高倉健


高倉健さんが11月10日、悪性リンパ腫のため死去していた。83歳だった。
悪性リンパ腫と言われても、ぼくにはピンとこないのだが、調べてみると血液

のがんで同じ血液のがんである白血病と同様の扱いとの事。

健さんは1931年福岡県生まれ。明治大学を卒業後、東映のニューフェイス

第2期生として映画界に入った。
翌年に沖縄の唐手が舞台となっている「電光空手打ち」の主役で銀幕デビュー

を飾った。

翌年に主役デビューといういかにもトントン拍子に思えるのだが、そこには

自分がいかに不器用かと、突き付けられた一つの挫折があった事が、ノン

フィクション作家の沢木耕太郎とのインタビューで語られている。
( 健さんが53歳か54の頃   貧乏だけど贅沢 (文春文庫)より抜粋 )

高倉:いまでも不器用だと思いますけど、僕ほど不器用なヤツって少ないん

じゃないですかね。

沢木:最初から、自分は不器用だと思い込んでいらしたんですか。

高倉:以外と自分は器用だとおもってたんです(笑)。
東映の場合、新人は俳優座へ委託で預けられるんですね。一年の養成
期間がありまして、六か月が俳優座で、あとの六か月が撮影所の京都と
東京に分けられるんです。

僕は俳優座に二ヶ月通ったんですが、その二ヶ月間でいかに自分が他の

人と比べて不器用なのかというのを、本当に思い知らされましたね。
バレエをやってもできない。日本舞踏をやってもできない・・・・・・。

僕と今井健二君のふたりがみんなより一ヶ月ぐらい遅れて入ったんですけ

ど、そのふたりがやるとみんな笑って授業にならないんです。僕らは一生

懸命やっているんですけど・・・・・・・・。

沢木:それがよけいおかしいわけですね(笑)

高倉:おかしいんですね。授業にならないから見学していてください、あな

たたちがやるといつまでたっても授業が進まないからと、それは非常に

自信を失いましたね。

沢木:自信を失って、役者をやめようなんていう気にはなりませんでした

か。

高倉:飯が食えなくなっちゃいますからね。向かないから、あなたはやめた

ほうがいいと言われましたけど、いえ、僕はやめるわけにはいかないんで

すよって、そんな具合でした。

ただ、二ヶ月くらいで僕に役が来ちゃったんですよ。『電光空手打ち』という

映画がね。それで卒業公演も何もやらないまま、ずっと撮影所での仕事が

続くことになって、いままで来てしまったわけです。

                *

その後は「網走番外地」や侠客伝シリーズで次々と主演を務め、映画館に
観客が殺到するほどの爆発的な人気を博した。社会の矛盾に斬り込み、

自らの信念を貫くというアウトロー像は、安保闘争に明け暮れる当時の若者

を鼓舞し、熱狂させたという。

それは「社会現象」とも言うべき狂騒で、昼は学生運動に携わり、夜は健さん

主演の映画を見た後で、ネオン街を肩で風を切って歩く若者の姿が日本

全国で見られた。

デビュー20周年にあたる1976年に東映を退社。
同年公開の「幸せの黄色いハンカチ」では、刑期を終えて出所してきた元

受刑者を演じた。その映画は、第1回日本アカデミー賞や第51回キネマ

旬報賞などのその年の映画賞を総なめにした。

ぼくもこの映画は好きで、武田鉄矢はこの映画で俳優デビュー。
彼がその後、ドラマ、映画で活躍するきっかけとなった作品でもある。
武田鉄矢はこの映画が自分のベスト作品だったと、語っている。

最後の作品となった「あなたへ」(2012)までに、「遙かなる山の呼び声」
「八甲田山」といったヒット作を含む205本の映画に出演。テレビドラマには

ほとんど出ることなく、生涯「映画俳優」であることを貫いた。
映画史においては、日本のスター・システムの終わりを見届けた俳優、と
位置づけられよう。

しかし、高倉健さんの心の中では映画俳優を極めた事に関してすっきり
しない心の内を同様に、沢木耕太郎にインタビューでこのように述べてい

る。


「すごく恥ずかしいのですが、この三、四年ですか、自分が追いかけてき

たのは何なのかなと、まったく見当がつかなくなっちゃったんですね。
自分が心から望んでいたものと違ってしまったんじゃないかという気がす

るんです。

お金も、日本でいちばん高いギャラがとれる俳優に、とにかくなりたいなと、
非情に単純な、志の低い俳優で二十何年きましたけど、なんとなくその上位

のほうにいまきちゃっているというのがわかったら、それじゃないんですよね。

では賞かというと、賞も運がよくて、この何年間でいくつかいただきましたけ

ど、それでもない。何を追いかけてきたんだろう・・・・・・
わかんないんですね。」

高倉健さんの訃報は海外メディアも速報で伝えている。
1989年、米映画「ブラック・レイン」で、マイケル・ダグラスと共演したことか

ら、Ken Takakuraの名は米国でも広く知られている。

プライベートでは1959年、当時人気歌手だった江利チエミと結婚したが、
1979年に離婚。以降は独身だった。2006年度文化功労者。2013年には文化

勲章を受章した。


高倉健さんに関する各コメントや思い出の記事はどれもが、興味を惹かれる
言葉がある。その中でも脚本家・倉本聰(くらもと・そう)さんが述べていた

エピソードが僕には心に残った。
            
               *                


健さんとは、話をしていると5分か10分、間(ま)ができてしまうことがしょっ

ちゅうある。それに慣れるのが大変でした。あんまり黙ってしまうので、気を

悪くしたんじゃないかと思ってつい何かしゃべろうとするのですが、ご本人は

5分前に交わした会話をずっと考え込んでいるんです。

ものすごく慎重に考えて話をする人でした。九州男児ですが、お父さんから、

男は一生で二言、三言、しゃべればいいんだ、と教育を受けていたらしい。

本当にそういう感じでした。


あれだけ本気に映画に向かわれる方は、そうはいないと思います。1本の
作品に向き合ったら、それ以外は何もしない。かけ持ちなんてしないで、
何年かに1本ですからね。

最後のスターですよね。今はマスコミがみんな私生活を暴いてしまいます
が、彼はそれは絶対に嫌だったから、私生活に関しては徹底して秘めてい
た。あそこまで秘めている方は、ほかには原節子さんくらいでしょう。

それに、もうお年なんだから老人の役をやりませんかと話しても、絶対に受け

なかった。断固として老人役は嫌だという態度を最後まで貫いた。
強い男のイメージを崩したくなかったんでしょうね。そのままお墓に持っていっ

てしまいました。(談)


参照:高倉健さんが死去──日本のスター・システムの終わりを見届けた俳優
    高倉健さん死去 倉本聰さん「強い男、貫いた最後のスター」


PR:貧乏だけど贅沢 (文春文庫)

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