けていたわけですが、そこから独裁制へと一歩踏み出したのがシーザーです。ブルータスを首謀者とした反対勢力によってシーザーは暗殺されますが、結局は皇帝が支配する帝政ローマの政治体制へと移ってゆきました。
この独裁体制に”待った!”をかけたブルータスの彫像を製作したミケランジェロは、自分の意思だけでこのようなテーマを選んだわけではありません。
当時の芸術家にとって、作品制作の一番の動機づけはパトロンからの”注文”でした。それは、すでに当代随一の芸術家としての地位を不動のものにしていたミケランジェロも例外ではなく、教皇、メジチ家などのパトロンからの要望に応える形で作品を制作していました。
このブルータス像の場合は、フィレンツェの”共和制支持者”であったリドルフィ枢機卿という人物からの注文に応じて、1540年にミケランジェロは製作にとりかかりました。
”フィレンツェの共和主義者”であるリドルフィ枢機卿は、このブルータス像を発注した時点では既にフィレンツェには住んでいません。かれはローマへ亡命している身でした。彼が亡命しているということは、この時点で既にフィレンツェは”共和制”ではなかったということです。
1532年からのフィレンツェは、”共和制”でもなく、さらにメジチ家を影の支配者とした”共和制”でもない、純然たる君主制の”メジチ公国”となっていました。かつての共和制時代にメジチ家と対抗しうるような勢力をもっていた名家の人々は、こぞってフィレンツェを脱出し亡命する身となっていました。
共和制フィレンツェの崩壊後、1532年に初代フィレンツェ公となったアレッサンドロ・デ・メジチ
共和制支持者たちは、幾度となくメジチ公国と戦いましたが、失地を回復することはなく次第にその勢力は失われていったのです。
前述のリドルフィ枢機卿からの、ミケランジェロへのブルータス像の発注は、このような時代背景から生まれたものでした。”独裁者シーザー”を打ち砕いたブルータスの姿に、当時のフィレンツェの独裁者”メジチ家”を打ち砕く共和制支持者のヒーロー像をダブらせてイメージしたのです。
ただ、シーザー以降のローマが共和制に戻らなかったのと同じように、その後のフィレンツェにも共和制が復活することはありませんでした。
共和制支持者の勢力は弱まり、ミケランジェロが多忙であったこと(システィーナの”最後の審判”、ユリウス二世霊廟など)もあって、このブルータス像は頭部のみが製作されて未完となります。胴体部分のほとんどは、ミケランジェロの助手であったティベリオ・カルカーニ(1532~65)によって補足されたとされていますが、このカルカーニがどの程度の作業をしたのかということは色々な意見があるようです。
そして、このブルータス像が、その後辿った運命はさらに興味深いものです。。
未完成でローマに放置された作品は、結局はメジチ家により買い上げられて、フィレンツェへと運ばれることとなりました。現在はフィレンツェのバルッジェロ美術館に収蔵されているブルータス像ですが、メジチ家によって取り付けられたラテン語の銘文にはこう書かれているそうです。。。
「彫刻家が大理石からこの像を彫りだしていたとき、彼は”ブルータス”の犯罪を想いおこして、彫るのをやめてしまった」
確かにね~、”暗殺”っていうのはひどいことだけどさ・・。この付け足したプレートもまためちゃくちゃだね。。
なんとも気の利いたひとことです。。。ミケランジェロが未完で放置したことを、積極的に自分達に都合よく解釈してこんな一文を加えたのです。
当のミケランジェロの気持ちは、比較的明快です。かれは終生”共和制”を愛し、キリスト教の信仰を重んじていました。独裁者としてフィレンツェに君臨したメジチ家のためにブルータス像を未完のまま放置したわけではないのです。
ミケランジェロの後半生は、”共和制”と”メジチ家”との間での板挟みの歴史です。ミケランジェロの内心は明らかな共和制支持者であるにもかかわらず、共和制を否定し独裁支配者(イル・マヌィフィコの時代も含めて)となっていったメジチ家が最大のパトロンだったのですから。
その辺の事情を、次回も少し書いてみます。。
ごちゃごちゃと、長い文章ですみません。分りづらいですかね・・・?
この辺の事情って、あれこれ本を読むうちに最近やっと納得がいってきた部分なんで、なかなか説明が難しいですね~。最初、この3倍くらいツラツラと書いちゃったら、だんだん収集がつかなくなってしまって、ちょん切って次回の記事にすることにしました。
ということで、次回は「ミケランジェロとフィレンツェの社会体制」ということで、またごちゃごちゃした文章でまとめてみたいと思います。自分自身の”勉強レポート”みたいな部分が大きいので。。。苦手な方は軽くスルーしてくださいませ。。。
今回取り上げた、K-108 ブルータス胸像は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。
