松本城から考える、情報の信憑性 | 特許翻訳 A to Z

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1992年5月から、フリーランスで特許翻訳者をしています。

先週、長野に出張した際に宿泊地が松本城の近くでしたので、朝早く天守の中まで足を運びました。
時間の都合で四階までしかあがることができなかったのですが、とにかく階段の勾配が急なのです。

あとで調べてみたところ、松本城の階段勾配は50~61度で、最大蹴上げは39cm。
感覚的には階段というより梯子で、なるほど61度はきついなと。
これは日本一急だそうです。


次に疑問に思ったのが、「なぜ」これほど急勾配なのか、ということです。
天守はどこも多かれ少なかれ勾配が急なようで、インターネット上ではさまざまなことが言われています。

比較的多かったのが、敵が昇りにくくするためというものなのですが、知恵袋等のQ&Aサイトでは、これを正面から否定する意見も。

天守の最上階にいて敵に火を掛けられたらひとたまりもないから攻めを考えると筋が通らないとか、そもそも天守は生活空間ではなく備蓄庫だったので、敵が中まで攻めてくることは考慮されていないとか、実用ではなく芸術的・デザイン的な観点で作られたのではないか、とか。

印刷物でも、たとえば『東京人』第25巻、第11号の79ページに、「現存する小規模の天守をみると、狭くて急勾配の階段しかない。敵が攻め入ってきたとき、昇りにくくするためというが、その状態なら落城は目前である。たとえば、柴田勝家は福井城の天守に火を放ってお市の方を道連れに切腹し、豊臣秀頼と淀殿も炎に包まれる」として、敵説を否定したものがありました。

こうしたことを考えると、おそらく敵が云々というのはイメージ的なものでしょう。
それ以前に、巷では「城の階段」「天守の階段」と十把一絡げにしすぎているような・・・

日本に現存する天守は建てられた時代も違えば地域事情も違いますから、全部が全部「同じ理由で」勾配をつけているとは限りません
 
そこで調べてみたところ、論文がありました。
  重層建築の考察 : 階段について(日本設計技術,建築歴史・意匠)

この論文では、現存する12の天守と諸櫓、実測図のある岡山城と広島城を対象にして、階段を分析しています。
まず、下階と上階が同大なのか上階が逓減するかに区分し、さらに各階を「身舎」と呼ばれる室空間と、武者走りとしての「入側」にわけ、下の入側から上の入側に上がるとか、身舎から入側に上がるとか、特殊な形態だとかいった具合に配置をみているのです。

この論文には、「なぜ急勾配なのか」ということは書かれていないのですが、ただ、階段配置に配慮が薄かった時代から、重層建築の浸透に伴って工夫がなされるようになった時代、天守の室としての機能が薄れていった時代の違いは、透けて見えます。

大ざっぱにこの3パターンにわけるだけでも、勾配の理由は異なる可能性があります。
インターネットは便利になりましたが、社会に普及すればするほど情報の信憑性・信頼性の維持は難しくなっていくのかもしれませんね。

そんなこともふと思った、長野出張でした。

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